島津忠栄譜
年月日未詳 / 冊子 386~387頁
慶長八年に母堂御平が死去すると、島津忠栄は義久の命により、御平の遺領である大隅国桑原郡中津川村の知行高千二百石と、付属する家人六十余人を相添えて拝領した。忠栄の旧来の知行は五百石で、相続を伝えた使者は伊集院伴右衛門尉久共であったと記す。
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年月日未詳 / 冊子 386~387頁
慶長八年に母堂御平が死去すると、島津忠栄は義久の命により、御平の遺領である大隅国桑原郡中津川村の知行高千二百石と、付属する家人六十余人を相添えて拝領した。忠栄の旧来の知行は五百石で、相続を伝えた使者は伊集院伴右衛門尉久共であったと記す。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
年月日未詳 / 冊子 386頁
薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。
年月日未詳 / 冊子 378頁
島津忠清一流の系図。忠清の弟忠栄の子孫として久基・鎌菊・弥市郎・美作守・民部少輔らの名と出生・母・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津久基の譜記事。久基は忠清の弟・忠栄の子で、初名を久盛、幼名を鎌菊、通称を弥市郎、官途を美作守・民部少輔といい、実父は入来院伯耆守重国であったと記す。伊集院源助久朝とともに六番組の与頭を務め、隅州牛根・薩州高尾野などの地頭を歴任し、延宝八年正月十二日に没した。
年月日未詳 / 冊子 557頁
薩州家忠清の弟忠栄の後裔である久矩について、承応元年四月十日生まれ、初名久明、幼名・官途、母を相良新右衛門長貞の娘とし、元禄八年二月十六日に没したことを記した譜。
年月日未詳 / 冊子 777~778頁
島津光久の子女について、万千代丸と称した忠紀、重永、久雄らの出生、官位・拝領、母、養子縁組、没年月日と法号を列記した系譜記事。忠紀は家光らから刀剣を賜り島津久敏の家を継ぎ、重永・久雄もそれぞれ家臣家の養子となった。
年月日未詳 / 冊子 738~741頁
天文四年の政変と合戦を、新納忠勝が聞書形式で日を追って記録する。島津勝久・実久、新納・伊集院・北郷諸氏の帰属、各城の攻防、使者往来を列挙し、梅久・忠栄ら家臣の戦死と恩賞、城・所領の処置までをまとめて家中対立の実態を伝える。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文年間、薩摩・大隅・日向三州の諸将が離合集散する中で起きた伊集院城攻防を記す。島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久父子らが対立し、北郷忠相・町田氏も関与した。城下戦と籠城、家臣の戦死、忠栄・梅久方の退去までを追う。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文五年前後の北原氏との戦いと伊集院城攻防を、複数の系譜に基づいて整理した国史記事。島津実久、北郷忠相、伊集院忠朗・忠栄・梅久、本田董親らの軍事行動、城郭の陥落、家臣の戦死と退去を照合し、諸家の帰属変化を示す。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年の伊集院城をめぐる島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久らの抗争を記す。夜襲、城下への放火、籠城戦、家臣の戦死を追い、忠栄らが城を退去した後の処遇と伊集院氏の系譜まで記して、城の争奪が一族の継承に及ぼした影響を示す。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年、島津忠良・貴久方と実久方の戦いに伴う伊集院城攻防を記す。夜襲、城下への放火、籠城、伊集院氏家臣の戦死を追い、忠朗・忠栄・梅久らのうち忠栄らが退去した経緯と後裔の系譜を掲げ、敗戦後の伊集院氏の分裂と継承を示す。
年月日未詳 / 冊子 746頁
天文五年三月七日、貴久方が伊集院城を攻めた際、町田久用は伊集院忠朗・忠栄・梅久らと守城し、城中で戦死した。忠朗らは城を退き、石谷城へ移った後も反攻を試みたが、町田氏・伊集院氏の多くが戦死・離散した。町田氏庶流の継承、久用の子孫と所領の推移までを記す。
年月日未詳 / 冊子 363頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0771
明暦三年十二月四日、阿多内膳忠栄の家臣内田平右衛門が殉死したことを記す記事。
十月朔日 / 冊子 595–596頁/整理ID 2026
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、徳川光貞の逝去を聞いて言葉もないとの吉貴の意向を承知し、差し越された使者と書面の趣旨を承知したと答えた連署書状。
十月十八日 / 冊子 619頁/整理ID 2113
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が十月十八日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言の機嫌がよいことを伝え、吉貴が暇と馬・白銀・時服を拝領した厚恩への礼を承知したと返す。国元到着の礼として使者が目録品を献じたことと、紙面の趣を承知したと述べる。
十一月二日 / 冊子 620頁/整理ID 2118
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が十一月二日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言の機嫌について尋ねられたが、ますます勇健であり安心するよう伝える。
十二月九日 / 冊子 632頁/整理ID 2164
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が十二月九日、薩摩守吉貴へ、公方の機嫌はますます勇健であるため安心するよう伝え、羽織と肴の献上および紙面の趣を承知したと返す。
十二月十五日 / 冊子 633頁/整理ID 2166
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が十二月十五日、薩摩守吉貴へ、公方(綱吉と注)と大納言(家宣と注)の機嫌がよいと伝え、蜜柑と肴の献上、紙面の趣を承知したと返す。
十二月十九日 / 冊子 636–637頁/整理ID 2176
松平右京大夫輝貞・松平伊賀守忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、公方と大納言がともに安泰であるため安心するよう伝え、吉貴が献じた羽織と御肴を受け、書面の趣旨を承知したと返答した連署書状。
十二月廿六日 / 冊子 637頁/整理ID 2179
松平右京大夫輝貞・松平伊賀守忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、公方と大納言の安泰を伝え、八重姫の疱瘡が次第に快癒して酒湯の儀を迎えたとの報告を承知したと返答した連署書状。
十二月廿九日 / 冊子 639頁/整理ID 2185
松平右京大夫輝貞・松平伊賀守忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、公方と大納言の安泰を伝え、先頃の城近辺の出火で城内に別条がなかったとの報告を承知したと返答した連署書状。
二月十一日 / 冊子 647頁/整理ID 2218
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が二月十一日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言の機嫌がよく年始規式も済む予定であることを伝え、樽肴の献上と紙面の趣を承知したと返す。
三月廿九日 / 冊子 655頁/整理ID 2249
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍が健勝で正月二十日に東叡山御堂へ参詣したと聞き、吉貴が喜んだ旨を記した書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
四月二日 / 冊子 666頁/整理ID 2256
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍が健勝で正月二十四日に増上寺御仏殿へ参詣したと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
四月二日 / 冊子 667頁/整理ID 2259
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍・大納言の健勝を伝え、家督後の無事な帰国を老中の奉書で尋ねられ御肴を拝領したことへの謝意を了承した連署状。吉貴が送った礼使と目録記載品も受け付けた。
四月四日 / 冊子 668頁/整理ID 2261
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍が健勝で先頃護持院へ赴いたと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
四月十四日 / 冊子 668–669頁/整理ID 2264
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍が健勝で先頃松平美濃守の亭へ赴いたと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
四月十六日 / 冊子 669頁/整理ID 2266
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍が健勝で先頃松平右京大夫の亭へ赴いたと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
五月十六日 / 冊子 671頁/整理ID 2275
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍と大納言が健勝で、将軍が先頃日光御門跡へ赴いたと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
五月廿一日 / 冊子 672頁/整理ID 2278
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍と大納言が健勝で、大納言徳川家宣が先月二十日に東叡山御堂へ参詣したと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
五月廿五日 / 冊子 672–673頁/整理ID 2280
松平輝貞・松平忠栄が松平薩摩守島津吉貴へ、将軍と大納言が健勝で、大納言徳川家宣が去る八日に東叡山御堂へ参詣したと聞き、吉貴が喜んだ旨の書状を披見し、その趣旨を了承した連署状。
七月十九日 / 冊子 728頁/整理ID 2452
松平伊賀守忠栄・右京大夫輝貞が七月十九日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言は健勝であり、このたび西丸で若君が誕生したことを喜ぶ吉貴の書状を了承したと伝える。
七月廿六日 / 冊子 731頁/整理ID 2463
松平輝貞と松平忠栄が島津吉貴へ、家千代の成長と吉貴の無事を喜び、書状の趣旨を承知したと返す連署書状。
八月廿五日 / 冊子 735頁/整理ID 2475
松平輝貞と松平忠栄が島津吉貴へ、家千代の成長と吉貴の無事を喜び、先月十八日に家千代の七夜祝儀を済ませたと聞いたことに返答する連署書状。
八月廿六日 / 冊子 737頁/整理ID 2480
松平輝貞と松平忠栄が島津吉貴へ、家千代が健やかに育ち、吉貴も無事であることを喜ぶ連署書状。No.2478・2479と同日の、発給者が異なる返書。
九月朔日 / 冊子 738頁/整理ID 2484
松平伊賀守忠栄・右京大夫輝貞が九月朔日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言・家千代の機嫌や様子を尋ねる書状を披見し、三者が勇健であるため安心するよう答える。肴を献じた旨も書面のとおり了承したと伝える。
十月十八日 / 冊子 751–752頁/整理ID 2535
松平伊賀守忠栄・右京大夫輝貞が十月十八日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言の健勝を伝える。帰国暇と御馬・白銀・時服拝領、国許到着への謝礼として使者を差し越した件を、書面の趣どおり承知したと返す。
十一月七日 / 冊子 755頁/整理ID 2546
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、吉貴の書状を披露し、大納言の機嫌がよいとの知らせを承知したと答える。吉貴が献じた品を受け、書状の趣旨も理解したと伝える。
十一月十日 / 冊子 756–757頁/整理ID 2551
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、家千代の死去を知らせる書状を披露し、その不幸を悼む。大納言の機嫌に変わりがないとの知らせも承知し、安心したと伝える。
十二月三日 / 冊子 760頁/整理ID 2570
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、十月四日・五日の当地の地震と、大納言の機嫌がよいとの知らせを承知して喜ぶ。吉貴の書状の趣旨も聞き届けたと答える。
十二月五日 / 冊子 761頁/整理ID 2571
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、志布志で切支丹宗門の疑いがある一人を捕らえ、口問を別紙三通に記したとの報告を受けたと答える。取調べのうえ、使者野村源助を通じて本人を早く当地へ差し出すよう求める。No.2564への返書。
十二月十三日 / 冊子 762頁/整理ID 2576
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が十二月十三日、薩摩守吉貴へ、公方・大納言の機嫌や様子を尋ねる書状に対し安全であるため安心するよう答える。吉貴の献じた蜜柑と肴および紙面の趣旨を承知したと伝える。
閏正月十日 / 冊子 768頁/整理ID 2600
松平伊賀守忠栄・松平右京大夫輝貞が閏正月十日、薩摩守吉貴へ、年頭祝賀と公方・大納言の安泰、年始の規式が無事済む予定であることを伝える。吉貴の献じた樽肴と紙面の趣旨を承知したと答える。
二月廿八日 / 冊子 772頁/整理ID 2620
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、大納言の機嫌がよいとの知らせを喜ぶ。正月二十四日の増上寺御仏殿参詣について吉貴の書状を受け、承知したと答える。No.2619と同じ参詣を扱うが差出人が異なる。
二月廿六日 / 冊子 772–773頁/整理ID 2621
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、大納言の機嫌がよいとの知らせを喜び、正月二十日の東叡山御堂参詣について吉貴の書状を受けて承知したと答える。No.2618と同じ参詣を扱う連署の返書。
三月三日 / 冊子 776頁/整理ID 2626
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、大納言の機嫌がよいとの報告と、根津権現への参詣の儀が滞りなく済んだとの知らせを受け、喜ぶ。No.2625と同件だが連署の返書。
四月二日 / 冊子 778–779頁/整理ID 2633
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、大納言の機嫌がよいとの報告と、日光准后に関する儀が滞りなく済んだとの知らせを受け、喜ぶ。No.2632と同件を連署で答えた書状。
四月十一日 / 冊子 779頁/整理ID 2636
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、大納言の機嫌がよいとの知らせと、先頃の松平美濃守邸への訪問の儀が滞りなく済んだとの報告を受け、喜ぶ。No.2635と同件を連署で答えた書状。