木崎原合戦頚注文
元亀三年五月四日 / 冊子 266~268頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦で島津方が得た伊東方の首級を、所属地・身分・被官数とともに列記する注文。大将・伊東一族、落合・長倉・米良・別府・柚木崎ら各地の武士を挙げ、確定できた首級を二百九十六、ほかに切り捨てた者は不明と記す。後世の参照用に重複を承知で旧記の人名を写したとの注記がある。
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元亀三年五月四日 / 冊子 266~268頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦で島津方が得た伊東方の首級を、所属地・身分・被官数とともに列記する注文。大将・伊東一族、落合・長倉・米良・別府・柚木崎ら各地の武士を挙げ、確定できた首級を二百九十六、ほかに切り捨てた者は不明と記す。後世の参照用に重複を承知で旧記の人名を写したとの注記がある。
元亀三年五月四日 / 冊子 274頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦に従軍した島津方の将兵を列記する。大口住人の久富伴五左衛門をはじめ、遠矢下総守・日高掃部左衛門・竹下又左衛門・瀬戸口八郎左衛門・五代右京亮友喜・川上三河守忠智・二階堂四郎左衛門入道秀綱・有川雅楽助貞員・鎌田刑部左衛門らを掲げ、個々の戦功注記を添える。
元亀三年五月四日 / 冊子 281~290頁
島津義弘の飯野入城から桶平伏兵戦を経て、元亀三年五月四日の木崎原合戦を詳細に叙述する。義弘は加久藤救援・野間門・鳥越・本地原に部隊と伏兵を配し、伊東新次郎を自ら討ち、五代勝左衛門らが伊東加賀守を討って敵軍を崩した。戦場地形・討取人数・六地蔵・太刀洗川の由来、白鷺を白旗と誤認して退いた相良援軍、間者を見破った死苦村彦六左衛門と褒賞地、三徳真成の祈祷・調伏や後世の伝承・編纂経緯まで収める総合的な合戦記。
元亀三年 / 冊子 260~261頁
元亀三年の軍事記事を通覧する。正月の肝付水軍による小村攻撃を退け、二月には廻・市成境で肝付勢を伏撃し、境・二川を破却した。五月四日の木崎原合戦では島津義弘が少数で伊東方大軍を破り、伏兵・援軍とともに追撃した。秋には島津歳久が下大隅へ出兵して小浜を攻略し、北郷時久も肝付領へ攻勢をかけたほか、国分国主院の死去や琉球王尚元の死を記す。
元亀三年 / 冊子 261頁
元亀三年の島津国史本文に付された補注。小村攻防、廻・市成境の伏撃、木崎原合戦、下大隅攻略などについて、関係人物の系譜・官途、地名の比定、旧譜・軍記等の異同を示し、本文記事の人物同定と典拠を補う。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
元亀三年三月廿三日・五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年の殉死・戦死者を列記する。三月二十三日に島津貴久を慕って南林寺前の海に入水した平田純貞を掲げ、五月四日の木崎原合戦で戦死した鎌田大炊助政高・鎌田源三・野田越中坊・有馬豊前兵衛純秀・前田主税助範春・富永刑部左衛門・曽木播磨守重治ら多数の名を収録する。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 274~279頁
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると従来の軍規と異なり、最初から一所討死を誓っていたとの不審も記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が加久藤の大明寺口を破ったため、島津義弘が飯野勢を率いて木崎原へ進み、敵を繰り返し追い詰めた戦いを記す。上野隼人佐が伊東方の大将米良筑後守を討ち取った戦功を特記し、敵を小林郷まで追撃して多数の首級を飯野へ持ち帰ったとする。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が飯野・加久藤方面へ侵攻した際、島津義弘が大将として戦い、伊東新次郎・伊東加賀守をはじめ一門・一家あわせて五百余人を討ち取って勝鬨をあげたと伝える。
元亀三年五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年五月の木崎原合戦で、新納忠元が大口から兵を直ちに差し立てて島津義弘を援けたとする。後日、飯野城移徒の祝席へ向かう途中で盗賊を討ったため遅参した忠元に対し、義弘は事情を聞いて賞賛した。また祝いの席で火に通じる名を避けた刀を用いた心配りから、武事に限らず万事に配慮する人物と重ねて褒めたという逸話を載せる。
(元禄十年)四月晦日 / 冊子 273~274頁
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを伝える。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 179頁/原整理番号 60
伊東才蔵家の系図。伊東加賀守から右衛門へ続き、右衛門は実は加賀守の弟で、兄の猶子となり、加賀守とともに木崎原で戦死したと記す。次左衛門の後裔は佐土原没落時に浪人となり、のち伊集院忠真に属し、忠真下城後は指宿に居住、その後加治木へ至って惟新公に仕え、知行を与えられた。別系の仙右衛門―志摩助の後裔は光久公に仕えて御守役を務めた。藤五郎―仙右衛門の系の後裔は、江戸上御屋敷の類火時に女房を介抱して退出させ、光久公病気の際には霧島御鉢へ二昼一夜参籠し、のち納殿役を務めた。
年月日未詳 / 冊子 381頁/原整理番号 96
元亀三年五月、飯野に在城する松齢が伊東勢に木崎原で勝利し、忠元も大口から加勢したことを記す。勝利と移徙の祝いに呼ばれた忠元は、吉松の般若寺越で盗賊を捕らえて連行したため到着が遅れた。理由と携えた刀について問われ、以前拝領した刀で火の唱を避けたと説明すると、松齢は武事に限らず万事へ心を配る忠元を褒めたという。
巻二/冊子 22~23頁
渋谷一族が領地を挙げて島津方へ降参し、隈城・平佐・高江・水引・湯田・西方などの支配と地頭配置が再編されたことを記す。元亀二年には貴久が五十八歳で死去し、法号を掲げる。翌年、伊東義祐の大軍が飯野・加久藤へ侵攻すると、忠平は少数の騎兵で木崎原に迎撃した。伊東又次郎・落合源左衛門尉ら主要将を討ち、田原陣も破って伊東軍を三山へ敗走させる。忠平自身も鬼塚原で強敵二人を討ったとされ、島津方の戦死者も列記される。少数軍が大軍を破った戦いを項羽の故事になぞらえ、天の助けと忠平の武功を強調する。渋谷降伏、貴久死去、木崎原合戦という政治・軍事上の大きな転機をまとめた記事である。
元亀三年五月四日 / 冊子 274頁
元亀三年五月四日、伊東方が真幸・加久藤城の囲いを破って島津方を一部討ったものの、退却時に島津方の追撃を受けて大軍が崩れ、日向勢が大敗したことを簡潔に記す。
(元亀三年)九月十一日 / 冊子 292頁
島津義弘が伊地知主水佑へ、上洛以来会えず朝夕懐かしく思うと述べ、再度の下向を望む。伊東勢が加久藤麓へ侵攻して退いた戦いでは、院内衆だけで五百人を討ち、今も山中で遺骸が見つかると戦果を報告する。左近権介も大いに働き無事であり、忠勤を重ねているので安心するよう伝える。
「元亀三(四)年」八月十二日 / 冊子 312~313頁
土持麟松が伊集院忠棟へ、前年夏に伊東方が真幸へ侵攻した際、島津方が援軍によって伊東の主要将士数百人を討ち大勝したことへの祝意を述べる。遠国かつ通路困難のため祝賀が遅れたと詫び、豊州大友氏の指示に従って国境を警戒し、伊予方面への派兵も退治されるだろうと報じ、脇差一腰を贈る。年次は本文注記で検討される。
年月日未詳 / 冊子 459~493頁/原整理番号 無番号_0002
伊地知季安が藩命により編んだ、島津氏家臣諸家の「忠死」を列挙する人物録。冒頭目次は戦死四百三十人・子孫二百五十八人と記し、本文は伊集院氏から上井・諏訪氏まで、家ごとに当人の諱・通称、戦死・殉死の年月日と場所・事情、子孫の名と家格を記す。承久の乱や蒙古襲来から戦国期の木崎原・根白坂、朝鮮出兵、関ケ原、庄内、島原の戦いまで及び、主君への殉死や捕盗中の死も収める。