大川平九兵衛書状
八月 / 冊子 287頁
大川平久兵衛が八月付で松下為右衛門へ出した書状。図書老・出雲守父子の命で高麗の軍記が編纂されていることを知り、高柳好左衛門行文に大川平源太左衛門の戦死記事を書いてもらった経緯を説明する。先の書状へ写して送るよう命じられたため、老眼で見苦しいながらも書写して送付すると述べる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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八月 / 冊子 287頁
大川平久兵衛が八月付で松下為右衛門へ出した書状。図書老・出雲守父子の命で高麗の軍記が編纂されていることを知り、高柳好左衛門行文に大川平源太左衛門の戦死記事を書いてもらった経緯を説明する。先の書状へ写して送るよう命じられたため、老眼で見苦しいながらも書写して送付すると述べる。
(貞享四年)十一月廿三日 / 冊子 804~805頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2114
新納久了が河野為右衛門へ、紀州漂着の呉国船が長崎へ送られた件の書付と船図を保管し、琉球側にも周知して今後の漂着船対応に役立てるよう命じた達書。
七月廿八日 / 冊子 84頁
記録所が古目録・坪付・文書・開本など多数の旧記を受け取った請取状。各冊数・通数と所持者を列挙し、御用のため一時預かり、用済み後に返却すると明記する。
貞享五年十月十日 / 冊子 817頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2157
島津家老衆が、琉球側へ渡した銀高七百六十貫目について、毎年の返済分や前年までの納入額、河野為右衛門が書き出した額を示し、残額を今後も所定どおり返済するよう命じた達書。
11月28日 / 冊子 432~433頁/原整理番号 405の2
天草行きに市来湊から仕立てた六端帆一艘について、舟頭為右衛門に赤米二斗、加子七人に一石五升を支給する。十一月二十八日以後二十日分を舟頭一日一升、加子一人七合五勺で算用して市来湊で渡すとし、到着後の次の飯米を平田民部少輔の下知に従って手配するよう是枝喜右衛門へ知らせる。
正月十三日 / 冊子 10頁/原整理番号 6-2
伊地知季安が、軍衆人数差出留の「三口合」は正月十三日・十四日・二十六日の三回の集計だと説明する。七日・八日以前に出立した衆も多かったが、賦方の村田郷左衛門経乗・猪俣為右衛門則康が十三日に米之津へ着いて人数差出を取り揃えたため、帳簿は十三日から二十六日までとなったと推定し、その後の人数増減を記す別帳が見当たらないことを惜しむ。
慶長六年八月七日 / 冊子 32~34頁/原整理番号 45-3
慶長六年八月七日、島津忠恒・惟新・龍伯が連署して諸士・外城衆・百姓らに示した掟。命令への異議、武具の油断を禁じ、100石につき具足1領を用意させ、出陣時は25石取以上を自飯、25石未満でも門屋敷持を自夫とする。殿役不勤は門1つにつき領主知行1石を召し上げ、番・普請・狩の懈怠が3度に及べば所領を没収する。上下を問わず喧嘩を禁じ、私闘は理非を問わず双方を処罰する。外城衆には地頭の下知への服従を求め、戦場で地頭の手を離れて挙げた高名を忠節と認めず、地頭の無理は披露させる。このほか、無許可乗馬・余分な携行品の禁止、百姓(女性を含む)の卯刻出・戌刻帰、逃亡者の相互匿い禁止、奉公人の怠惰禁止、召集・供・夫・飛脚の即日履行、親類縁者を雇う徒党、大振舞・私的大酒、期限超過の納付を取り締まり、違反者は士なら所領没収、凡下なら成敗とする。編者は『旧記雑録後編三』2534号と同一とし、寛永十五年の島原衆への御袖判法度が本掟を踏まえた可能性を論じる。また田中綱紀が写した猪俣家蔵本から転載したとし、猪俣為右衛門則康が賦奉行として保持した本か後世の写本かは不明と留保する。
二月四日 / 冊子 68~69頁/原整理番号 108
川上久国・三原重庸が島津久賀・喜入忠政へ、加世田内記が持参した御状・条書への返答を伝える。薩州様が大勢を率いて出張するなら態勢が変わるが、松平伊豆守信綱から参陣不要と指示された場合は番手だけを残して帰陣するため、まず確認するよう求める。北郷久加・入来院重国にも知らせ、村田郷左衛門・猪俣為右衛門と筆者衆を米之津へ急行させるよう追伸する。
「寛永十九年」七月廿一日 / 冊子 207~208頁
島津久通ら三名が、荒廃して百姓の少ない島原・天草へ隣国から百姓を移すとの幕命について、薩摩も百姓に余裕がなく田畠が荒れる懸念はあるが、天下の下知であるため従わざるを得ないと伝えた連署書状。使者の到着後すぐに相談し、隣国の様子も聞き合わせて移住の手配に尽力するよう求めている。
11月28日 / 冊子 428頁/原整理番号 401の1
十一月二十八日、善右衛門・為右衛門・彦二郎・惣右衛門の六端帆四艘について、舟頭を含む各八・八・八・七人の飯米を列記する。同日以後二十日分を舟頭一人一日一升、加子七合五勺で算用し、それぞれ渡すよう命ずる。舟頭各二斗、加子は七人の船に一石五升、六人の船に九斗を記すが、彦二郎船の加子七人分は「一石五斗」とあり、算用との不一致を保持する。
「寛永十九年」七月廿五日 / 冊子 208~209頁
島津久通ら三名が、鍋島信州の家老衆から知らされた『かれうた船』への警戒と通報手順を指示した連署書状。船が甑島方面に現れた場合は鹿児島を経由すると遅れるため、長崎および高力家へ島から直接急報し、早飛脚を用いるよう新納勘解由らへ申し渡すことを求める。あわせて島原・天草への百姓移住の使者派遣を知らせている。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の3
十一月二十七日、市来湊町から立てた源太郎・茂兵衛尉・五右衛門の三人を記し、続いて同日付で彦次郎以下二十四人を列記する。後者は市来湊から立てた浜村の者として、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ受取りを命ずる。二十四人の名簿には久三郎が二度現れるが、別記のまま保持する。三人の先行記載と二十四人の合計を混同しない。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
寛永15年正月19日 / 冊子 757~759頁/原整理番号 803
出水米之津と黒之戸で定めた天草出陣人数を、久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻り245人、兵糧渡衆15人、総計11,268人とする。人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人に分け、先に島原へ渡った衆や諸湊から直接渡海した者、未着者など、人数不明・除外の事情を細記する。寛永十五年正月十九日、賦所二名が花押を据え、相良ら四名に宛てる。
寛永15年正月20日 / 冊子 764頁/原整理番号 816
谷山衆有馬氏所蔵の、寛永十五年寅正月二十日肥前天草立人数の名簿。西田貞右衛門、有馬千兵衛純堯、東郷長左衛門重尚らの名を列記し、東郷長左衛門内の吉利覚右衛門も載せる。夫丸を含む総人数の集計はない。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 30~32頁/原整理番号 45-2
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に備え、武器・軍勢・奉行・輸送・兵糧などの割当を列挙した頭書。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御道具衆の鑓200本、馬乗衆50騎(分限役の馬は別)、陸衆150人(外城衆は別)、召立乗馬50騎とする。有馬には3,262人中782人が帰り2,480人、天草には5,201人中1,624人が帰り3,577人が残り、両地の残留総数を6,057人とする。軍勢の兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、旗本・供衆、船手奉行、先備、玉薬、持道具、番道具、普請奉行、法度、武器別奉行・備頭、仮屋、使番・使衆・右筆・代官・給書・物荷・膳配・同朋・小姓・評定・医師・納戸・進物・門番・陣僧・振舞等の担当や準備事項を挙げる。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人なども定める。末尾で編者は、『旧記雑録後編五』222号文書と同文だが後半を欠くとし、以下は二月朔日の肩書により同日に写載したこと、軍衆法度の旧留は続く三公の掟を指すらしいと注記する。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 37~40頁/原整理番号 55
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に際する御備・軍勢・奉行・輸送・兵糧等の割当帳。冒頭に「正文在文庫」「二重除之」とある。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御兵具衆の鑓200本、馬乗衆50騎、御陸衆150人、召立乗馬50騎とする。有馬3,262人のうち782人、天草5,201人のうち1,624人が帰還し、両地の残留総数を6,057人とする。御供、兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、法度、船手・先備・玉薬・持道具・番道具、火番・合印、武器別備頭、使番、仮屋、代官、絵書、荷物、医師、祈念、評定所筆者、納戸、進物、陣僧などの担当・準備事項を列挙する。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人等も定める。二月朔日の項では幕・進物蔵・送状、朱書の宿泊地等を扱い、二月七日には両条を新納右衛門佐へ申し渡す。さらに当地に必要な殿役・船・普請・町・蔵・兵具・馬屋・物奉行等を列挙する。編者は『旧記雑録後編五』222号文書と同一と注記する。末尾の「晦日甲午」は次の日次見出しである。
年月日未詳 / 冊子 129~130頁/原整理番号 206
『国分賦所日記』。二月九日条の続きとして、高岡・穂佐・倉岡・野尻・綾の各衆を槍・鉄砲・弓・賄などに分け、五か所計百五十六人と記す。続いて二月十三日の人員を掲げ、合計七百三十六人、内訳を鹿児島衆百十六人・外城衆六百二十人などとし、別に昇差百五人・詰夫二十七人を記録する。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁/原整理番号 172
始良氏の家事と奉公を記した事書。慶長八年二月十四日に猪俣則康が鹿児島へ戻った後に生まれたと記し、寛永七年八月から御船手奉行所を勤め、寛永十二年五月には家久の供で江戸へ上った。進物蔵役に任じられたが帰国予定のため蔵役を免ぜられ、野元権右衛門と交替して奉公したという。慶長十八年・元和六年・寛永九年・萬治二年の新次郎・三郎兵衛・十郎兵衛への俸禄も列挙する。
二月廿六日 / 冊子 196~197頁/原整理番号 319-2
二月二十六日付の島津久元外三名連署書状。肥後十右衛門尉・米助右衛門尉が進物蔵の改めを行い、残りが少ないので首尾を整えたいと改め衆が述べていること、三原五郎兵衛尉と父次郎左衛門尉が庄内と当地を往来して苦労し、倅者らにも差し支えがあるため帰還を願っていることを伝える。そのうえで渋谷石見守・北郷佐渡守に早々に戻るよう求める。追而書では、猪俣為右衛門尉が当地の支配の首尾を知っているので、御用のため戻るよう求める。本文には複数の欠字があり、内容を推測補入しない。
明暦二年三月十九日 / 冊子 276頁/原整理番号 35
一向宗本尊を保管していた助左衛門が高齢で歩けないため、小者の権介に仏具を持たせ、住まいの斎藤為右衛門も付き添わせて差し出す旨を宗体奉行に知らせる。
元禄十三年春~元禄十五年夏 / 冊子 202頁/整理ID 687
元禄十三年春、蒲生十郎兵衛清賢が琉球国在番奉行に任じられ、元禄右衛門友成・染川忠兵衛安貞・松田為右衛門義直・竹之内彌右衛門実貞の四人が副役として同行した記事。清賢らは元禄十五年夏に任期を終えて薩摩へ帰った。