殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 770~771頁
天文八年の紫原・蒲生城・市来城などの合戦で戦死した家臣を、日付・戦場・死因とともに列挙する。本村時貞、蒲生清綱、池上将監、伊地知新四郎らを収める。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
13 件 (全巻)/ 1–13件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 770~771頁
天文八年の紫原・蒲生城・市来城などの合戦で戦死した家臣を、日付・戦場・死因とともに列挙する。本村時貞、蒲生清綱、池上将監、伊地知新四郎らを収める。
正月15日 / 冊子 701~702頁/原整理番号 729
『藤掛集書』所収の原城からの矢文。籠城は国家への反逆や私欲ではなく切支丹宗旨を守るためだと述べる。禁令と迫害によって改宗したものの、後生と天主を背くことへの恐れから信仰を捨てられないと弁明し、単なる身命への執着ではないと訴える。正月十五日、四郎時貞から松平伊豆守に宛てる。726-2と本文を同じくする異本。
正月15日 / 冊子 699~700頁/原整理番号 726の2
国家に背くためや私欲による籠城ではなく、切支丹の宗旨を捨てられないためであると訴える矢文。改宗を迫る法度と迫害、後生への恐れから一度は改宗した経緯、なお信仰を守ろうとする理由を述べ、単に身命を惜しむ邪路ではないと弁明する。正月十五日付、松平伊豆守宛。異本の語句を多数付記し、時任氏日記本との関係も注記する。
年月日未詳 / 冊子 332頁/原整理番号 307
十三日、兵糧を取り出すために出た島原方の人数が敗北し、足軽大将ら多数が討死した戦況を記す。翌十四日には四郎時貞が五千人を率いて天草へ渡海し、上津浦へ加勢した。
年月日未詳 / 冊子 80頁/原整理番号 130-2
山田右衛門佐が諸大将の被官へ披露を求めた孟春下旬の矢文。四郎時貞らを成敗して乱を鎮めるため、切支丹方へ強制的に加わった百姓八百人を説得済みであるとし、城攻めの際に防戦を装って放火し、味方へ合流して小船で四郎を捕える計画を示して赦免を願う。
二月十二日 / 冊子 124~125頁/原整理番号 199-1
肝付兼屋の従臣・緒方主殿介の覚書に写された矢文。城中から寄手の鍋島・肥後・豊後横目衆などを嘲る文句を列ね、二月十二日酉刻に城から付けた矢文とする。末尾に浮武士頭有馬亀之丞時貞・口之津左兵衛正利の名を記す。
二月廿五日 / 冊子 203~212頁/原整理番号 322
『藤掛集書』の「二月二十七・二十八日原之城落去之事」。二十七日朝、二十八日の城乗りを評定するため諸大将が戸田左門氏鉄の陣所に集まったところ、物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、松平伊豆守が確認して各将を陣所へ戻したため、諸勢が予定外の攻撃に続いた。本文は、軍法に背いた先行突入への批判、若年の近習・家臣らの戦功と戦死、証拠提出・褒賞の経緯を詳述する。また鍋島勢の先手三千人を二手とする編成、第二陣二千五百人、白布旗、梯子・竹束、海辺に潜ませた水練の達者百人などの攻城準備を記す。黒田右衛門佐が退却しないと誓って天草丸へ攻め、黒田美作が機を見て突入させた記事では、黒田勢の討死を上下二百人、手負千人余りとする。細川勢は二十七日巳の下刻、鍋島勢に続いて三の曲輪を破り、海手から二の丸へ入り、詰の丸東端を攻めて九曜旗を立てた。この時の手負・死人は百人。敵前に柵木を結って夜を明かし、二十八日早朝に四郎の居館へ入って焼き、天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取ったため、本丸一番乗りとして江戸へ注進したと記す。
年月日未詳 / 冊子 262頁/原整理番号 334-1
『寛明日記』が原城陥落時の細川・黒田勢の働きを記した記事。二十八日早朝、細川越中守忠利勢が四郎時貞の居館へ乱入して数百人を討ち取り、火を放ち、細川家臣の陣野佐左衛門が一揆大将四郎時貞を討ち取ったため、本丸一番乗りは細川忠利であると江戸へ注進したという。また黒田右衛門佐忠之勢は未明に本丸へ攻め、鉄砲・石・大木を受けて多数の死傷を出しながら七、八間の石垣を登り、黒田三左衛門ら歴々の者が乗り込んだとする。
年月日不記(各代の生没年・任官年を系図内に記す) / 冊子 627~628頁/原整理番号 112
種子島氏支族・美座対馬守時里の二男から出た国上氏の系図で、時里・時宣・時通以下の系線と婚姻・養子関係を記す。時盛は伊勢長門守貞清の二男で嗣子として養育されたとあり、島津義久の奥向きへの奉仕、小浜村千石の采地拝領、見隆寺建立を記す。後代の時貞は馬術と鉄砲の師範を務めたとされ、時春には高原・羽月の地頭職の記事がある。和田十助正弘の養子になった者や家督を継いだ者、諸家との婚姻も挙げ、国上氏の分流と奉公・知行の継承をたどる。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
年月日未詳 / 冊子 448頁/原整理番号 425
島津久賀に従軍した時任氏の日記所収「有馬一起物語」。本丸の有馬四郎をはじめ、二・三の丸、出丸の将や侍大将・使番・鉄砲頭・武士頭・普請奉行の名を列記する。物頭は合計二十一人、年齢は二十から五十まで、勢は一万騎とする。肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記にも大同小異の名書きがあり、異なる箇所を傍記したと説明する。
年月日未詳 / 冊子 266~267頁/原整理番号 336-2
原城落城時に寄手が討ち取った首数を諸将別に列挙した覚。細川越中守285首(小字に四郎時貞の首と陣佐左衛門の討取りを記す)、黒田右衛門佐576首、鍋島信濃守692首、有馬玄蕃頭125首、立花飛騨守157首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹波守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、末尾に「合二千四百四十余首」、松平伊豆守の首帳にこのとおりと記す。読取可能な14明細の合計は2,174首で、原記載の総数2,440余首とは一致しないため、数値を改めず差異を留保する。
年月日未詳 / 冊子 298頁/原整理番号 337-4
原城落城時に寄手が討ち取った敵の首数を諸将別に列挙した覚。鍋島信濃守692首、黒田右衛門佐576首、細川越中守285首(内、大将天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取った旨を付記)、立花飛騨守157首、有馬玄蕃頭125首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹後守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、総数を2,440余首、松平伊豆守の首帳に付けた内容とする。読取可能な14明細は計2,174首で総数と一致せず、原記載を保持する。336-2とほぼ同文。