島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 351~352頁
島津家久譜の記事。豊臣秀吉の命による薩隅日三州の太閤検地と石高配分、朝鮮役後の領地給与、家久の領内検地命令、農民課税・寺社・城郭・郷村・兵役などの統治規定を記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 351~352頁
島津家久譜の記事。豊臣秀吉の命による薩隅日三州の太閤検地と石高配分、朝鮮役後の領地給与、家久の領内検地命令、農民課税・寺社・城郭・郷村・兵役などの統治規定を記す。
元和二年十二月廿一日 / 冊子 635頁
児玉利昌が文禄・慶長の朝鮮役で自力・自船により渡海し、主従や船員を率いて国府衆も無償で乗船させた軍忠を列挙し、その働きの披露を求めた覚書。
元和三年三月十一日 / 冊子 637頁
朝鮮役で自船を用いて人衆を渡海させた児玉利回の忠節を認め、加恩の願いは以前から披露済みであり、知行事情のため時機を見て加増すると約した連署状。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
慶長三年孟秋 / 冊子 225頁
『島津義弘譜』が、朝鮮在陣中の戦果報告では首級の代わりに鼻や耳を京都へ送り、豊臣秀吉がこれを賞して大仏殿付近に耳塚を築かせたことを記す記事。慶長三年秋に明軍が海陸四方面から進み、麻貴が蔚山の加藤清正、董一元が泗川方面の島津義弘父子、劉綎が順天の小西行長、陳璘が水軍を担当し、龍涯・友理が義弘父子へ勧告文を送った経緯を記す。
萬暦二十六(慶長三)年七月廿五日 / 冊子 225~226頁
明側が島津義弘・忠恒父子に送った勧告文。日本軍は朝鮮侵攻で山中に苦しみ、故国の田地も荒れ、家族と長年離れていると説き、明の大軍が水陸から迫って進退の道はなく最後は死に至ると警告する。休戦を望むなら通事を派遣して交渉し、別案があれば速やかに返答したうえで、帆を揚げて帰国し刑罰を免れるよう促す。
慶長三年八月 / 冊子 228~229頁
『島津義弘譜』が、麻貴ら明軍が蔚山の加藤清正と対峙し、島津義弘・忠恒が一万の兵で泗川・新寨周辺の諸塁を守り、近隣諸邑へ軍事行動を行った状況を記す記事。豊臣秀吉は伏見城で没する際、死を当面秘し、浅野長政・石田三成を筑紫へ急派して朝鮮在陣諸将を帰国させ、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の遠慮により十万の兵を異国の枯骨としないよう遺言したとする。
元弘3年~正徳5年(系中) / 冊子 532~546頁/原整理番号 29-1
惟宗姓市来氏について、政家・家房から近世の政香・政武らへ至る系譜と家伝を収めた長大な記録。冒頭で市来院郡司・郡司職、母方の大蔵氏、国分・河上・橋口・角・河俣など諸流との関係を示す一方、政家の出自や市来院郡司職の伝承は諸家系図・注進文書だけでは確証できないとして異説を検討する。元弘3年には家親が渋谷・相良両家と結んで植松城を拠点に戦い、伊作大隅守勝久らとの市来院争奪では射戦・城攻め・訴訟・所領処分を重ねたとする。至徳2年には氏久が久豊へ追物射を命じた際、市来右京亮が射手を務め、のち筑前博多へ派遣された記事がある。家清は文明7年に大明神社を再興し、家保は天文7年12月29日に加世田城を守って今泉川で戦死、家利も加世田城防衛で大軍と戦い、西原川窪の奮戦で味方を退かせたと記す。文太郎忠辰は文禄元年から朝鮮へ従軍し、家尚は弓馬・飛弾・連歌・書画に通じ、久豊以来の家伝や国老衆の譜牒を調査して著述を残した。近世部分は家幸・家通・家親らの御目付・小姓・地頭職、知行・扶持、江戸・国元奉公、寺院葬送、改名・家督、複数の妻子・養子・分家を詳細に記し、記録館・史館勤務や文書編纂に携わった政香、家督と家名を継いだ政武までを載せる。
(慶長二年)七月廿八日~十二月十九日 / 冊子 412~435頁/原整理番号 67
面高連長坊による朝鮮在陣日記。慶長二年七月二十八日の固川・唐島付近での渡海と布陣から始まり、軍勢の移動、兵糧、攻城・合戦、使者や書状、傷病・戦死、天候などを日次で記す。泗川・晋州方面の戦況と撤収・帰国過程を経て十二月十九日に至り、のちの豊作を喜ぶ記事で結ぶ。『旧記雑録後編三』三四六・三四七号文書と同一との注記がある。
年月日未詳 / 冊子 570頁
名護屋に徳川家康ら東国・北国・畿内の軍勢が集まり、秀吉の朝鮮出兵を支える一方、島津義久の家臣である比志島紀伊・伊集院下野・本田刑部・東郷安房らが召し出された経緯を記す。 梅北一揆への関与を疑われた島津側について、浅野弾正の取り成しや秀吉の吟味を経て処置が定まるまでを述べ、朝鮮役と島津家中事件が交差する記事である。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
文禄2年12月 日 / 冊子 758頁
島津義久(龍伯)が琉球の中山王尚寧へ、朝鮮出兵では九州衆の在番が継続すると説明し、天下の命令に従って軍役・兵站への協力を重ねて求める。薩摩・大隅・琉球は一体であり、陣中の備えが重要だと強調する。 宗光明院ら使僧に託した書状案で、島津氏が琉球へ朝鮮役の負担を要求した外交・支配関係を示す重要史料。
年月日未詳 / 冊子 300頁
児玉利昌譜が、慶長三年十一月に京都から朝鮮在陣軍へ撤兵命令が届き、十二月に島津義弘が兵を率いて帰還した際、児玉利昌も従ったと記す。利昌は朝鮮役でたびたび首級を挙げる功績があり、義弘に召し出されて褒賞を受けたとする。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 300~301頁
児玉利昌の孫・児玉利言が、祖父の朝鮮役での奉公を申し立てる。文禄元年、義弘の渡海時に自費で船を用意して朝鮮へ渡り、雑兵を多数討ち取ったため、帰朝後に褒美として知行三十石を与えられたと記す。本文は複数条のうち一条のみを掲げ、ほかは省略されている。
年月日未詳 / 冊子 716頁
川上忠興の子忠智を祖とする支流系図。忠智が栗野・馬越・蒲生地頭と家老を務め島津義弘に従軍したこと、忠堅が島原で龍造寺隆信を討つ軍功後に鷹取城で戦死したこと、忠兄が朝鮮役で功を立て父に代わり家老となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 718頁
川上久長・久首流と川上義久入道道安一流を記す系図。久首が朝鮮役・泗川新寨の戦勝に従軍し志布志・伊作地頭、家老となったこと、弓馬の達者義久が京都の犬追物を見学し将軍足利義尚の前で騎乗を披露して義字を賜った由来を記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
北郷忠相の二男忠孝を祖とする財部支流系図。忠孝が財部地頭として飫肥新山合戦で戦死したこと、忠増が忠虎の家老を務めたこと、久延が財部地頭・家老として朝鮮役中に軍代を務め、幼い久加の人質上洛に随行したことを記す。
享保3年6月6日 / 冊子 195頁/原整理番号 113
御国が遠国であるため、朝鮮役などで1万人を召し連れる想定を満たせず、人数不足の場合をどう扱うか尋ねる付書。朱書は新納又左衛門直筆とし、享保3年6月6日付で結ぶ。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。