柿木原隆実軍忠状
正平十三年四月廿六日 / 冊子 9頁
柿木原隆実が、四月十四日の加治木院田間要害で中津峯河勘解由左衛門尉・国郡小太郎らと戦い、背中に傷を負った軍忠を申告し、注進・披露を求めた軍忠状。島津氏久が承認している。
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正平十三年四月廿六日 / 冊子 9頁
柿木原隆実が、四月十四日の加治木院田間要害で中津峯河勘解由左衛門尉・国郡小太郎らと戦い、背中に傷を負った軍忠を申告し、注進・披露を求めた軍忠状。島津氏久が承認している。
十月三日 / 冊子 32頁
木原徳斎が、五本松で起きた山賊事件は管轄外なので追及しないよう新納忠元へ伝えた書状。領内の百姓には法度に従い寺社守からも刀狩を実施しており、鹿狩りなどで武具を携え山中で山賊が生じた場合は狩人の責任になると述べる。
六月九日 / 冊子 26頁
伊集院忠棟と村田経定が、木原十郎兵衛尉の子息を当年の市来・伊集院間の頭取に定めた連署書状。前年は事情により差し置かれたが、神慮と奉公に関わるため、異議なく了承して役目を命じるよう寄合中へ求める。
建武三年六月日 / 冊子 666~667頁
柿木原平右衛門政家が、肝付兼重以下の凶徒追討で加瀬田城等へ参陣し、合戦に軍忠を尽くしたことを述べ、御方への披露と証判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十七日、郡本と熊田原の両陣が帰還する途中で合戦となり、部隊が散開して諸士に戦死・退却者が出た経過を記す譜記事。
二月廿五日 / 冊子 65~66頁
川上久國が帖佐長右衛門尉に、琉球から取り寄せる馬や数寄道具の調達状況と各種進物を知らせた書状。水指・籠・福昌寺の達磨図と梅図・金襴切などを送り、光久様の交替・下向の有無も尋ねる。
建武四年二月廿二日 / 冊子 682頁
藤原兼政が菱刈郡柿木原孫七兼政らを率い、曾於院御発向の間に大隅菱刈郡柿木原で合戦し、左腰を射られながら軍忠を尽くしたことを申告して証判を求めた軍忠状。
暦応三年五月十五日 / 冊子 729頁
薩摩国の凶徒退治に備え、柿木原左衛門太郎に急ぎ用意し、一族とともに発向するよう命じた島津貞久軍勢催促状。
寛政3年1月27日(本文) / 冊子 22頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0064
徳川家斉が寛政3年正月27日、木原兵三郎を芝邸へ遣わし、鷹の捕らえた鶴を島津重豪に贈った記事。斉宣が代わって恩旨を受け、島津又吉郎が各老邸へ赴いて重豪のために謝恩したと記す。鶴の数量は本文に記されない。
寛政3年8月朔日(本文の「同年」による) / 冊子 25頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0081
徳川家斉が寛政3年8月朔日、木原兵三郎を遣わし、鷹の捕らえた雲雀を島津重豪へ贈った記事。島津淡路守忠持が重豪に代わって恩旨を受け、老中の邸へ赴いて拝謝したと記す。雲雀の数量は本文に記されない。木原兵三郎の名に続く二字は字形未確定。
慶長4年8月6日 / 冊子 569~571頁/原整理番号 72
島津義弘(惟新)が伊集院源次郎忠真へ、忠真の6月17日・7月16日付書状を受け、幸侃が成敗された後も忠真の進退が定まらず庄内に籠る事態について、相互の言い分と自らの働きかけを詳しく伝える。義弘は、忠真が自分の家中の者一人に過ぎないと扱われれば名誉が傷つくとの懸念に理解を示す一方、竜伯様・少将殿への申入れや徳善院への請託、伊東豊後守を通じた書面のやり取りを述べ、これ以上の対立や放火・戦闘を避けるよう諭す。忠真が城から出た後の知行の額は自分には見積もれないが、生活できないほどにはならないだろうとの見通しを示し、内府様の使者として寺澤志摩守が下向する予定なので、その間の行動を慎むよう求める。加藤主計頭・木原式部少輔への依頼にも触れ、8月6日付で伊集院源次郎に宛てる。冒頭の『正文本田助之丞』は正文所在の注記であり宛名ではない。欄外に『旧記雑録後編三』839号との同文推定注記がある。
七月日 / 冊子 473~474頁/原整理番号 608-2
長崎の情勢を記した前文書を所次で送り、山田土佐守へ届けるよう中馬兵部左衛門・清田右京亮・木原兵左衛門に命じる添状。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
年月日未詳 / 冊子 402頁/原整理番号 132
大口郷古木原村の稲荷社の鰐口銘を書き出す。銘には薩州牛屎院大口木崎村、天正五年八月吉日の施入、島田親辰の名がある。久仰が天保十五年九月に参詣して写したもので、鰐口は三寸七・八分という。銘の村名は木崎だが、社は古木原にあるため、考証用に記録したとする。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
寛政九年正月十八日 / 冊子 186~187頁/原整理番号 156
寛政九年正月十八日の犬追物手組。上手組・次手組・下手組に島津和泉・三木原勇次郎・讃良猪三太らを配し、「九ツノ免」「六ツノ免」「四ツノ免」の区分と各組の検見・喚次を記す。
九月19日本営報、列記は八月20日~九月15日等の戦死・病院死 / 冊子 597~599頁/原整理番号 779の1/整理ID 779-1
雑録中。会津攻撃に関わる死者を所属隊別に列記し、八月二十三日・二十六日・九月十五日の戦死、深手を負って三春病院等で死亡した者、八月二十日・二十一日の戦死を区別する。六番隊五人のうち川上彦八郎・園田勇吉・中嶋岩次郎は砲戦が激しく遺骸引揚ができていないとし、米良仲之丞・猪保壮七郎は八月二十三日戦死、藤崎勇藏は深手の後二十九日に会津城下の病院で死亡したと記す。「十七人」を会津城下明寺院に仮葬したとの記載を掲げ、後段の九人では七人が深手の後に死亡し、残る二人は戦死とまとめ、内龍穩院に葬ったとする。各人の遺髪は十九日出立の山下七郎に託して国許へ送り、到着後に親類へ渡し、先規の葬式料も処置するよう求める。九月十九日、会津在陣本営から御国許陸軍所・京都本営役所宛。戦死・負傷後死亡、遺骸未収容、仮葬、送付済みと到着後の指示を分けて記す。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
年月日未詳 / 冊子 750頁
暦応五年八月、島津方が谷山・佐々野木原・平城などで肝付方と戦い、伊集院勢の援助を受けて攻撃を進めた経過を記す肝付兼重伝の記事。
暦応五年九月日 / 冊子 750頁
和泉保末が八月四日に伊集院内自在原へ発向し、六日に谷山郡佐々野木原、七日以降の各合戦へ参加した戦功を列挙して証判を求めた軍忠状。
延文四年四月五日 / 冊子 12頁
島津道鑑(貞久)が大輔局へ、薩摩国山門院内青木原村を譲り、大輔局の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
〔天授三年〕六月十日 / 冊子 80頁
菊池武興が島津伊久へ、今川了俊らが肥後国山鹿・志々木原に陣取った情勢を報じた書状。各国への働き掛け、合戦勝利の見通し、敵方の動向を伝え、凶徒退治のため島津方の軍勢合力を求める。肥後戦線における菊池方の情報共有と援軍要請を示す。
永和四年二月廿八日 / 冊子 116頁
島津伊久が伊作女房に、薩摩郡内羽島、永吉光富名内の園・水田、中津町一町、延時名内の薗、山門院内青木原村などの田園を一期分として譲り、妨げなく知行するよう定めた譲状。
応永卅四年正月廿二日 / 冊子 338頁
久安が子の細に用いるため、大隅国黒木原の所領を十貫文で椛山殿へ質入れし、三年以内に元金を返せば請け戻せると定めた質券。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234~235頁
内田主馬首へ宛て、薩摩国牛尿院内の浮免田を示した老臣連署坪付。築原名・小木原名・大田名などの田地を合計九段とし、そのうち七反を御重恩分と記す。
入天正八年二月吉日 / 冊子 649~650頁
薩摩国牛屎院小木原名一町の内、年々不作の二反を含む田地や堀町など、合計一町二反二十を内田主馬首へ示した坪付。確定版年月日は二月吉日だが、本文年紀は天正八年三月吉日と読める。
(慶長廿年)一月十六日 / 冊子 574頁
鹿児島御支配所の知行名寄帳。大口小木原村などの屋敷・田畠について、名請人、面積、石高、給付先を列記し、合計高と知行割付を示す。
元禄十一年十二月 / 冊子 94頁/整理ID 320
伊東大和守祐実が元禄十一年十二月、日向国那珂郡内の恒久村・田吉村・郡司分村・加江田村など三十九か村と、宮崎郡内の加納村・木原村・今泉村・田野村四か村、計四十三か村を知行所として列挙した書出。
正徳元年十一月 / 冊子 979頁/整理ID 3151
島津家庶流の次男に名乗らせる名字と手続を示す覚書。三木原・平屋・柳・細籠・岩越・大熊・板鼻等の名字を対応する家へ示し、月番家老から伝達する。嫡子以外に名字を名乗らせる件では書付の有無に応じて用人・月番家老への書付で指示する。
正応2年8月23日 / 冊子 175~176頁/原整理番号 91
御家人ごとの雇狩人数を税所介百人、河俣大掾五十人などと列記し、木原朝追立宿の東手引・西手引や案内者を配する注文。末尾では沙弥円也が守護狩の先例と鹿子并皮の扱いを私注として記す。
年月日未詳 / 冊子 154~156頁/原整理番号 39
文徳天皇―惟喬親王を祖とし、建守親王・康和親王・正明親王・仁礼親王から惟貞・頼明以下へつなぐ仁礼覚左衛門家の系図。惟喬親王は木原王子・小野宮を号し、惟貞は正三位修理大夫で初めて藤原姓を賜ったとする。伴善男の後裔について、善男が宇多天皇の勅を奉じ薩摩・大隅・日向三州の長吏として寛平元年に下向したこと、兼行が勅命に背いたため天禄二年に仁礼新宰相頼明が円融院の勅で三州に下り伴家を平治したことを記す。さらに安元二年、後白河院の勅による一族の三州下向と、その後の上京・万里小路居住、薩州別府庄に残った経景が藤原姓を平姓へ改めた由緒を載せる。後半は景政以下の諸系線を示し、修理大夫景治の宮原号、信景子孫の中島号、友久に仕えた景治、『人物志』に伝記がある景次などを注記する。末尾の景治は二郎太郎・太郎兵衛・覚左衛門を称し、寛永二年生まれで、御用人、長嶋・伊佐地頭、吟味役を歴任したとする。
目録年月日記載なし / 冊子 447~448頁/原整理番号 89
清武の祐行が死去した後、祐堯が清武を受け、木原・加納・船引・田野・今泉も知行したと記す。同年、島津殿との交誼を深め、九月に忠国が甲ノ浦から都於郡に着いた際に馳走し、犬追物を催したことを続ける。
「永和元年」六月十日 / 冊子 273頁/原整理番号 62
菊池武興が島津上総介へ、今川了俊以下の敵が山鹿・志々木原に陣を取ったため籌策を尽くしていること、当国の人数がおおむね敵に当たっていることを伝える。筑後での対治を島津方に求め、先の共同作戦が果たせなかった事情を遠路と単独の勢力で説明し、使者を待たず今後の軍事連絡と協力を進めるよう求める。
正応六年四月三日 / 冊子 373~374頁
肝付郡弁済使兼石代の子兼藤が、地頭側による所領・在家・狩倉・雇夫役などの押領と非法を訴えた件について、木原田・野稲富・蘭・迫田など多数の所領と相論点を挙げ、停止・返付の可否を糺明して沙汰するよう命じた名越道鑒書下。
慶長三年六月吉日 / 冊子 218頁
上井神五郎里兼が川上次郎左衛門尉に交付した加増分の知行方目録。薩州隈城西手村内の山下・山崎・中田・柿木原・瀬戸山などの田畑について、場所ごとに石・斗・升・合・勺で石高を列記する。
年月日未詳 / 冊子 162~163頁/原整理番号 53-2
守護の御狩に関する木原朝追立宿の割当と、守護狩目録の先例を記す。東西の手引・案内者に人数を割り当て、狩人や案内者は知行分に応じて確保すると述べる。鹿子・皮を行事が私用した近年の慣行にも触れ、狩りは春秋の年二度で、その際には守護へ申し上げるべきことを記す。
年月日未詳 / 冊子 378頁/原整理番号 90
大口の諏方大明神の社殿を竪四間・横四間三尺と記し、忠元が小木原村の諏方を城近くの長峯へ勧請したと伝える。寺社奉行所の仏閣帳に載る記事を、久仰が寺社奉行として勤めていた時に抜き書きしたもの。