貴久公記
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 700頁
肝付兼重らが草牟田・清水城方面で戦った経過を記す肝属兼重譜の記事。大隅忠国・谷山隆信・矢上高純・平忠世らが入曽於郡して戦い、橋木城での交戦にも及んだことを記す。
元亀三年九月廿七日 / 冊子 320頁
元亀三年九月二十七日に島津軍が早崎へ着陣して新城を落とした際、伊地知方の各城から島津陣へ内通した者を列挙する。新城一人、本城四人、田上城二人、垂水城九人の計十六人とし、矢文や使者によって連絡した人物名を具体的に記録する。
目録年月日記載なし / 冊子 482~483頁/原整理番号 119-6
「山田聖栄自記」から、島津氏が志布志から鹿児島へ移った経緯と居所の配置を引用する。元久が清水へ移った頃の屋形、清水の城構え、川の流れと地形を古記録・伝承と照合する。
年月日未詳 / 冊子 121頁
調所貞恒伝として、康暦三年、島津伊久が本田氏親に命じて姫木城・清水城を攻略し、正八幡宮神官を服属させた後、神領料田を主神司へ寄進して氏親に連付させたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 125頁
近世略系図として、至徳年間に島津元久が志布志を去って鹿児島本城へ移ったことを記す記事。本城は大興寺後山、また清水城ともいうとの注記がある。
年月日未詳 / 冊子 132頁
島津国史の記事として、島津氏久(齢岳公)が鹿児島で六十歳で没し、大姶良の龍翔寺に葬られ、男子二人の長男を島津元久(恕翁公)、次男を島津久豊(義天公)としたことを記す。元久は貞治二年に大姶良で生まれ、母は伊集院長門守忠國入道道忍の娘で、嘉慶元年に二十五歳で襲封した。氏久は鹿児島から大姶良・志布志を経て鹿児島へ戻り、狭い東福寺城の拡張を望んだが死去し、元久が鹿児島へ移った際に別城を築いて鹿児島本城(清水城)と称した経緯と、移居時期に関する諸史料の異同を考証する。さらに嘉慶改元・事始と、今川宮内大輔に属して凶徒討伐に忠節を尽くすよう命じた軍事書状を収める。
年月日未詳 / 冊子 133~137頁
『西藩野史』が島津元久の出生、母系、居城移転から家督期の軍事・政治を年代順に記す。父氏久、伊集院忠国、伊久・久義・守久・忠親ら一族と国人の対立、清水城をめぐる戦闘と軍勢移動を追う。さらに和睦、帰属変更、戦功への恩賞までを収録し、元久政権成立の長期過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 243~244頁
『西藩野史』が、渋谷氏蜂起に対する元久の出兵と発病・清水城での死去を記す。元久没後、後継となった久豊に伊集院頼久が対立し、島津一族・諸将が分裂するなか、久豊が河辺へ移った経過を述べる。
年月日未詳 / 冊子 272~278頁
応永二十年、渋谷氏の侵攻を発端に島津久豊・久世方と伊作久義・北郷知久らが争った長編『西藩野史』記事。清水城、鹿児島、松尾城、谷山、島津山城を転戦し、吉田清正・蒲生清寛・新納忠臣ら諸勢が加勢した。和睦と再戦、城の占拠・奪回が繰り返される戦線の推移を追う。
年月日未詳 / 冊子 279~280頁
応永二十年、樺山教宗への宮崎郡旧領安堵を起点に、伊集院頼久・渋谷氏らをめぐる緊張を記す国史記事。清水城・東福寺城周辺で戦闘が起こり、佐多・北原・新納など諸勢力が出兵・加勢した。所領安堵が地域対立と城郭戦へ展開した経過を編年で示す。
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年十一月、清水城主本田董親・志布志城主新納忠勝らの社壇造営や所領争いを、調所恒房が自ら奔走して調停し、長年にわたり国衙の職務を担ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 786~787頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて河南を押領したため、伊東義祐方が北郷忠相へ援軍を求めた合戦を記す『庄内平治記』。島津忠広も長倉方を支援し、清水城周辺で両軍が攻防を重ねた。各勢の布陣と進退を追い、長倉兄弟が敗北して地域支配を失うまでを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
天文九年頃、伊東氏に背いた長倉上総介・能登守兄弟が島津忠広へ援軍を求めた事件を記す。北郷方を含む諸勢の出陣、清水城周辺での攻防、双方の戦死者と部隊の退却を追い、伊東領内の内紛が島津・北郷勢の軍事介入へ発展した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 845~846頁
天文十六年、飫肥・清水城などの戦闘で討死した北郷忠直ら島津方の武士を日付・戦場とともに列記する。
年月日未詳 / 冊子 846頁
天文十六年、伊東義祐方と北郷忠直・源七郎方が日向山東、清水城、姫木城などをめぐって戦った経過を記す。各城への攻撃・救援、北郷方と本田董親らの進退、諸将の討死を追い、城の帰属変化と敗兵の退却までをまとめる。
年月日未詳 / 冊子 846~848頁
『島津国史』が、天文十七年の清水城をめぐる戦争を諸系譜の記事と照合して記す。島津貴久・北郷忠相方と、本田董親・伊東義祐方の救援、夜襲、落城を追い、北郷源七郎らの働きによって城を奪回し守備を再建した経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
年月日未詳 / 冊子 855~856頁
『樺山玄佐譜』が、天文十七年の大隅争乱で樺山善久(玄佐)が島津貴久方として出陣した経過を記す。本田・北原方に対する清水城・姫木城攻め、伊集院忠朗ら援軍との合流、渡海による戦線移動と退陣判断を追い、各城の支援関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 859~861頁
箕輪伊賀が天文十七年の清水城・姫木城争乱を記した覚書。本田紀伊守・北原方と島津貴久・伊集院忠朗方の出陣、城への攻撃と救援、周辺への放火、軍勢の進退を日を追って述べ、大隅の複数城を連動させた戦線の推移を伝える。
年月日未詳 / 冊子 866頁
天文十七年九月十一日、島津貴久方が清水城の回復を図り、島津忠将・樺山玄佐らが動いた際の攻防を記す。
年月日未詳 / 冊子 866頁
曽於郡の領有と守備、本田董親の島津貴久への背反、清水城降伏後に忠相領内へ移った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 866頁
『調所恒房伝』が、本田董親の清水城退去後、島津忠将・貴久方が城を回復した経過を記す。宮内へ神官を戻し、荒廃した旧宅・社寺関係施設を再興するとともに、調所氏の系図・伝来文書を継承し、戦乱で断絶した家と地域秩序を復旧した。
年月日未詳 / 冊子 874~875頁
『島津国史』が、天文十八年の島津忠親・北郷忠相と伊東氏の対立を中心に記す。伊集院忠朗・肝付兼演ら諸氏の帰属、清水城・加治木城周辺の出兵と戦闘、使者を介した和解と再離反を追い、領主間の同盟が変化する過程をまとめる。
天正八年十一月十三日~十四日 / 冊子 679~680頁
十二月十三日に島津軍が熊本を発って河尻へ下り、翌十四日早朝、順風を得て兵船三百余艘で出航し、一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎は戦功を賞して酒肴を送り、翌日出水城へ主要な将と数百人を招いて饗応した。軍勢はその後本国へ帰り、領国の人々が祝った。
天正八年十一月十三日~十四日 / 冊子 682~683頁
十二月十三日に島津軍が熊本を開陣して河尻津へ着き、翌十四日早朝、兵船三百余艘で出航して一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎が酒肴を送り、翌日出水城で数百人を饗応した。軍勢はさらに本国へ帰り、人々が凱旋を祝い、国土豊かで民の安らかな世になったと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 360頁
一瀬崎野の御牧に三十余疋がいるため馬見廻役を定めて改めること、帖佐から二階堂伝右衛門尉・野添善兵衛尉を呼び寄せて調査させ、在々の放馬も念入りに捜すことを報告する。また出水城の構えを調べ、市来治右衛門尉に絵図作成を命じたと記す。
(慶長四年十二月十六日) / 冊子 476頁
島津義弘が、年始の留守居衆・諸寺への祝言、出水城普請、江南馬、ばはん船の荷物とろそん船の壺改め、武具・兵具の上納、在京衆、飫嶋での唐船遠見、番所の茶四十石、蔵の御物、上方で請け取る八木二千四百石のうち約四百石の未進、夫丸替、魚塩、出水からの上納、浮土貢、仕上米について処理事項を列挙した覚書。
明治3年正月(日不記)知政所 / 冊子 731~732頁/原整理番号 949/整理ID 949
通達留。旧本立寺墓所を清水、旧興國寺を高山、旧隆盛院を草牟田、旧福昌寺を長谷場西、旧恵燈院を長谷場東、旧深固院を長谷場北、旧浄光明寺を上之原、旧南林寺を大門口、旧壽國寺を武、旧良英寺を田之浦の御墓と称する対応を列記する。旧大乘院内鍋休丸様の御墓は清水城下御墓とする。従来は寺号で呼んでいたが原「都而被廢付」と述べ、以後は各地名で呼ぶ旨を伝える。明治三午正月知政所。十一対応の呼称変更を保持し、遺骸の移葬や墓地造成・現在地の特定、廃寺完成数を補わない。
三月十四日 / 冊子 101~103頁
出水城の受領、肥後境界、各地の牧と馬数、城下から阿久根までの地勢、侍・百姓・職人の人数、豊臣秀吉朱印による人返し、旧代官との紛争、水俣の小西方との交渉など、出水郡接収後の総合調査を詳細に報告した連署状。
元久2年、延文5年8月22日、応安6年3月3日、永和2年、天文17年10月9日、元和4年、寛永元年3月17日 / 冊子 3~8頁/原整理番号 2
本田氏正統の系図。桓武天皇七代の上総介忠恒につながる祖系から恒親・恒文を経て、親恒・貞親以下の本田氏歴代と諸分流を系線で示す。親恒・貞親の源頼朝・島津忠久への奉仕と大隅国守護、親保(静観)・氏親・親治・忠親・重恒・国親・兼親以下の家督・養子・婚姻を記し、執事・家老・地頭職、宇治川・二俣川・蓑原での戦死、姫木・清水両城、天文十七年の清水城没落、日当山・牛根・曽於郡・敷根等の知行、元和・寛永期までの没年を注記する。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
巻一/冊子 9~11頁
清水城主本田紀伊守親康が累代の恩を忘れ、主命や身分秩序を軽視して驕奢・殺戮を重ねたため、家臣が離反し、姫城・清水をめぐる戦いに至ったことを記す。親康は又次郎を無断で左京大夫と称させ、伊地知又八郎・本田又九郎らを殺し、本田刑部少輔は姫城に拠って清水への道を断った。大永七年、本田党と新納近江守が八幡神社を焼いた旧事も挙げられ、貴久は国中へ勧進を命じ、忠良も田を寄進して再建した。天文十七年、北原・渋谷方の侵攻に対し、伊集院大和守忠明が海路で宮内へ入り、小浜・廻城・敷根・上井などを攻略する。清水・姫城の本田勢も降伏し、親康父子は庄内へ退いた。後半では日向飫肥城の島津豊後守を救うため忠明が三百余騎で出陣し、伊東勢の陣を破って二百余人を討ち、翌夜に敵を撤退させたとする。内乱鎮圧、神社再興、飫肥救援を本田氏の不義と忠明の功績を対照させて記す。
年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 867頁
本田董親が宮内を侵掠して神官らを退去させた後の回復過程を記す。島津忠将・樺山玄佐・伊集院忠朗らが清水・姫木方面へ出陣し、本田方の城を攻めて旧領を奪回した。戦後は神官・調所恒房らを帰還させ、神職と祭祀を復旧した。
九月十一日 / 冊子 575~576頁
本田正親が旅庵老へ、濃州出陣と軍労を慰問し、長宗我部・立花両氏の軍役人数と薩摩方の人手不足に触れる。出水は国境ゆえ在国衆を置き、他方からの申入れには吉凶とも遠慮して上意を守ること、自身も出水に在宅すること、城普請・御蔵入方を油断なく進めることを報告する。追而書では庄内百日番衆への配当を主人十石・内者三石とする案を示し、惟新との談合と祈祷を頼む。
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 49~50頁/原整理番号 49の2
伊地知季安が永正頃の清水城の年中御式五十九ヶ条と役人の由緒を考証する。評議に加わる老臣や下向役人、愛甲から左近への旗役継承を、聖栄自記などの記録と比較し、永禄三年の書付の年代には考え難い点があるとする。さらに藤野家伝来の錦直垂・御旗に関する今川了俊書状について、肝付譜の水島説や南山巡狩録の記述を検討し、天授元年・永和元年八月二十九日の記事とあわせて掲げる。