水引泰平寺薬師堂推鐘銘
永禄六年二月八日 / 冊子 120~121頁
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
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永禄六年二月八日 / 冊子 120~121頁
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、守護方の軍勢が三山へ進み、敵陣を破って勝利し、多数の敵を討ち取ったことを記す年代記事。新藤殿が下向したことも付記する。
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、島津貴久が薩摩・大隅両国の軍勢を三山城へ向けて伊東勢と戦わせ、多数の首級を得たことを記す。球磨へ退いていた北原兼親を真幸へ復帰させたのち、薩摩国伊集院上神殿村へ移した。
年月日未詳 / 冊子 120頁
永禄六年、島津貴久が飯野へ赴き、二月十日に三山の伊東勢を攻めて勝利したことを記す。北原兼親の飯野入城後、島津・相良両方の兵が守備し、十一月十六日には貴久が肝付兼盛の飯野での功を感賞した。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁
永禄六年、貴久が飯野へ赴き、三山へ軍勢を送って勝利したことを記す。北原兼親の伯父が相良兵を吉松へ入れて島津方番兵を討とうとした企てが露見し、兼親の側近も離反したため、兼親を伊集院へ移し、真幸院を島津家領として義弘を飯野に置いた。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
年月日未詳 / 冊子 128頁
島津義弘が真幸院飯野を領して居城とし、永禄六年に鹿児島から移って二十八年間在城したことを記す。飯野で家老・地頭職を務めた五代友慶や、有川・上井・川上・宮原ら家老・使衆を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 161頁
島津彰久室の譜記事。島津義久の二女で新城君と称し、永禄六年六月十六日に種子島左近大夫時堯の娘を母として生まれた。寛永十八年八月十五日に新城で死去し、享年七十九、法号を珠月浄珊庵主としたことを記す。
永禄六年二月廿三日 / 冊子 122頁
島津貴久が敵城の破却と諸願成就を霧島六所大権現へ祈った立願。小林城への攻撃について、直ちに一度攻める、時機を見て二度攻める、先例どおり白攻めを行うという三案を示し、神意を仰ぐ。
永禄六年二月廿八日 / 冊子 122頁
日向国櫛間湊の天神丸船頭・日高但馬守が琉球へ渡海することを島津貴久が認め、朱印を据えた航海許可状。
永禄六年五月朔日 / 冊子 122~123頁
大隅国宮内の観音屋付水田五町について、その坪付を示した島津氏老臣の連署文書。肝付兼盛・伊集院孤舟・勝軍坊が署判する。
永禄六年五月二日 / 冊子 123頁
長期化する合戦への備えを説く若宮の託宣。軍議を慎重にし、敵方から心を寄せる者にも用心し、当面の出動を延期すること、貴久の帰陣時期や義久の病後の回復、祈念の方法、先の合戦での金峯山若宮の加護などを条々に示す。
永禄六年五月二日 / 冊子 123頁
北郷時久が喜入季久からの返書を受け取り、貴久が当地へ来訪して軍事相談中であるため、遠方ながら今後も支援を求めた書状。追伸で飫肥・福島境に変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ったと報じる。
永禄六年七月七日 / 冊子 124頁
島津家の重宝・文書類を列挙した目録。御幡、十文字立物、銀、兵書十六巻、鳳凰の羽、鎧・甲・太刀・鞍鐙、諸大名目録、神仏画像、論旨・御内書・足利尊氏判形などと、櫛間院給分坪付の関係者を記す。
永禄六年七月十日 / 冊子 124~125頁
専修寺における仏法興隆を神妙と評価し、今後いっそう天皇の寿命長久を祈るよう命じた正親町天皇の綸旨。左大弁俊光が奉じて弥阿上人へ伝達した。
永禄六年八月廿五日 / 冊子 125~126頁
肝付省釣兼続が安楽因幡守の望みにより、野柄・合爪・中救仁・樋下・薗草・橋崎などの田地と堀町・小原の屋敷を含む所領を、従前の扶持分として認めた証状。
(永禄六年)十一月十六日 / 冊子 126~127頁
島津義久が飯野の重大事に際し、肝付兼盛が急に留め置かれながら長期間にわたり辛労したことへ深い感謝を示し、今後もいっそう力を尽くすよう求めた書状。
(永禄六年)閏十二月九日 / 冊子 127頁
義久が歳久のもとを訪れる意向を伝え、道筋に不案内なので迎えの案内人を一人付けるよう求めた書状。十二日に境へ到着し、十三日に歳久方へ赴く予定を知らせる。
〔永禄六年〕五月二日 / 冊子 206~207頁
北郷時久が喜入季久に、飫肥・福島境では大きな変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ち取ったと報じた書状。先の返書への礼を述べ、屋形が当地へ来訪して軍事相談中であることを知らせ、遠隔地ながら今後も支援してほしいと頼んでいる。
永禄六年十一月一日 / 冊子 341~342頁
島津貴久が多年の懇意、とりわけ北原境での協力に謝意を表した書状。恩顧によって本望を遂げたとして取次ぎを頼み、軽微ながら品物と紅糸一斤を進呈する。
(永禄六年)十一月一日 / 冊子 357頁
『旧記雑録』所収の別文書と同文であるため、本文は省略されている。本文冊子では正文の所在と同文注記のみを確認できる。
年月日未詳 / 冊子 121頁
貴久の飯野在陣と三山での勝利後、北原兼親の伯父が吉松城へ相良兵を招き、伊東氏と通じて島津方番兵を討とうとした陰謀が露見した経過を記す。兼親の勢力が衰え、相良氏も領地を狙ったため、兼親を上神殿村へ移し、真幸院を島津家直轄とした。
永禄六年七月十二日 / 冊子 125頁
島津征久が父・島津忠将の大祥忌に際し、私宅で三日間にわたり茶菓・法筵を設け、諸山諸宗の僧二百余人を招いて法会と論議を行ったことを記す偈文。近津が心翁大安居士の六字を冠した六首の偈を作り、霊前へ捧げた。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
佐々木宗綱が島津方からの要請を大友氏の重臣へ伝え、各人が了承して上聞に達したことを報じた書状。日向へ一軍を送る予定は豊前の戦争で遅れているが、終結後は豊後・肥後勢を残して派遣すると伝える。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
戸次山城守から具足一領が進上され、当地でも特別に心を添えているため、重ねて書状を送り、その厚意を祝着として披露するよう求めた佐々木宗綱書状の追而書。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
戸次伯耆守方の南郡八人が連署を整え、陣中へ加わること、豊後側でも親類衆を同心させて派遣することを伝え、親方から改めて書状を出すとした追而書。