島津元久書状
応永六年三月廿九日 / 冊子 182~183頁
島津元久が田代清久へ、国勢がまだ集結せず中途に長く逗留していることを案じ、催促して近日中に集結させると伝えたうえで、市来辺ではなく山門へ急いで移り、当地から継続して注進するよう求めた書状。
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応永六年三月廿九日 / 冊子 182~183頁
島津元久が田代清久へ、国勢がまだ集結せず中途に長く逗留していることを案じ、催促して近日中に集結させると伝えたうえで、市来辺ではなく山門へ急いで移り、当地から継続して注進するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 147頁
田代刑部少輔清久の譜として掲げられ、前後の段銭関係文書に付された系譜・伝来上の注記を記す記事。
応永三年正月十一日 / 冊子 164~165頁
伊集院有久・清久が、亡父景雲の追善のため、薩摩国伊集院内折原名にある田畠・薗・山野などの本領を廣濟寺へ寄進した連署寄進状。
年月日未詳 / 冊子 178頁
田代清久譜の記事として、応永五年六月、清久が参津で要した費用を弁じるため領土の沽却を願い、十五日に島津元久が袖判を加えて許可を報じたことを記す。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 178頁
田代清久が、島津氏久から七郎入道清久および左衛門尉へ与えられた五通の書下と、串良院上条・鹿屋院の地頭職・弁分を列挙し、宗次郎の後代がこれに従って知行するよう定めた置文。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 178~179頁
田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について、遊喜田村・土橋村・原村・有里小野村・山野などの境界と自作分を列挙し、知行すべきことを示した譲状。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 179頁
田代清久が、大隅国田代村の四方境を、東は肝付内きしらのしら谷、南は花瀬河下流、西は野ヶ嶺境、北ははけ石・かなくその谷などとして示し、知行すべきことを定めた譲状。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 179頁
田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について村・山野・自作分・屋敷などを列挙し、違乱する者は清久の子孫と認めないとして知行の維持を定めた置文。
年月日未詳 / 冊子 179~180頁
田代清久譜の記事として、応永五年十二月二十五日に清久が久助へ田代の諸村・山野に関する四通の文書を授け、その所領が子孫へ伝えられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 180頁
田代清久譜の記事として、十二月二十五日に島津元久が清久へ書状を与え、正宮造営用の材木を正月中に運び納めるよう徴したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 182頁
田代清久譜の記事として、応永六年三月十四日に清久が久助へ書状を授け、田代内の田園と狩倉を伝えたことを記す。
応永六年三月十四日 / 冊子 182頁
田代清久が、大隅国田代内の東門田二反、南薗彦四郎屋敷などの水田・薗・狩倉を譲与し、違乱する者は清久の子孫と認めないと定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 185頁
田代清久譜の記事として、島津元久が伊久の三男久照を養子として鹿児島の北殿に置いたのち国中が騒乱し、肥後・石井らを下大隅で討ったことを記す。清久兄弟が誓状を差し出し、月末に元久が誓書で応じた経過を載せる。
年月日未詳 / 冊子 186頁
田代清久譜の記事として、探題が肥後河尻に陣して島津元久へ兵を求めたため、元久が清久を大将軍、阿蘇谷某を副将軍として派遣しようとしたこと、固辞する清久へ十二月二日に再度書状を与えて命令を強めたことを記す。
四月十四日 / 冊子 183~184頁
島津元久が田代清久へ、参津を急ぐよう国人衆へたびたび催促していると伝え、まず山門へ移って国人衆を待ち、なお遅れる場合は阿蘇谷方と相談して一人でも出津するよう求めた書状。
六月三日 / 冊子 184頁
島津元久が田代清久へ、来る十五日以前に真幸・栗野両所の間で敵方が軍事行動を起こすとの情報を伝え、合力のため準備して重ねて参集するよう求めた書状。
「応永六年」十二月二日 / 冊子 185~186頁
島津元久が田代清久へ、探題の陣へ大将軍として出陣するよう重ねて命じ、家格・仁・分限から辞退は認められないと説いたうえで、阿蘇谷某を副将軍とし早々に出立するよう促した書状。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
島津国史の記事として、応永八年三月以降、島津久哲が田代清久らを市来へ派遣して城攻め・救援を行い、渋谷氏諸族や鶴田・高城などをめぐる戦闘が続いた経過を記す。多数の合戦・人名を含むため、主要な派兵と攻城の流れに限定した。
応永八年三月八日 / 冊子 199頁
島津元久が田代刑部少輔清久へ、島津庄日向方柏原保内十町分を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 199~200頁
応永八年春以降、市来・鶴田方面で続いた合戦を記す島津伊久譜記事。元久方が各地を攻撃して苦戦すると、伊久方は田代清久ら救援軍を派遣した。市来氏・鶴田氏・渋谷氏を含む各隊の陣配置、兵数、戦死傷、進退を詳述し、戦闘の合間に試みられた和議とその不調までを追う。
年月日未詳 / 冊子 332頁
『島津国史』巻九の補注として、田代久助と清久に関する系譜上の注記を掲げる。
永享六年六月廿六日 / 冊子 367頁
伊集院為久が、薩摩国折原名内の今寺・林園山内の辻堂地、草水、田畠、山野などについて、有屋田有久が廣済寺へ寄進した後、子息清久の退出で闕所となったため改めて帰付し、為久の子孫が違乱なく知行できることを証した文書。
年月日未詳 / 冊子 180頁
島津国史の記事として、応永六年二月二十九日に島津元久が母崇欽禅尼の冥福のため谷山郡宇宿村の田畠・山野・浜海と水田八町を福昌寺へ寄進したことを記す。続いて、大内義弘討伐をめぐる幕府の命令、田代氏や伊作氏に関わる所領争いと元久の使者派遣など、同年の政情を載せる。
「応永七年」正月十一日 / 冊子 192頁
島津元久が田代殿へ、新年の祝意を述べ、探題から合力を急ぐよう求められているため、書状が届きしだい早急に出立・出津するよう重ねて催促した書状。
年月日未詳 / 冊子 780頁
佐多忠成の名乗り・系譜と、明応七年の出生、天文八年秋に薩摩国市来で挙げた戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 289頁/原整理番号 99-1
田代清久譜が、応永六年十一月、伊久の第三子久照が元久の養子となり、鹿児島に住んで北殿と称したことから国中が騒乱したと記す。肥後・石井が下大隅で討たれた際、清久兄弟は誓表を献じ、元久も誓書を与えたとして、次の契状を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
徳治三年八月日 / 冊子 426頁
伊作氏家譜の初代清久について、左京進・大隅守入道・道恵の名乗りを記した短い家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 510~513頁/原整理番号 26
桓武天皇―葛原親王―高見親王―高望親王から平氏諸流を展開し、良望・良将・良兼・良繁・良文の系、忠頼・将常以下の各地の祖、北条四郎大夫時家から時綱・時兼・時政・義時・泰時・時氏らへ続く北条系、惟衡―正度―正衡―正盛以下の伊勢平氏系を並記した系図。忠盛には三十三間堂建立、清盛には太政大臣・厳島再興、維盛には新三位中将、資盛・師盛・清度らには位官を注記する。田代氏の直接の系統では、時盛が伊豆守として当国へ下向し、野上田伊予坊を引いて知行し、源氏から平姓へ改めて建部氏を号したとする。光盛―秀盛―久季の久季は上洛して宇治川で討死し、佐多家が断絶して守護領となったと記し、時盛―実盛―国盛以下から道清・以久・清久・久助へ至る。以久は法光寺を建立し、氏久から良院・鹿屋内高隈村の宛行文書を受けたとし、清久には串良知行などの文書、久助には『三ヶ国の大将軍として探題へ参上』との注記を添える。
極月2日(元久在判、年未詳) / 冊子 513~516頁/原整理番号 26-1
島津元久が田代殿へ、総国の大将軍として探題方へ馳せ参じるよう先日命じたのに辞退するのは分別がないと叱り、家格・人物・分限のいずれにも支障はないので早々に出立せよ、阿積谷殿を副将軍とすると命じた極月2日付書状。後半には田代氏の後続系譜を収め、元久代に河辺で36歳にて討死した人物と法名浄久、その子清玄以下、清久への田代六町分の譲与と元久判、清定の渡海、清光・立清らを記す。至清は忠昌代に加治木で36歳にて討死し、清千は勝久代に帖佐で47歳にて討死、丈清も勝久代に加治木で28歳にて討死したとする。清宣は豊久へ奉公を始め、清辰・清秀・清長・清良・清豊・清金・清房らへ続き、各人の通称・官途・生没年・法名・母方を付すほか、断絶した清安流を上田家が継いだこと、清次を田代伊右衛門の祖とすること、末尾では一人が吉川家の養子となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 546~547頁/原整理番号 30
市来清十郎所持本として、倶漢―正邦―孝親―孝言―忠方へ続く惟宗氏祖系と、宗大納言・友兼・広言・康友らから市来氏諸流へ至る系線を図示した異本系図。広言には薩摩国鹿児島郡司・新田宮執印・藤内右馬丞、康友には島津豊後前司忠久とする注記があり、忠久―忠季―忠経の系、国分寺別当・国分太郎・市来院名主などの職掌を記す。友成を市来太郎・市来郡司大蔵とし、政家・資家・河俣・厚地・時家・家続・家親らへ分岐させる。別系では友清・友義・友重・忠友・友兼・友連から家保・清久・宗海らへ続き、備後守・右衛門尉・刑部丞・新左衛門尉などの官途、法名、出家、妻の出自を添える。末尾では家親の系に『この代より政家は惟宗氏、これより先は大蔵氏』との注記があり、左近将監・田口・来迎寺・植松などの分流も掲げる。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 31
平清盛―重盛の流れを掲げ、資盛・維盛以下から実盛、国盛、時盛、兼盛、道清らを経て田代氏諸流へ展開する系図。時盛の代に当国へ下り、野上田・百引を知行し、源氏へ改姓して建部を称したとの伝承、兼盛が田代を号したこと、野峯崎・串良院の知行、宝光寺建立、高隈知行などを記す。宗次郎らの官途、島津忠昌・勝久期の加治木・帖佐における戦死と年齢・法名、鹿児島在住、川辺居住、慶長・元和・寛永・延宝期の生没記事を収める。また田代久助が島津元久の代、将軍として博多へ派遣される際に辞退したが、河蘇谷を副将として任ずる旨の御証判を元久から受けた逸話を付記する。
「応永六年」十一月三十日 / 冊子 289頁/原整理番号 99-2
島津元久が田代殿へ、肥後・石井の件で荒説があっても信用せず、兄弟・親類が敵方に属した中で変わらず忠節を尽くしたことを喜ぶ契状。今後も噂に惑わされず、今回の振舞いに遺恨を抱かないと約束し、違背した場合には正八幡大菩薩と諏訪上下大明神の罰を受けると誓う。
現行年紀:應安四年八月十四日 / 冊子 119頁/原整理番号 200/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0200
母である人の件を「久清かふちの人々中」に頼み、鬼房を取り立てて人にするよう支援を求める置文。