新納忠元譜
永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
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永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 177頁
永禄十年十二月二十九日、市山城将の市来家利・伊集院久慶らが西原で菱刈隆秋方と戦って戦死したため、馬越城にいた新納忠元が市山城守備を命じられたことを記す。忠元には蒲生の采邑が与えられ、大口城を落とした際には地頭とする旨も伝えられた。
永禄十年十一月廿二日~廿四日 / 冊子 169~170頁
永禄十年十一月の馬越城攻めを義弘の働きを中心に記す。城壁を越えようとした辻・有馬・久富の三人が井手籠氏父子に討たれると、義弘が自ら太刀を取って強敵を斬り、諸将も門壁を破って井手籠父子以下多数を討った。勝利後、菱刈の諸城は大口城へ退き、隆秋は相良氏の援軍を得て同城を守った。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 167~169頁
菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。進軍中に烽火を認めて敵の謀略を警戒したのち、翌二十四日に総攻撃し、義弘らが城門・城壁を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八城と横川が退去・降伏した一方、菱刈隆秋は大口城に籠り、相良氏の球磨・八代援軍が入城した。
永禄十年 / 冊子 160~161頁
永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納忠元を守将とした経過も載せる。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。
永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
永禄十年八月~永禄十一年十一月 / 冊子 175~176頁
菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたとの見方も述べる。