島津義弘届書
文禄3年9月17日 / 冊子 808~809頁
義弘が、前年文禄二年六月に「ひらんき」で加増後の人数を改めたところ、総勢千六百六十五人であったと届け出る。 福島正則と毛利民部大輔へ提出した簡潔な人数報告で、島津軍の朝鮮在陣兵力を具体的な数字で確認できる重要史料。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
22 件 (全巻)/ 1–22件を表示
ページ 1 / 1
文禄3年9月17日 / 冊子 808~809頁
義弘が、前年文禄二年六月に「ひらんき」で加増後の人数を改めたところ、総勢千六百六十五人であったと届け出る。 福島正則と毛利民部大輔へ提出した簡潔な人数報告で、島津軍の朝鮮在陣兵力を具体的な数字で確認できる重要史料。
年月日未詳 / 冊子 298頁
豊臣氏奉行衆が伊東民部大輔・相良宮内大輔・高橋九郎・秋月三郎・島津又七郎(島津豊久)の九州諸将へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したことを通知した連署状。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、退散後は諸城を釜山浦へ集めて帰朝し、藤堂の指揮に従うよう命じる。
六月十四日 / 冊子 82頁
島津義弘に関する御朱印を使者に持たせて送り、御請は毛利方へ返すよう求め、上方に異変はないが領地で変わったことがあれば言上するよう伝えた書状。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297~298頁
豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従うよう命じる。
〔慶長三年〕十一月廿五日 / 冊子 299頁
豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。
天文三年九月十六日 / 冊子 727~728頁
島津家老臣らが、徳永隼人佐・今岡民部大輔らを通じて幕府側へ窮状を訴えた連署状。薩州方との対立で通航と軍事行動が妨げられている事情を述べ、安来殿らの取り成しによる上洛・将軍拝謁、幕府の援助と家中安定への沙汰を求める。
十一月六日 / 冊子 51頁
島津義弘の使札を拝見し、御朱印の請取を確かに受領したことと、毛利民部大輔が帰還したことを伝え、対面時に詳しく話すとした書状。
天文三年九月十六日 / 冊子 728頁
本文は前掲No.2227と同案文であるため省略され、別本もあることだけを注記する島津家老臣連署状。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
伊東祐兵が(慶長三年)十一月廿日付で島津忠恒へ出した書状。順天方面で先手衆が番船と交戦したと聞き、戦況を案じて詳しい様子を尋ねる。自身の在所では前日から唐人が城近辺まで進出したが、実際の行動はなく心配無用とし、見舞いの使者を送ったことを伝える。
十一月五日 / 冊子 728頁
今岡民部大輔通詮が薩州方との対立を背景に、上洛と流求国との往来、蓮嶋三宅和泉守の処遇を詳述した書状。軍事・航海をめぐる支障と関係者の動向を報告し、内容をしかるべき相手へ伝達するとともに、通行・交渉を進めるための援助を求める。
九月十六日 / 冊子 51~52頁
毛利民部大輔が釜山浦へ着いたので自身も赴き、兵糧引渡しの奉行を一人寄こすよう求めたほか、鹿狩りに出た蜂須賀・福島方の者が山中で殺されたため、島津家中にも鹿狩りを厳禁するよう警告した書状。
慶長二年七月廿八日~十一月十九日 / 冊子 153~167頁
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日の実務記録として残す。
慶長二年十二月一日~十二月廿九日 / 冊子 167~173頁
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣までを記す。
宝暦十二年十二月四日(本文。年は目録) / 冊子 952~955頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2750
十二月四日の保姫入輿に際し、門・辻の立番、火消し、小番・大番の警備、家老の子持筋嘉珍熨斗目・長袴、用人・近習役の長袴、納殿役人の半袴など役別の衣装を定める。婚姻日と祝物を一門へ伝え、附使者を鴈之間で二汁五菜でもてなし、松平民部大輔を招き、一橋へ赴く時宜により若櫻田屋敷へ来訪する場合の吸物・菓子・案内も用意する。小姓が腰物を預かり、阿部豊前守が書院へ案内して三汁八菜・引物・土器と肴を取り扱い、松平大藏大輔の帰りを見送り、貝桶渡しを済ませた田沼能登守・末吉善左衛門にも奥から表へ案内して酒肴を供する。勝手方・坊主衆の料理、城坊主の供賄、家老の御守殿への祝儀、留守居を使者とする御用番への婚姻届、諸役人・諸士の祝儀と当日または後日の精進日の帳付けまで記す。
正徳四年十月二十九日 / 冊子 167頁/整理ID 403
島津吉貴は琉球使者を伴って大坂に到着した。当地の諸大名らが出船・供船・小舟を整え、琉球使者の旅具や川船の手配に当たる。
享保七年七月三日 / 冊子 550頁/整理ID 1421
松平筑前守など在府の大名・家中関係者を、次第不同として列記する交名。末尾に七月三日とある。
現行年紀:元亀四年貳月廿一日 / 冊子 143頁/原整理番号 248/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0248
忠金・盛親・清通・久治・常尚・家諸・忠元・季久の連署と花押を掲げる。 「旧記雑録後編一」660―3号同文の刊本注を伴う。この切片には条文を独立掲載せず、日付と八名の連署を掲載する。参照先本文は未読・未補充。
現行年紀:元亀四年貳月廿六日 目録・本文の別記(相違を保持):小字干支「癸酉」;目録原36頁年紀「元龜四年二月十六日」(本文と日数相違) 日付留保:本文は二月廿六日、目録は二月十六日。小字干支と本文を分離し日数差を補正しない。 / 冊子 145頁/原整理番号 251/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0251
今回の使者としての条々に少しも虚言はないことを起請し、違反した場合の神罰を記す。 久治・尚常・家諸・清通・忠元が連署し、祢寝殿に宛てる。
天正14年4月6日 / 冊子 162頁
島津義久が龍造寺政家へ、龍造寺家との関係を「無二深重」とし、政家の政務を疎かにせず、家中に政家へ背く者がいれば処罰すると誓った起請文。義久自身も家中統制の責任を負い、政家との合意に違背しないことを梵天・帝釈・霧島神などへ誓う。島津氏が龍造寺政家を保護しつつ、その家中を統制しようとした政治関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 799~800頁
義弘が前年分の扶持米と城米の受領状況を記し、増田長盛・早川長政・寺沢広高・石川久五郎らの取扱分を列挙する。城米三千石、五千七百五石、九百五十石を合わせ、御蔵米総計九千六百五十五石と算定する。 福島正則と毛利秀元へ提出された請取状で、朝鮮在陣軍を支えた大量の兵粮米と、豊臣政権奉行間の受け渡しを数量で追える兵站史料。
享保十四年三月十六日 / 冊子 817~818頁/整理ID 2184
松平民部大輔に代わる増上寺の火之番を命じる旨を三名連署で伝える。
年月日未詳 / 冊子 35頁
山田聖栄の自記として、島津忠久の出自を頼朝と丹後局に関わる伝承によって記し、丹後局の養父八文字民部大輔の説などを載せる。