伊東祐久書状
(寛永十四年)十一月十六日 / 冊子 693頁
島津弾正が使者として来訪し、書状と巻物一箱を贈られたことに礼を述べる。家久が少し快方に向かったことを喜び、自身は暇を得て領国へ帰るので、在所から改めて挨拶すると伝えた。
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(寛永十四年)十一月十六日 / 冊子 693頁
島津弾正が使者として来訪し、書状と巻物一箱を贈られたことに礼を述べる。家久が少し快方に向かったことを喜び、自身は暇を得て領国へ帰るので、在所から改めて挨拶すると伝えた。
(寛永十五年)正月廿五日 / 冊子 743頁
両名が当城の番を命じられて二、三日前に着船したことを知らせる。城外に潜む一揆勢を山狩するよう松平伊豆守・戸田左門から指示があり、薩摩勢を差し越すとの意向を承知し、家久の病状も案じた連署書状。
(寛永十五年)十一月廿三日 / 冊子 827~828頁
御継目の礼が済んだことを祝い、薩摩守への祝意の取次ぎを頼むとともに、翌春の参勤時に詳しく述べること、肥後天草在番の往還で受けた饗応への謝礼が遅れたことを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 761頁
天文七年秋七月、宗子忠勝が城を失って一族・家臣が離散した際、十三歳の安萬が父祐久に従って田布施へ移り、梅岳君に仕えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 765頁
天文七年、十三歳の忠元が籠城中の志布志で領主北郷忠相らと攻防し、城を退くに際して父祖以来の家臣とともに戦った若年時の勲功を記す。
寛永15年正月25日 / 冊子 786頁/原整理番号 869
当地の城の番手を命じられて二、三日前に着船したことを報告する。切支丹がなお島内に隠れているため、松平伊豆守・戸田左門から山狩を命じられており、薩摩側の人数派遣を承知したと述べる。相応の用務があれば知らせるとし、家久の病状を気遣う。
「寛永廿一年」十二月十六日 / 冊子 367頁
島津光久譜の記事。寛永二十一年十二月十六日、留守居の新納久詮が諸大名の留守居とともに評定場へ出席し、井上筑後守・宮木越前守から、各領国の地図を幕府へ献上するよう命じた条書を受領した。日向国の領地は諸氏に分かれている一方、薩摩・大隅・日向三州の地図は島津光久に一括して献上させることとなったため、飯野城主伊東祐久・縣城主有馬康純・財部城主秋月種春・佐土原城主島津久慶に、光久の命に従って地図作成を担わせた。
寛永二十一年十二月十六日・正保四年四月十七日・五月二十四日・七月四日 / 冊子 72頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0140
寛永二十一年十二月十六日に受けた領国絵図作成の命について、日向の相給領主伊東大和守祐久・有馬蔵人康純・秋月長門守種春・島津但馬守久雄の草稿を家臣肥後長左衛門盛行に総括させた経緯を記す。盛行は正保四年四月十七日に鹿児島を発ち五月二十四日に江戸へ着いた。七月四日に井上筑後守政清の邸で図の可否を伺い、清書して捧呈する指示を受け、その内容を芝の屋敷で四家の家老へ伝えた。
年月日未詳 / 冊子 74頁/原整理番号 116-1
伊地知季安の記事。富岡城を警固する伊東大和守祐久が上津浦の薩摩三将へ書状で音問したため、島津久賀ら三将が飫肥侯家老の渡邊半右衛門尉へ返書して謝意を伝えた。
二月五日 / 冊子 74頁/原整理番号 116-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が渡邊半右衛門尉へ、先日の使者としての来訪と伊東大和守祐久の書状を謝す。上津浦番所を大隅守が命じられたため自分たちが当地へ来たこと、近所なので今後も連絡し、異変があれば早く知らせるよう求める。
寛政元年六月九日(遷宮記事、再興経緯を併記) / 冊子 1039頁/原整理番号 2807/整理ID 2807
天明丁未の秋、重豪が参府の途中に出水で天満天神の銘を持つ神鏡一面を得たことを起点に、翌年に旧跡で天満宮を再興し、十一月に完成して米津天神と称した経緯を記す。伊東丹治祐久・西郷休太郎盛次を祠官とし、同郷の幸善寺に別当職を兼ねさせ、府学教授山本正誼に由来の撰文・石刻を命じた。重豪自筆の由来記と神号、太刀一腰、菅公の墨帖の臨写二冊を社内へ納め、六月九日に遷宮を行い、当番頭鎌田蔵人正方を遣わして黄金二百疋を献じた。祭日は毎年二月二十五日と九月四日とする。
年月日未詳 / 冊子 459頁/原整理番号 445の1
飫肥城主伊東祐久の家老伊東祐忠らが、上使がどの国に兵を催すのか定かでないため、山田民部少輔へ檄を送り事情を尋ねたことを記す。あわせて島津家久が土井利勝・酒井忠勝ら江戸老中へ書状を送り、去月八日の注進への返答と奉書を確認した経過を述べる。
正月21日 / 冊子 768~769頁/原整理番号 822
黄門が朝六つ過ぎに目覚め、痰が上って苦しみ大量に吐血したため琢庵を呼んだと急報する。喉の腫物の痛みと食事低下があり、久国は回復が難しいと案じる一方、黄門は容体が危急となっても軍衆を引き揚げさせない意向を示したと伝える。付記では、松平主税助・伊東祐久の富岡城警固と薩摩への上津浦番手の命令、物頭五人の配置、稲留軍介による書状送達を説明する。
安政三年二月彼岸 / 冊子 332~333頁/原整理番号 10
久仰が先祖の聲貞閑一大姉のために建てた墓碑の銘。大姉は周防守久友の娘で加賀守祐久の室となり、子女を生んだ。祐久に従って志布志へ移り、天文年間の騒乱では家人と田布施へ避難し、子の梅岳が十三歳で奉公を始めた。梅岳が国の柱石となって大口に住むと大姉も従い、六月廿一日に没して専念寺に葬られたという。墓石の式心門一大姉・家譜の門一房・神主の聲貞閑一大姉という法号の異同、旧碑の文字磨滅と子孫の継続を記し、安政三年の新碑建立を述べる。
安政三年二月彼岸 / 冊子 333頁/原整理番号 11
聲貞閑一大姉の墓碑の裏面銘。加賀守祐久の室で忠元の母であり、六月廿一日に没したが年は伝わらないと記す。碑の法号は式心門一大姉、家譜は門一房と異なるとし、昔から二斛を香資として寄進していたこと、長年で碑が壊れたため新たに建て、さらに香資を付したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 333~334頁/原整理番号 14
忠元が十三歳の天文七年、志布志城の忠勝と飫肥方の北郷忠相が攻め合っていたため、父祐久が同年七月に城を退いたと記す。忠元と弟忠清らは伊作方に召し出され、祐久の叔父漁隠を頼って田布施へ出た。日新は山城守忠光を頼っていた縁で祐久を召し、久しい後には子孫も日新の家老として仕えたという。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 16
忠元の年譜が、天文七年に忠勝の敗落で家臣が離散し、安萬も父祐久に従って田布施へ移ったと記す。十四年、大中公が伊集院にいた時に入来院重朝が背き、八月七日頃に神殿から兵を出して郡山城を夜襲した。忠元は諸将とともに城へ迫り、先に柵を登って山口某と刀で戦い首を取った。初めての従軍で槍傷を負い、その時は十九歳だったという。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁/原整理番号 120-1
久仰が泉徳寺本尊後光裏の銘と寺の由緒を考察する。以前は由緒の概要しか分からなかったが、萬延元年の公用調査で銘が見つかった。龍伯が懸命地を与えて寺を建立したこと、忠元が父祐久の菩提を弔い、弟忠堯らの供養をしたという伝承を、忠元・忠恒の名と再興銘から検討する。宗心の忌日に朝鮮渡海を控えて念仏した記事も参照し、懸命地は忠堯の戦死を深く悼んで与えられたのであろうと考える。寛正六年の田代氏文書に「千徳寺」の前とあることも、泉徳寺の証拠として記す。
年月日未詳 / 冊子 727頁/原整理番号 754
十七日、小笠原壱岐守・来嶋丹波守が島原の城代として到着したと記す。また松平主膳・伊東大和守・御横目杉原四郎兵衛を天草の城代等として遣わし、同日に天草へ到着したとする。
年月日未詳 / 冊子 727~728頁/原整理番号 756
島原城に人がいなくなったため、小笠原壱岐守を城代に、来嶋丹波守を加番として差し置き、長崎や各浦の支配・警備を堅く命じたと記す。両人は正月十七日に島原へ到着した。また天草城代に松平主膳・伊東大和守、御横目に杉原四郎兵衛を遣わしたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 728頁/原整理番号 757
天草富岡に在番する松平主税助・伊藤大和守に、中納言島津久光が北郷佐渡守を通じて連絡したと記す。上津浦の番手人数は松平伊豆守から薩摩へ命じられ、島津豊後守・喜入摂津守・入来院石見守・北郷佐渡守を物頭として置いたため、用務を申し付けてほしいと伝え、相手からも用務は依頼すると返答があった。
年月日未詳 / 冊子 167~169頁/原整理番号 47
那須五左衛門家の系図。那須氏祖を頼賢(為義四男)とし、為信を備中守行家の一男、宗高を八島で扇の的を射た与市とする。宗治は文治二年に島津忠久の薩州下向に先陣して日向国臼杵郡に住したといい、義祐は楠正成に従って北条高時・大仏貞直方と戦い、河内国千剣破城で戦死した。元祐は応永四年、筑後国上妻で菊池武政方として大内義弘と戦い、大津主水祐を討つ。高久・祐英らを日州椎葉山小崎城主とし、高治が島津義久の旗下となったこと、慶長十八年の椎葉山一揆後に祐実が安藤対馬守へ預けられ上州高崎で没したことを記す。曽我祐巻は日州宮崎城主曽我祐郷の子で島津義弘に属し、貫祐の養子となる。末尾は祐為が慶長二年に江戸で島津光久へ御目見した記事と、天正六年に高治が近国境警備を命じられ義久旗下に属したとする伝を載せる。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁/原整理番号 175
師久の次子久安から始め、始良・碇山を称した家の系譜を記す。久安の領地と碇山城への居住、忠安以下の官途、忠親の隅州生別府での戦死、久次の後を継いだ忠種の実家木脇氏を載せる。忠種に男子がないため児玉筑後守利昌の三男を迎えて始良氏を嗣がせたこと、父子の久賀隊への所属、忠種の死を記す。久包は実家喜入氏と母仁禮氏の系譜、出生、小姓奉公、納戸奉行・御近習役と領地頭職、綱久の病を看護した功による褒賞を記し、碇山姓を再び称した経緯と妻子へ続く。