桂忠詮・上井里兼連署状
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
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(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
正月廿八日 / 冊子 196頁
桂忠詮が、高麗方面へ江南仁を派遣する重大事について相談したいとして、早急に来訪するよう求めた書状。鎌田雲州も当地に滞在して昼夜談合中であり、少しも油断せず急いで越すことが肝要だと伝える。
年月日未詳 / 冊子 360頁
一瀬崎野の御牧に三十余疋がいるため馬見廻役を定めて改めること、帖佐から二階堂伝右衛門尉・野添善兵衛尉を呼び寄せて調査させ、在々の放馬も念入りに捜すことを報告する。また出水城の構えを調べ、市来治右衛門尉に絵図作成を命じたと記す。
(慶長四年)閏三月朔日 / 冊子 364頁
幸侃成敗の際に国許の衆が伏見へ差し上げた連署状。成敗を事前に届けなかったため石田治部少輔が立腹し、長谷寺へ移ったとの風聞に一同が驚いたと述べる。一方、幸侃の罪科は石田も以前から承知しているので事情を聞き分けて穏便に収まると期待し、吉報を早く知らせてほしいと伊勢兵部少輔へ求める。
閏三月朔日 / 冊子 364~365頁
本文はNo.696と同文のため省略されている。幸侃成敗を無届で行ったことに石田治部少輔が立腹して長谷寺へ移ったとの風聞を受け、国許の連署衆が驚きを伝え、石田は幸侃の罪科を承知しているので穏便な決着と早い吉報を期待すると伊勢兵部少輔へ申し送った文書である。
三月十四日 / 冊子 101~103頁
出水城の受領、肥後境界、各地の牧と馬数、城下から阿久根までの地勢、侍・百姓・職人の人数、豊臣秀吉朱印による人返し、旧代官との紛争、水俣の小西方との交渉など、出水郡接収後の総合調査を詳細に報告した連署状。
年月日未詳 / 冊子 903頁
島津家久譜は、八月六日に忠恒が休復を牛根から出立させ、桂太郎兵衛忠詮を警護役とし、正興寺の文書を添えて送り出したと記す。
年月日未詳 / 冊子 905頁
島津家久譜は、桂忠詮らが休復こと宇喜多秀家を伏見へ護送し、山口直友が本多正純を介して助命を訴えた経緯を記す。家康は死罪を免じて駿府近郊へ留置し、のち八丈島へ移した。忠詮には宝刀が与えられた。
(慶長八年)九月廿「九」日 / 冊子 909頁
山口直友が忠恒へ、桂太郎兵衛忠詮の上京後、休復は駿河国久能へ下向し、身命に別条がないと報告する。詳細は忠詮から申し上げるとして、助命成立を祝った。
(慶長八年)九月二日 / 冊子 905-906頁
比志島国貞が将軍への拝謁と進上品を報告し、秀頼への進物は未決と伝える。休復の助命嘆願が認められ、遠国ではなく駿河国久能に置かれることとなり、島津家の働きとして世間の賞賛を得たと知らせた。
十月朔日 / 冊子 910頁
島津惟新が忠恒へ、公方や諸方への進物一覧と上方からの書状を送る。喜入摂津守を使者に任じ、休復への使者も公方への使者と同時に上らせるよう調整し、富隈での談合や黒田長政への書状取次も指示した。
十月九日 / 冊子 268~269頁
翌日の来訪を喜び、太田飛騨の使者や日向からの到来について協議するため、喜入大炊助ら重臣を伴って早朝に来るよう求めた島津義弘書状。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
年月日不記(天正十九年・寛永十四年などは系図内の生没・事績年) / 冊子 639~642頁/原整理番号 115
桂氏五世太郎兵衛忠詮の三男・忠増(初名忠益)から始まる彦太夫家系図で、子女の生没・婚姻と官職を記す。忠増は仁礼蔵人頼景の三男・忠守(初名頼張)を養子に迎えたが、のちに実子忠保が生まれ、頼景が忠守の帰家を求めた。忠増は二男家として残すことを申し出て田を分け、忠守の家を立てたとする。忠守は明暦三年に境目の紙屋で地頭職に補され、加久藤・横川でも地頭を務め、京都蔵奉行・町奉行・琉球奉行・御用人などの勤めを重ねた。寛文九年の病中には綱久が山次右衛門久包を通じて安否を尋ねたこと、後代の勝政による太刀献上や勝房らの系線も載せる。
年月日未詳 / 冊子 224頁/原整理番号 161
慶長四年三月十四日付の書状。瀬崎野の御牧に馬三十疋がいるとの報告を受け、各地の牧の馬数や御馬追の用意を調べる。広い地域の馬数を直ちに確定するのは難しいため、見分を続けて追って報告すると伝える。
年月日未詳 / 冊子 221~222頁/原整理番号 157
『上井覚兼日記』天正十二年の記事。春山野の馬を藩主の所望に応じて牽き出し進上したこと、吉野の取駒をめぐる連絡や贈答を記す。馬の献上には使者を介した申し入れと返答が伴ったことが分かる。