島津国史
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
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年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位も記す。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈氏陣攻めで、尚久が忠将とともに副将として出陣した記事。険しい陣を諸軍が必死に攻め破り、敵数百人を斬り、菱刈左馬権頭が自害したと記す。
年月日未詳 / 冊子 323頁
島津家久譜の記事。家久が領国内の大山から禁裏造営用材を伐り出して献上するよう命じられ、柏原周防入道有閑・土持左馬権頭盈信に監督させたこと、板倉勝重から用材献上への賞賛と役務免除を伝える書状が届いたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 24~25頁
弘治二年三月十五日、島津貴久が蒲生城の支塁・松坂塁を攻めた。梅北国兼が諸兵を督励し、二男忠平は三尺の剣で城門を破り、城壁を越えて現れた強敵を斬って初めて首級を挙げた。退いた後、鎧に敵矢五本を受けていたことが判明し、当時二十二歳という。十月十九日の松坂落城、十一月以降の蒲生包囲と菱刈援軍も記す。
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津貴久父子らが蒲生を救援する菱刈氏の陣を攻めた記事。険阻な陣で忠平が敵将楠原某を討ち、島津軍が陣を陥れて多数を斬り、四月二十日に蒲生方が城を焼いて退去した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 44~45頁
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈陣攻めで、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先駆けて深手を負い、同月二十八日に二十一歳で死去したことを記す。貴久がその死を悼み、長浜で荼毘の煙を見届けた。
天正二年正月~二月 / 冊子 330~331頁
肝付賀州が日向へ赴いて伊東氏の援軍を求め、天正二年正月に伊東軍が肝付へ進出した経緯を記す。島津方の配置により牛根口へ進めず禰寝を攻撃し、塩入城を落としたが、その後帰国した。牛根城は島津方へ渡り、肝付氏が廻・市成両城を譲って和睦したこと、佐土原の新町造営も載せる。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 320頁
有馬・天草両陣の軍衆人数極。鹿児島衆・外城衆などについて内衆と披官・小者の人数を区分して集計し、両陣に動員された人数の総計を示す。黒田三左衛門・土持左馬権頭の確認を伴う。
年月日未詳 / 冊子 329頁
島津久通譜の記事。寛永二十一年四月朔日、家老中の条書に射手奉行として土持左馬権頭・相良主税助の名が掲げられたことを記す。
天明七年七月二十六日(年は朱書) / 冊子 992頁/原整理番号 2669/整理ID 2669
今大路内蔵権頭から、今回の関東下向では島津家の屋敷内に滞在できれば都合がよいと、留守居を通じて内談があったことを報告する。この件に伴う滞在である以上、いずれかの屋敷内に宿泊させなければ島津家側から世話をすることも難しいとして、桜田屋敷の留守居付役宿を整えて滞在させるのがよいか、本城源七郎に検討させたという。手配の件は江戸にも伝えたので、事情を承知してほしいと知らせる。七月二十六日付、島津伊賀から市田勘解由への書状である。
寛永廿一年二月三日 / 冊子 442~443頁/原整理番号 553
天草出陣衆の延べ人日を一日賦で集計する。鹿児島衆は十万四千四百二十五人日で、人躰九千四十九人日、被官・夫九万五千三百七十六人日。外城衆は十五万六千八十三人日で、人躰十一万二千七百六十六人日、被官・夫四万三千三百十七人日。総計二十六万五百八人日は、人躰十二万一千四百二十五人日、被官・夫十三万九千八十三人日に分かれる。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 445頁/原整理番号 556
本文は天草出陣衆の延べ人日を一日賦で集計し、鹿児島衆十万四千四百二十五、外城衆十五万六千八十三、総計二十六万五百八人日とする。内訳は人躰十二万一千四百二十五、被官・夫十三万九千八十三で、文書553と同内容である。本文日付は二月三日だが、目録は標題を「有馬立軍衆人数究」、年月日を寛永二十一年二月五日とするため、目録欄と本文内容の相違を保持する。
天明七年六月四日(年は朱書) / 冊子 970~972頁/原整理番号 2632/整理ID 2632
茂姫の近衛家養女縁組をめぐる幕府の内意と手続を国元へ報告し、重豪の指図を急いで求める。先月二十九日、松平周防守の側用人から面談の依頼があり渋谷五郎右衛門が出向くと、太守の翌朔日登城の予定と近衛家一件の申渡しを内々に知らされる。太守は六つ半時供揃で登城し、御礼後に居残り、竹之御廊下から黒書院へ移って周防守から書付を渡される。内意なので当日の御請・御勤向は不要と聞き退城。幕府も内密に扱うため広い親類への通知は難しい一方、一橋には知らせないと不都合ではないかと佐次右衛門・五郎右衛門が吟味した。周防守に伺って差支えない旨を得、一橋と松平越前守(傍注誠前・重富)へ側用人または留守居を使者として内々に通知する。近衛家との熟談には家老使者を立てる方針を重豪の承知の上で実行し、使者や諸手続の指図を国元から早く飛脚で知らせてほしいとする。二日に五郎右衛門が別紙箇条書で伺ったが、同席の相談も必要な重要事で大奥にも関係するため、周防守も即決できず、未だ指図がない。近衛家は諸太夫を派遣する予定で、熟談・取結後には両家から一緒に表向きの使者を立てる。公辺の手続が済んだ後、京都へ祝物を持参する番頭使者を派遣する案も述べ、具体的指図を早く受けたいとする。春に近衛家へ派遣した橋口与三次の件について、年頭使者として下った諸太夫今大路内蔵権頭が進捗を尋ねたため、今回の内意を与三次から知らせて安心させるよう、御内用掛近習役と京都留守居へ書状で伝える。急飛脚を手配して指図を待っており、御手扣の別紙写・首尾書を添えてまず報告する。六月四日付、島津登と島津伊賀が国元の島津和泉ほか九名に宛てる。
天明七年七月二十二日(年は朱書) / 冊子 991頁/原整理番号 2666/整理ID 2666
近衛家の今大路内蔵権頭が伝奏衆へ申し入れた口状。松平上総介の息女茂姫を近衛家の養女に迎えたいとの意向を伝える。薩州とは格別の由緒があるためにこのとおり願い出るとして、よろしく沙汰されるよう取り計らいを依頼する。七月二十二日付で、差出人の実名は孝廉と注記される。
天明七年七月(年は朱書) / 冊子 991・992頁/原整理番号 2668/整理ID 2668
茂姫を右府の養女とする件について、取り結びのため今回使者を通じて申し入れられた趣旨を了承したと伝える。関白へ内談したところ、差し支えあるまいとの意向だったので、十分に承知したとする。この養女の願書は二十二日に提出した。願いが許可され次第、早速今大路内蔵権頭を関東へ派遣する考えであると知らせる。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 782
天草の「から弥」という在所へ陣を移すことになり、久賀からの指示を受けて久加が陣場を見合わせに赴くと記す。吉利下総・土持権頭・皿良善介が同行し、正月十八日にから弥へ移った。前文は十六日の久玉着津条、後文は十九日条にある旨の注が付く。
正月廿六日 / 冊子 10頁/原整理番号 6-1
『島原軍衆人数差出留』の正月二十六日条。上津浦の土持左馬権頭以下、船廻りなどで各地へ到着した者の主従・人鉢・忰者夫丸を列挙する。鹿児島衆は計四百四十三人(人鉢四十人、御道具衆四十九人、忰者夫丸三百五十四人)。喜入舎人を米之津から帰したため除き、三口の合計を千八百四十六人(人鉢百六十六人、道具衆四十九人、忰者夫丸千六百三十一人)とする。
天明七年七月二十六日(年朱書) / 冊子 989・990・991頁/原整理番号 2665/整理ID 2665
重豪の娘を近衛家の養女とする熟談の使者として江戸から京都へ向かった伊賀が、交渉と接遇の首尾を報じる。十四日に京着し、十五日に留守居を通じて届出・内談、十九日に正式の使者役を勤めた。贈物は国元から変更があり京都留守居が準備し、目録は伊賀が調えた。近衛家では今大路と会い、春以来の内談と松平周防守からの内意を踏まえて正式の取結使者であると伝え、右府・泰宮・通君への時候見舞いも届けた。禁裏への願書は二十二日に伝奏衆へ提出して鷹司関白へ通じ、返答は二十五日を予定し事前の内沙汰もあった。二十五日参殿し、書院で口祝、見舞いへの挨拶と返答、伊賀および本城源七郎への太刀目録、源七郎への料理、伊賀の小書院召出しと養女取結への承知を受けた。今大路が関東へ派遣される旨、泰宮・通君から森嶋主税を介した返答と拝領物も記す。朝廷への願いは関東表向きの掛合いと免許を経るため往返の日数がかかり、近衛側の使者が願済み後に江戸へ赴く段取り。伊賀は二十八日に暇の挨拶、二十九日に出立する予定で、願書写・返答等の控を急飛脚で送り、同席中への披見、後日の番頭使者と両殿の付届手配を依頼する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 611~623頁/原整理番号 670
寛永十五年正月から三月まで、鶴田・羽月・山田・伊作・加世田・川辺・国分・市来・串木野など諸外城から天草へ出陣した軍衆について、主従・人躰・小者夫の人数と従軍日数を地域別・期間別に集計した帳簿。総人数十五万六千八十三人を、人躰十一万二千七百六十六人、小者夫四万三千三百十七人と内訳し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 629~654頁/原整理番号 672
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から天草へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。大身衆から多数の家臣までを連続して記録し、末尾で被官・夫を合わせた人数九万五千三百七十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
十月廿一日 / 冊子 439頁/原整理番号 550
中條市兵衛は、夫丸二十八人を含む百六人が正月十日に出立した後、二月十九日に三十四人が呼び戻され二十二日に帰宅して各四十三日となったことを報告する。残る七十二人のうち三人は二月二十八日に江戸役へ付け替えられ、上津浦を出船して三月二日に帰宅し各五十三日、残る六十九人は三月十四日に暇を得て十七日に帰宅し各六十七日であった。本文署名は中條市兵衛だが、目録標題は中俣市兵衛とする。
(慶長十六年)十一月二日 / 冊子 354頁
慶長十六年十一月二日、島津家久が柏原周防入道へ、禁中の村木を土持左馬権頭らが伐り出した件を早急に調査し、詳しく報告するよう命じた書状。
寛永廿一年九月晦日 / 冊子 447~448頁/原整理番号 560-2
前文書の唐船・唐人警戒の趣旨を各地域の浦々へ確実に申し渡すよう、島津安芸守以下の地頭・役人へ命じる。本文は寛永二十一年十月三日付で四名が連署するが、目録年月日は寛永二十一年九月晦日である。
寛永廿一年正月廿一日 / 冊子 441頁/原整理番号 551-2
前件の兵糧不足銀を支給するため、吉田二郎兵衛尉・黒田三左衛門・土持左馬権頭から正月十七日に通知を受けた九名は、市来八左衛門保管の米受取証文が火災で焼失していたため、関係者を三日間集めて出陣日数と人数を照合し、算用した旨を添える。鹿児島への使者は佐濱車右衛門である。
文治2年8月1日、大永年間、天文14年冬、天文15年2月23日、天文16年 / 冊子 26~29頁/原整理番号 9
鎌田権頭通清の三代の孫・蔵人太夫光政の二男である加賀守政重の流れを引く、鎌田愛大夫政詮家の略系図。島津忠久が源頼朝から薩摩・大隅・日向三州を領するに際し、政重が難波・長野・石塚・福崎氏ら三州の御家人と協議して薩摩へ下向し、五子をまとめて関東へ報告したのち、文治二年八月一日の忠久入国に供奉した由緒を記す。後裔を末吉・串良・穆佐・田布施・鶴田・加治木・財部などの庶流とともに掲げる。政真は川辺の神殿に生まれ、島津実久に属したのち神殿を日新公へ献じて貴久に仕え、天文十五年二月二十三日に伊集院から開聞山へ赴いて出家し、諸国へ法華経を奉納する六百八十日の廻国を天文十六年に成就した。末尾に槿花の化生女性が現れて消えた奇瑞と朝顔を詠む二首の和歌を収める。