近衛稙家書状
三月十三日 / 冊子 325頁
近衛稙家が島津忠良(日新斎)に、久しく音信が途絶えたことを詫びる。修理大夫の受領と又三郎の官途について公武へ申し調えたことを伝え、詳細は進藤左衛門大夫から説明させるとした書状。
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三月十三日 / 冊子 325頁
近衛稙家が島津忠良(日新斎)に、久しく音信が途絶えたことを詫びる。修理大夫の受領と又三郎の官途について公武へ申し調えたことを伝え、詳細は進藤左衛門大夫から説明させるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 332頁
琉球王某が島津忠良に、前年初夏、太平島の百姓が逆浪で片浦に破船した際、船を造って与え、無事帰国させた救助へ謝意を表した書状。使節として建善寺を渡海させ、黄金・真南蛮香・織物・紅白の糸・白布・蜜・砂糖・線香・薬種などを贈り、詳細は月泉長老に託す。
年月日未詳 / 冊子 903頁
天文二十一年、六十一歳の島津日新斎が生死と国家・民衆について述べた記事。自らの葬送や墓所の扱い、死後の功徳、領主が民を治める心得を示し、あわせて詩歌に託した心境を記して、晩年の日新斎の政治観・宗教観・死生観を伝える。
年月日未詳 / 冊子 902頁
日新公御譜および日新記に、島津貴久へ蹴鞠の家統・秘伝が授けられたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 561~562頁
『島津日新譜』が、島津忠良(日新斎)の人物像を、仁愛と剛毅、主君・父母への忠孝、神仏への信仰、学問・和歌と武芸の修養から描く。これらの徳が家臣統率、領民への教化、子孫繁栄の基礎になったとして、後世の理想的領主像を示す。
年月日未詳 / 冊子 561~562頁
『島津日新譜』が、菊三郎丸と称した島津忠良の年齢・成長過程、母から受けた教訓、親族との関係を記す。のちの日新斎による家督継承と子女の系譜へつなげ、幼少期の養育と家の継承が人物形成に与えた経緯を伝える。
年月日未詳 / 冊子 603頁
島津貴久の系譜記事として、貴久公御譜中および日新斎の子女に関する記載を掲げる。
天文廿一年十月吉日 / 冊子 903頁
島津日新斎が川邊寶福寺へ、薩摩国加世田庄内の小湊にある塩屋一間を永代寄附した寄進状。
天文廿二年二月三日 / 冊子 906頁
島津日新斎が天徳寺へ、薩州伊作の庄湯之浦名内にある水田五町を寄進し、永代の寺領とした寄進状。
天文廿二年九月廿七日 / 冊子 908頁
島津日新斎が栗野徳元寺の祐田公記室禅師に、大隅国宮内の正雲禅寺の件を進献し、後の鑑定・令啓を求めた書状。
天文廿三年二月二日 / 冊子 910頁
島津日新斎が保泉寺へ、薩州加世田庄内の合大浦名・長田之門にある田地などを永代寄進した寄進状。
天文廿三年四月廿日 / 冊子 910~911頁
島津日新斎が島津貴久に、両郡の格護や世間の雑説に動かされず、互いに疎略なく一味することを神仏へ誓った起請文。
九月廿三日 / 冊子 928頁
島津日新斎が又三郎に、岩剣方面の戦況を踏まえ、船の手配や陣中での働きに万事油断なく対処するよう伝えた書状。
「天文廿三年」九月十五日 / 冊子 928頁
島津日新斎が又三郎に、陣取りを喜びつつ長く用心するよう戒め、文六郎の件などへの対応を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 263頁
飲酒の戒めを主題に、日新斎の教訓歌と能岳俊・義久・家久らの歌を連ねた詠草。酒を重ねる愚かさ、適量、親の戒めを説く。
年月日未詳 / 冊子 561頁
島津忠良が明応元年九月二十三日に生まれ、母が新納是久の娘であったこと、島津善久に実子がなく忠良が家を継いだことを記す系譜記事。
十二月十四日 / 冊子 345頁
島津忠良が忠俊へ、伊集院で約束した川野での千句興行を来る七日から行うので、五日頃に来れば六日から相談できると伝えた書状。発句ができれば示してほしいと求め、再会を期す。
年月日未詳 / 冊子 562~563頁
島津忠良(日新斎)と伊作道場・西福寺の関係を記す寺院保護の記事。忠良や新納殿・伊作殿・勝久らの時代に、寺院建立、寺領・扶持の設定、証文や什物の授与が行われた経緯を追い、当家の庇護によって道場と寺の経営基盤が整えられたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 659頁
島津忠良が出家して日新斎と号し、生別府で十四歳の千代鍋を元服させ、太郎(樺山玄佐)と称させた記事。太郎を島津貴久の弟の列に加え、樺山氏の後継として位置付ける。あわせて忠良の次女が伊作浦から市来湊を経て生別府へ移った経路を記し、一族の身分編成と移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
日新斎が実久領の加世田城を攻めた際、忠将が将帥として指揮し、自ら大敵へ馬を進めて奮戦したため敵兵が敗走し城が陥落したこと、追撃と味方の戦死者を記す。
年月日未詳 / 冊子 329頁
島津忠良が、亡父越山超公・亡養父大年登公・亡母梅窓妙芳大姉の頓証菩提のため、高野山根来寺に日牌・月牌を納め、各々に金襴袈裟三衣を寄進した記事。裏書には島津相模入道日新斎の寄進と記す。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁
和歌が天地・鬼神・人倫を動かす道であると説き、忠久以来の島津歴代、とりわけ忠宗・日新斎・貴久・義久・義弘・家久の和歌活動と、公家・歌人との交流を概説する。散在していた家久自筆の詠草を収集・分類し六巻の『家久詠歌遺藁集』とした編纂目的と凡例を記す序文。
年月日未詳 / 冊子 658~659頁
大永六年四月、島津忠良が鹿児島から生別府へ渡り、十四歳の千代鍋を元服させて太郎と称させ、虎寿丸の弟として遇するよう命じ、奉公を誓わせたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 661頁
島津忠昌の三子から忠兼(勝久)が家督を継いだ経緯を述べ、忠兼の人物と政道を厳しく批判する島津日新譜記事。忠兼・実久・忠良・北郷忠相らの対立によって家中と国中が動揺したことを記し、守護の賞罰・人材登用の誤りが政争を拡大したとの評価を示す。
「大永六年」八月朔日 / 冊子 662頁
琉球国世主が島津方からの音信と武具二種を喜び、返礼として北絹十端・素糸十斤を贈り、披露を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁
天文元年、世情が不穏となるなか、島津忠良・貴久方と伊東・北原方が高城をめぐって対立した経過を記す。樺山信久・北郷忠相・島津忠朝らが城郭と交通路を確保し、敵方の進出を防ぎながら攻防を進めた。高城支配が諸勢力の同盟関係を左右したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
伊作方が南郷城を奪取して永吉と改称したころ、樺山玄佐が忍んで山野を越え、伊集院大和守まで使者を送り、変わらぬ忠節を通じたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
島津勝久の鹿児島帰還後の政情と家臣処罰を背景に、忠良方が加世田城を攻めた経過を記す覚書。島津貴久・忠将、鎌田加賀守らが城内へ攻め込み、敵兵を追撃した一方、味方武士も戦死した。攻城の進路、城内戦、追撃までを当事者の記憶に基づいて伝える。
年月日未詳 / 冊子 477頁/原整理番号 76
川上忠真の忠節を記す譜。長年日新斎に仕え、その死後は島津貴久に奉公したこと、五十八歳で忠真の膝上に没するまで篤く仕えたことを挙げ、忠義を称える。
年月日未詳 / 冊子 486~488頁/原整理番号 85の2
島津家の由来を記した由緒書。源頼朝の子としての島津忠久の出生伝承から、忠久以後の歴代・支流、三州の所領と相続、各地の合戦・奉公、日新斎期の領国形成に至る由緒をまとめる。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛稙家が遠路のため無音となっていたことを詫び、貴久の受領と義久の官途を公武へ申し整えて文書を下したことを日新へ通知した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
年月日未詳 / 冊子 263~267頁
紅梅、花、春雨、雪、曙、夕日、竹、月、七夕、七種、椿、夜時雨など四季と祝意を詠んだ島津家久の短冊・詠草群。
正月29日(写) / 冊子 337~338頁/原整理番号 130-22
河上氏文書のうちから正月二十九日に写した別紙の某覚書。大隅国の吉内左衛門尉家長に関わる山城守の許可、松山地頭となった人物が和泉から日新斎へ供奉して中村に居住した由緒、羽月居住者と貴島常陸一族、南郷氏との争い・永吉での討死、薩州時代に小湊を領した人物、市来助次郎の曾祖父山城守の妹婿にあたる和泉の市来氏など、一族・姻族の関係を伝える。付随系譜は九代家政が次郎左衛門尉・山城守を称し、法名を長盛としたことを記す。