新納氏系図抄(三)
年月日未詳 / 冊子 582~584頁
新納氏七代忠武の二男忠郷を祖とする庶流系図。山東・福島院桂原での戦死、久景家や忠衡家への養子相続、忠頼・久建らの生没年・母方・婚姻を記す。
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年月日未詳 / 冊子 582~584頁
新納氏七代忠武の二男忠郷を祖とする庶流系図。山東・福島院桂原での戦死、久景家や忠衡家への養子相続、忠頼・久建らの生没年・母方・婚姻を記す。
年月日未詳 / 冊子 714頁
川上兼久の二男忠頼を祖とする支流系図。小川二十五町と鹿児島伊敷など計五十五町を領したこと、忠塞が伊集院竹山・甑島郡を領したこと、日向鹿口へ移った申慶の時代に豊臣秀長の九州入りで家伝文書を失ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 716~717頁
川上忠克が串木野領主から島津実久方に属した後、天文八年の市来攻防で勝敗を見極め、忠興と協議して串木野を島津貴久へ献じ、子忠頼を帰属させた経緯を詳述する。甑島配流後に赦免され家老へ復帰したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 718頁
川上忠頼の早世後に久朗が家督を継ぎ、十八歳で島津貴久から家老就任を命じられ、福昌寺の冠和尚を介して再三辞退しても許されず受諾した経緯を記す。軍功に高城村十二町を与えられ、公平な配分を懐かしむ落書も載せる。
年月日未詳 / 冊子 731頁
北郷忠虎以下の系図。外城を称した女子の比志島義智への婚姻、三久の生年と母方、五年間京都で人質となり肝属院小原村二千石を賜った久村、十七歳で人質上洛後に没した忠頼らを記す。
年月日未詳 / 冊子 241頁
文応二年正月一日の坑飯で、両国司以下が布衣で出仕し、島津忠頼が庭上東座九十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 241頁
文応二年正月二日の坑飯で、島津忠頼が四御馬の引手を務めたことを記し、左衛門尉忠頼の列次を伝える。
年月日未詳 / 冊子 241頁
文応二年正月七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠頼が布衣十一人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 241頁
弘長元年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で、将軍家出御の際、島津忠頼が帯剣十五人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 353
新納佐左衛門忠頼が、寛永十五年二月二十八日、有馬原城の屏を乗り越え、城中で『鉄(炮脱カ)仕候』とする働きを記した証文。出水衆山内左近将監・村尾源左衛門尉がその場にいたとする。両名は本文中の証跡関係者で、宛先ではない。目録年月日欄は空欄である。編者注は『旧記雑録後編五』二一四六号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 246頁
島津重賢を四郎、初名定賢・七郎とし、弘長から文永年間に鎌倉へ出入りして宗尊親王に仕えたことを記す人物経歴記事。
年月日未詳 / 冊子 264頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0576
綱久公御譜に収められた光久の子女の同胞横列に於虎を掲げる。明暦元年八月九日生、母は新納佐左衛門忠頼の娘で、於虎は島津又十郎忠興の室となる。
年月日未詳 / 冊子 161~162頁/原整理番号 285
伊地知季安の記事。喜入摂津守忠政に従軍した加世田衆の仁礼佐渡守忠頼らが三分一の帰衆としてこの日上津浦を出帆した。また、使衆との取次のため出水米津へ出張していた蒲生地頭市来八左衛門宗友も加勢を命じられ、この日米津を発船して有馬へ向かった。松下源五左衛門らは蒲生勢の集結を待ち、翌日の出船を準備したという。
年月日不記(天正二年・文禄二年・慶長五年などは各代の記事) / 冊子 649~652頁/原整理番号 119
藤原姓本城氏の系図。源七郎忠仍は世継ぎのない東郷重尚の養子となって東郷氏を称し、朝鮮出兵に従った後、本姓に復したと記す。島津豊久が関ヶ原で戦死すると、家久の命で忠直が後継に定められたが、忠直の病と家の断絶を受け、女子と喜入家の男子との縁組で豊久の家をつなごうとした経緯を載せる。子孫には東郷家と本城家のいずれに属するかをめぐる議論があり、忠頼は祖父忠直の隠居地・父忠清の出生地を由緒として東郷を改め、菱刈本城を称したという。佐土原・菱刈本城などの居住、島津光久への太刀献上、女子の婚姻や家督の継承も記す。
年月日未詳 / 冊子 287頁/原整理番号 95-1
『応永記』が、応永五年正月十二日、総州は山を越えて申木野に留まり、市来・吉田へも相談したと記す。別府との争いでは両人とも相手方を手に負えないと答えたため、伊作方の意向に配慮して合戦せず、下野守忠頼と若狭守清正を派遣した。上意を聞いて双方の理を立て、鹿児島へ状を送って交渉を進めたという。
二月廿九日 / 冊子 336~337頁/原整理番号 379-2
伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで加久藤衆が挙げた首取得、手負・戦死、同心衆を列記し、上原左太右衛門尉尚辰・新納佐左衛門尉忠頼へ提出した注文。首取得者十二名の個別首数は合計十五で、本文の『合首数十五』と一致する。金剛坊の鉄砲疵、岩崎弾之丞・川野与右衛門尉らの鑓疵、赤川兵左衛門尉の戦死を記す。同心衆欄には西田和泉守らを列挙する。二月二十九日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一六八号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 510~513頁/原整理番号 26
桓武天皇―葛原親王―高見親王―高望親王から平氏諸流を展開し、良望・良将・良兼・良繁・良文の系、忠頼・将常以下の各地の祖、北条四郎大夫時家から時綱・時兼・時政・義時・泰時・時氏らへ続く北条系、惟衡―正度―正衡―正盛以下の伊勢平氏系を並記した系図。忠盛には三十三間堂建立、清盛には太政大臣・厳島再興、維盛には新三位中将、資盛・師盛・清度らには位官を注記する。田代氏の直接の系統では、時盛が伊豆守として当国へ下向し、野上田伊予坊を引いて知行し、源氏から平姓へ改めて建部氏を号したとする。光盛―秀盛―久季の久季は上洛して宇治川で討死し、佐多家が断絶して守護領となったと記し、時盛―実盛―国盛以下から道清・以久・清久・久助へ至る。以久は法光寺を建立し、氏久から良院・鹿屋内高隈村の宛行文書を受けたとし、清久には串良知行などの文書、久助には『三ヶ国の大将軍として探題へ参上』との注記を添える。
年月日未詳 / 冊子 448頁/原整理番号 425
島津久賀に従軍した時任氏の日記所収「有馬一起物語」。本丸の有馬四郎をはじめ、二・三の丸、出丸の将や侍大将・使番・鉄砲頭・武士頭・普請奉行の名を列記する。物頭は合計二十一人、年齢は二十から五十まで、勢は一万騎とする。肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記にも大同小異の名書きがあり、異なる箇所を傍記したと説明する。
年月日未詳 / 冊子 527~536頁/原整理番号 544の1
親見出し『平塞録』所収の記事。寛永十五年正月元日の原城総攻撃について、有馬勢の時刻違いの抜け駆け、諸勢の追随、鉄砲・矢石・竹束を用いた城際の攻防、各隊の突入と退却を詳述する。石谷貞清らの負傷、諸家の討死・手負、上使板倉重昌が塀下で銃撃され戦死した経過、遺骸の葬送、江戸への注進までを記す。
年月日未詳 / 冊子 537~539頁/原整理番号 547の1
親見出し『寛明日記』巻第十九の記事。寛永十五年正月元日、江戸の強風とともに島原での総攻撃を記す。板倉重昌が戦死し、各家の軍勢が鉄砲・矢石を浴びて退却した状況、石谷貞清らの負傷、立花・鍋島・松倉勢の動向を述べ、末尾で当日の討死・手負注文へ続ける。
年月日未詳 / 冊子 241頁
弘長元年七月十二日、将軍家が最明寺第へ入御し、中御所も供奉した際、島津忠頼が歩行十八人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 241頁
弘長元年九月十五日、中御所が服薬・薬湯のため最明寺御第へ一時入御した際、島津忠頼が歩行十四人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 790-791頁
和泉忠直(初名忠頼、又八郎右衛門兵衛尉)が、足利尊氏方として高師直兄弟と行動し、軍事奉公に忠信を尽くした由緒を記す。中務兵寮力因を経て和泉右衛門兵衛尉を称し、島津一門に列したとする譜記事。
年月日未詳 / 冊子 299頁/原整理番号 34
阿久根氏系図を採録し、良望・忠頼・貞道・貞言・貞元らの代々と分岐を示す。諱や通称を補記した、阿久根氏の系譜確認のための史料。
文政元年12月16日 / 冊子 541~543頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1640
従四位下源朝臣斉興を従四位上に叙する位記。兵欄・羽衛に勤め、精誠に懈りなく昼夜公に奉じたことを称え、位階を進め寵章を用いるとして、担当者に施行を命じる。文政元年十二月十六日、朱印の表示を伴う。三品行中務卿紹仁親王宣、正四位下行中務大輔藤原朝臣師光奉、従四位下行中務少輔藤原朝臣維長行。公修以下、権大納言・権中納言などの官職と名を列記し、制書の内容を奉じて外へ施行する旨が続く。従五位上行大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師徳、右中辨光成を掲げ、関白・左大臣・右大臣・内大臣は名の空欄を残し、太政大臣は闕とする。二品行兵部卿貞敬親王、兵部大輔兼淡路守良久、右大辨在経、兵部少輔兼遠江守利根の官職・名を記し、斉興に制書を告げて符の到来後に奉行する書式へ続く。末尾にも同日付、朱印の枠図表示、大録・少録・少録の欄、右一通を採録する。「月日辰時」という未記入欄や空白の官職名欄を補わず、転写された印の表示と現物の押印を区別する。
年月日未詳 / 冊子 334頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0718
光久の子女を並べた同胞系図に於亀を掲げ、明暦三年四月十九日生とする。母は島津又十郎忠興の室と同じ母で、新納忠頼の娘との注があり、於亀は入来院隼人重香の室となる。編者は前の十六日付書状に今暁姫誕生とあることと十九日の記載の相違を指摘する。