島津義弘書状
(天正16年)5月6日 / 冊子 387頁
島津義弘が川田義朗へ、近日の上洛にあたり、京都での首尾、御家の長久、家中が心を一つにした国の守り、家内安穏を祈念するよう依頼した書状。愚息又八郎(島津忠恒)をはじめ家内のため重ねて祈祷を頼み、祝儀として鵞目百疋を贈っている。上洛前の義弘が家中と留守家族の安泰を切実に願ったことが分かる。
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(天正16年)5月6日 / 冊子 387頁
島津義弘が川田義朗へ、近日の上洛にあたり、京都での首尾、御家の長久、家中が心を一つにした国の守り、家内安穏を祈念するよう依頼した書状。愚息又八郎(島津忠恒)をはじめ家内のため重ねて祈祷を頼み、祝儀として鵞目百疋を贈っている。上洛前の義弘が家中と留守家族の安泰を切実に願ったことが分かる。
(天正16年)6月24日 / 冊子 400~401頁
上洛後の混乱で書状を送れなかったことを詫び、川田駿河入道から祈念の御札が届いたことへ深く礼を述べる。 今後も祈祷にいっそう精誠を尽くしてほしいと依頼した、義弘の上洛中の信仰と国元との連絡を示す書状。
天正四年四月・八月 / 冊子 478頁
天正四年四月、近衛前久下向中に義久が初めて催した歌合へ新納忠元も召された。八月の高原城攻めでは十三歳の嫡子忠実が大手城戸口から先駆けて負傷し、敵将にも称賛された。落城後の三山城勝鬨では忠元が太刀を進上した。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 490~493頁
義久の鹿児島出発から高原城攻囲、開城、戦後処理、帰陣までを日次で詳述する軍記。門壁を破って水路を断ち、人質交換後に伊東方が退城、周辺諸城も帰属した。野尻への示威、三山での勝鬨と義弘への宛行、相良・天草の祝使、白鳥権現参詣を経て鹿児島へ凱旋した。
天正九年八月 / 冊子 696~697頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや耳川出陣時に敵対したため、島津義久が三州の大軍で水俣城を攻め、新納忠元も談合衆として先陣の家久勢に加わった経緯を記す。矢文連歌を交わしたのち、義陽が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬と息子兄弟を差し出して和降を願い、囲みが解かれた。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
年月日未詳 / 冊子 71~73頁
天正十三年八月、島津忠平(義弘)が大軍を率いて八代から肥後の隈庄方面へ進み、阿蘇・甲斐宗運方と対峙した長篇の軍事記事。花山城救援、城下や河川での攻防、敵船との戦い、諸隊の進退と戦死者を詳しく記し、義弘は各地の軍報を受けながら包囲・撤兵を判断して八代へ帰陣した。その後、隈部親泰・合志親重ら在地勢力の使者を迎え、太刀・馬などの贈物を受けて今後の対応を協議する。戦場の推移から戦後の饗応・贈答・服属交渉までを連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 88~94頁
天正十三年閏八月、上井覚兼が肥後戦線と島津家中の動きを連日記録した長大な日記区間。八代・隈庄・堅志田方面の城番、普請、兵員・武具・兵糧の配置、敵方の帰順、捕虜・人質の処置をめぐり、島津家中の当主・重臣らと書状・使者を往復させる。軍事協議の一方で寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞い、家臣の訴訟処理も詳しく、占領地維持と家中の日常実務が同時に進む様子を伝える。
(慶応二年)三月 / 冊子 5~6頁/原整理番号 7
伊地知季安が前掲条書の蔵人を伊集院久近、美作守を野村良綱と推定し、両人の兵道の師や伝書に触れる。国分金剛寺の御ほろと、伊作大汝八幡社の白母衣を包む二重の錦袋を検討し、その母衣が古くからの伝来品か義久の新製品かはなお吟味を要すると述べる。
慶長十八年正月廿四日 / 冊子 425頁/原整理番号 171
相良義陽の北原・菱刈への妨害を受け、天正九年八月、島津兄弟が大軍を集めた。芦北へ先陣を入れ、十九日には大口から水俣を囲み、忠元が寄せ手へ夜襲を勧めたと記す。城方の瀧間美作守の発句に忠元が返歌したことも載る。九月十五日に水俣など五城が和降し、義陽が息子らを人質として出した。勝利は忠堯と川田義朗の働きによるとし、末尾に家伝などによる別伝と義朗の墓・由緒の注記を置く。