島津歳久夫人書状
9月□日 / 冊子 740~744頁
島津歳久夫人が惟新公(島津義弘)へ、家族や周囲の人々の安否、病状・服薬、使者や贈物、返書が届かない不安などを仮名で細やかに書き送る。 お菊や武蔵殿らの近況にも触れ、歳久没後の島津家女性たちの日常、感情、親族間の連絡を五頁にわたり伝える貴重な私信。
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9月□日 / 冊子 740~744頁
島津歳久夫人が惟新公(島津義弘)へ、家族や周囲の人々の安否、病状・服薬、使者や贈物、返書が届かない不安などを仮名で細やかに書き送る。 お菊や武蔵殿らの近況にも触れ、歳久没後の島津家女性たちの日常、感情、親族間の連絡を五頁にわたり伝える貴重な私信。
(寛永五年)十二月晦日 / 冊子 77~78頁
島津家久が、比志島宮内少輔の仕置に際して出した命令を写した長文覚書。比志島家の過去の奉公と不始末、霧島への流罪、家族・親族の処遇、家財・知行・返地、関係者の監視や奉公先などを細かく定める。
応永16年2月18日(1409) / 冊子 457~458頁/原整理番号 14-16
指宿近江守忠合が子息・平頼忠へ、薩摩国指宿郡五ヶ名を重代相伝の所領として譲った応永十六年二月十八日付譲状。父・能登守忠勝の公方御教書や代々の本証文を根拠に、指宿郡一円の知行と正忠・忠合へ至る相続経緯を述べ、父祖代々の証文が明白であるとして頼忠への譲与を定める。後続系譜には、永吉城・新納院高城・日州庄内での戦死、島津尚久・本田氏・市来家・松下家との婚姻、忠政の関ヶ原合戦従軍と感状・知行百石、福山居住・没年法名など、指宿氏後裔の軍歴と家系を記す。
明治7年12月12日鹿児島県庁 / 冊子 942~943頁/原整理番号 1200/整理ID 1200
惟新公の肖像を翌二十三日早朝に龍尾神社から伊集院徳重神社へ遷座する予定を告知する。参詣者が多く御道筋で混雑しないよう、秩序を守り不敬のないようにする。
年月日未詳 / 冊子 455頁
島津義久が惟新公へ送った書状の抄録で、財部口の合戦が甚だ激しく、平田三五郎が朝に負傷し夕方に戦死したこと、吉田大蔵が深手を負ったことを報じる。そのほかには被害がなく、めでたいと述べる。
慶応3年卯11月9日、太守発駕前に佐土原侯から差上写の注 / 冊子 424~425頁/原整理番号 601の2/整理ID 601-1
祖宗以来の高恩に報いたいとして、幕府が従来の失態を悔い政権を朝廷へ返すのは国体一新の基を開く幸であり、中将の忠誠と尽力を称え、太守も早く上京してほしいと願う建言写。王制復古の公議は万代の基礎となるので、和漢古今の明君・儒師などの道理を考え、古典を通じ才能ある者を用い、諸藩の応接や広い善言を聞いて政務を至公に行うよう求める。君臣の善言採用と国の安危を論じ、千載の機会として恐れながら言上する。末注は慶応三年卯十一月九日、太守の発駕前に佐土原侯から差し上げた写とする。目録の島津忠義建言書の標題と、正文の無署名・写の差上者を区分し、忠誠や政治的称賛は本文の主張として示す。
年月日未詳 / 冊子 77~78頁/原整理番号 63の15
差出人不詳の書状が斜木・石井へ来る八日の加勢を求め、城近くの畠作を荒らすため、特に手火矢の人数を送るよう依頼する。後評は斜木等を禰寝重長の家老かと推定し、朝鮮・島原での鉄砲利用や後世の扱いへの懸念を論じる。
十一月十六日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 120
島津惟新の書状抄。伏見の留守番のため上方へ送るべき人数が出されていないことを案じ、上方情勢の変化に備え、鹿島太郎兵衛を使者として国元の対応を促す。
年月日未詳 / 冊子 179頁/原整理番号 60
伊東才蔵家の系図。伊東加賀守から右衛門へ続き、右衛門は実は加賀守の弟で、兄の猶子となり、加賀守とともに木崎原で戦死したと記す。次左衛門の後裔は佐土原没落時に浪人となり、のち伊集院忠真に属し、忠真下城後は指宿に居住、その後加治木へ至って惟新公に仕え、知行を与えられた。別系の仙右衛門―志摩助の後裔は光久公に仕えて御守役を務めた。藤五郎―仙右衛門の系の後裔は、江戸上御屋敷の類火時に女房を介抱して退出させ、光久公病気の際には霧島御鉢へ二昼一夜参籠し、のち納殿役を務めた。
永禄八年十月廿六日 / 冊子 141頁
永禄八年十月二十六日、日向国の城攻めで落城に至り、惟新公島津義弘が負傷したことを記す古戦書付。
年月日未詳 / 冊子 584頁
宰相様は慶長五年九月まで大坂屋敷に滞在していたが、関ヶ原合戦に敗れた惟新公すなわち島津義弘(惟新)の帰国に際し、家人とともに大坂を出たと記す。西宮沖で義弘と同じ船へ乗り移り、九月二十九日に日州細島へ着き、そこから陸路で帰国した。
年月日未詳 / 冊子 609~611頁
新納忠泰の五男忠成を祖とする支流系図。志布志落城時の出奔、日向綾・大崎・帖佐・加治木への移住、惟新公の使役に奉仕した久行、長井氏・新納氏間の養子相続と復姓、後裔の生没年・婚姻を記す。
永禄9年10月26日、慶長5年9月15日、慶長10年4月20日 / 冊子 21~23頁/原整理番号 7
本田氏十二代兼親の三男・親賢(源二郎、兵部少輔)を祖とし、肥駄隼人介の後嗣となった系統。親豊が肥駄氏を去って本田氏に復したこと、親次が永禄九年十月二十六日に三之山で戦死したことを記す。親商は惟新公の加治木在城時の家老で、関ヶ原退去の際に忠志を尽くし、蒲生地頭を務め、慶長十年四月二十日に没した。ほか、親昌(初名親信、実は比志島源右衛門国家)の慶長五年九月十五日関ヶ原戦死、上井・宇宿・友野・木脇・川畑諸氏との婚姻、養子・早世・法名を収める。
慶長四年夏 / 冊子 265頁/原整理番号 19
龍伯が置いた法度と鹿児島での神水、一向宗法度、信心に関する条を含む覚書を引く。季安はこれを慶長四年夏の惟新公の命令と考える。