伊集院忠朗書状
(天文十七年)十二月吉日 / 冊子 868頁
島津貴久が伊集院忠朗の隈城での忠節を賞し、知行・権利を従前どおり認め、今後も重く遇する旨を約した書状。
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(天文十七年)十二月吉日 / 冊子 868頁
島津貴久が伊集院忠朗の隈城での忠節を賞し、知行・権利を従前どおり認め、今後も重く遇する旨を約した書状。
年月日未詳 / 冊子 692頁
島津忠朗が元和五年二月二十一日、質人として父家久に従い、六月朔日に二条城で徳川秀忠へ拝謁し、その後江戸へ赴いたことを記す譜記事。
元和五年六月四日 / 冊子 702~703頁
島津忠朗が寺田将監・酒井雅楽助・山口駿河入道・石川太郎兵衛尉・牧野豊前守・御幸八幡などへ贈る銀子・太刀・馬代・帷子等の品目と数量を列記した進物目録。
年月日未詳 / 冊子 723頁
元和六年正月、島津忠朗が登城して年頭の賀儀として太刀・馬代を献上し、将軍に拝謁したこと、その後も寛永二年まで毎年年頭に登城したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 763頁
元和七年正月十四日に島津家久の江戸屋敷で火災が起き、家久が佐土原島津家の屋敷へ移った際に忠朗も従い、将軍家から忠朗へ褒衣十領・道服三領が贈られたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 231頁
九月四日、島津家久が島津忠朗に大隅国姶良郡加治木一万石を与えたことを記す島津忠朗譜の記事。
天文十七年四月四日 / 冊子 850頁
伊集院忠朗が正八幡宮の神領と神人に関する旧来の権利・祈念・寄進を証し、証文として認めたもの。
天文十七年四月四日 / 冊子 851頁
伊集院忠朗が正八幡宮神領と神人の権利を証した証文。国分宮内澤氏蔵本で、No.2570と同文系統の写し。
年月日未詳 / 冊子 888頁
伊集院忠朗が日新・貴久・義久の三代に仕え、奉公第一の人物とされたことを記す。
天文十九年八月十六日 / 冊子 888頁
伊集院忠朗らが、相互の案件を協議して同心し、合意内容を守ることを連署して約した契状。
永禄五年六月廿一日 / 冊子 115~116頁
伊集院忠朗ら島津・北原・相良方の関係者が、将来にわたり合意を違えず、世情が変化しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った連署起請文。
年月日未詳 / 冊子 634頁
「光久公御譜中」に、島津忠朗(初名忠平、忠明、又八郎、兵庫)が元和二年十一月七日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、延宝四年二月十六日に没したことなどを記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 824頁
寛永二年、島津忠朗が島津家久に従って江戸城へ登り、徳川秀忠から宝刀を賜った。同日西丸で徳川家光へ拝謁し、馬一匹・単衣五十・黄金百枚・白銀五百枚を賜り、二十六日に江戸を発って七月に加治木へ帰着したことを記す島津忠朗譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 641頁
島津忠朗譜に収められた、前号No.1006と同文の島津光久書状。本文は重複のため省略され、同じ日付・差出人・宛所のみを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 642頁
島津忠朗が寛永十四年三月に人質として江戸へ赴き、同十五年冬に帰国を許され、その後も三度江戸へ人質として赴いたことを記す系譜記事。
卯月廿二日 / 冊子 94頁
伊集院忠朗が本田因幡守に宛てた書状。先に贈った弓木への礼は不要とし、相州入道から贈られた鯨油について上田殿から受けた礼を披露したことを報告する。鯨油は珍品で島津忠良・貴久も大いに喜び賞翫したため、重ねて礼を伝えるよう求めている。
五月廿八日 / 冊子 99頁
伊集院忠朗が二乗院の同宿衆に宛てた書状。重信の身上については大興寺と相談する意向を示す一方、本田幡守父子が他出中のため、当地での処理には多少時間がかかる見込みであると伝え、その旨の披露を求めている。
四月廿二日 / 冊子 321頁
本文はNo.338と同文として省略される。参照先によれば、限江匡久が山田安藝守に、山東・池袋・都城から使僧・使者が相次ぎ多忙であると伝えた書状。ただし目録の年月日・標題は四月廿二日・伊集院忠朗書状で、参照先No.338の五月四日・限江匡久書状とは一致しない。
年月日未詳 / 冊子 262頁
九歳の島津又八郎(忠朗)が大字で記した「花鳥風月」「八幡大菩薩」「春日大明神」の書三通。各原本の伝来先も注記される。
享禄四年八月廿三日 / 冊子 711~712頁
島津忠良・貴久・忠朝、伊集院忠朗らが父子・一族間の合意を守ると誓った連署起請文。互いの知行・所領を侵さず、重要事項を協議し、軍事・家政で相互に協力することを定め、違反時には梵天帝釈・八幡大菩薩など諸神仏の罰を受けると誓約する。
年月日未詳 / 冊子 750頁
天文五年九月から十一月、伊集院忠朗を大将とする軍勢が大田原の柵や橋をめぐって夜襲・放火を行い、敵兵を討ち取った戦闘を記す。
年月日未詳 / 冊子 767~769頁
天文八年の加世田・新城をめぐる攻防を諸譜から集成した国史記事。本丸への進攻、城兵の反撃、救援と追撃、双方の戦死者を記し、新納康久・鎌田政真らの動向を追う。さらに伊集院忠朗方の蜂起と忠良・貴久方の反攻へ続き、城の奪回をめぐる連続戦を示す。
天文八年四月吉日 / 冊子 774~775頁
島津家老臣の伊集院忠朗・経定が、薩摩国谷山郡の修理田・枝田など三段を伊佐智佐権現へ付した坪付。
年月日未詳 / 冊子 848~849頁
某覚書が、本田紀伊守親廣の退隠後に起きた清水新城の争乱を記す。伊集院大和守忠朗方と旧本田勢の対立の中で、梶原藤七兵衛・田尻荒兵衛尉らが出陣・交戦した経過を追い、戦後に関係者が処罰されて城内秩序が再編された事情を述べる。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
年月日未詳 / 冊子 856~857頁
『樺山玄佐譜』が、姫木城をめぐる北原・本田方との攻防を記す。樺山玄佐が守兵・援兵を率いて城の防備を整え、伊集院忠朗や日新公方と連絡しながら、清水方面の敵情、援軍の到着、城兵の出撃に応じて兵を配置した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 857~859頁
『貴久公記』が、天文十七年三月に本田紀伊守が姫木城を構えた後の大隅情勢を記す。島津貴久・伊集院忠朗方と北原・本田方が清水周辺で攻防し、戦火で神社・寺院が焼失したこと、諸勢が出兵と退却を重ねて戦線が変化した過程を追う。
年月日未詳 / 冊子 859~861頁
箕輪伊賀が天文十七年の清水城・姫木城争乱を記した覚書。本田紀伊守・北原方と島津貴久・伊集院忠朗方の出陣、城への攻撃と救援、周辺への放火、軍勢の進退を日を追って述べ、大隅の複数城を連動させた戦線の推移を伝える。
年月日未詳 / 冊子 862~863頁
『庄内平治記』が、本田董親が北原氏を介して勢力回復を図ったことから、北郷忠相・伊集院忠朗らとの対立が深まる経過を記す。清水・姫木方面で諸勢が出陣し、城と周辺拠点をめぐる交渉が合戦へ転じた背景と双方の動向をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 863~865頁
樺山玄佐が自ら、島津貴久方への加勢要請を受けて兵を整え、渡海・出陣した経過を記す。北原・本田方に対する姫木城・清水周辺の攻防、伊集院忠朗ら味方諸将との合流、陣所の移動と戦況判断を日次に近い形で詳述する戦闘記録。
年月日未詳 / 冊子 867頁
本田董親が宮内を侵掠して神官らを退去させた後の回復過程を記す。島津忠将・樺山玄佐・伊集院忠朗らが清水・姫木方面へ出陣し、本田方の城を攻めて旧領を奪回した。戦後は神官・調所恒房らを帰還させ、神職と祭祀を復旧した。
年月日未詳 / 冊子 874~875頁
『島津国史』が、天文十八年の島津忠親・北郷忠相と伊東氏の対立を中心に記す。伊集院忠朗・肝付兼演ら諸氏の帰属、清水城・加治木城周辺の出兵と戦闘、使者を介した和解と再離反を追い、領主間の同盟が変化する過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 876頁
天文十八年三月から六月、伊集院忠朗の飫肥出陣、黒河崎への着陣、渋谷衆の降参と和平による解陣を日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 876~877頁
島津貴久が清水に滞在して戦後処理を進めた記事。伊集院忠朗・北郷氏ら軍功者を賞し、離反していた諸地域の帰順を受け入れて秩序回復を図る一方、日向山東を領する伊東義祐の軍事動向を警戒し、国境方面の守備と今後の対応を整えた。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年三月廿二日、伊集院忠朗・豊州島津忠広らが飫肥方面へ進み、諸将を率いて攻城・防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年三月廿一日、島津貴久方が清水から飫肥へ向かい、伊集院忠朗らと協議して敵陣を攻め、敵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 878~879頁
島津貴久が日向山東・飫肥方面の危急を聞き、伊集院忠朗らを援軍として派遣した経過を記す。三月から四月にかけて北郷忠相方と合流し、伊東勢の城・陣への攻撃に応戦して守備を支え、日向国境での戦線崩壊を防ごうとした。
年月日未詳 / 冊子 879頁
『日向記』が、天文十八年二月二十日の井手尾下付近の戦いを詳述する。豊州島津氏・北郷方と伊東勢が陣を分け、伊集院忠朗・稲津氏らが攻城・迎撃に加わった経過を追い、各陣の進退、討ち取られた武将、最終的な勝敗を記録する。
年月日未詳 / 冊子 880頁
瀬戸口伊豆入道が、故郷へ帰参するまでの身上を述べた覚書。和州滞在中の処遇、伊集院忠朗への申し出、島津貴久方への奉公再開を記し、旧所領の回復、知行の保証、今後の勤仕をめぐって主家と交渉した事情を回想する。
年月日未詳 / 冊子 880~881頁
『樺山玄佐譜』が、天文十八年の加治木・高城方面の攻防を記す。樺山善久・伊集院忠朗らが肝付兼盛・蒲生方の城内へ働き掛け、敵勢の減退を見て降伏条件を調整し、使者・人質を介した和議から帰順、城の受け取りへ至った経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 881頁
島津貴久方が加治木城を攻めた際、伊集院忠朗・肝付兼盛らが黒川崎へ布陣して蒲生・渋谷方と戦った経過を記す。敵陣への火矢射撃と周辺への放火、城方の出撃への迎撃を重ね、加治木城を孤立させるための前線構築と攻防を伝える。
年月日未詳 / 冊子 881~882頁
箕輪伊賀の覚書が、加治木攻めで伊集院忠朗方が黒川崎に陣を構えた戦況を記す。敵方との矢戦、民家・陣所への放火、陣幕が焼失する混乱の中での応戦を追い、島津貴久方・北郷方・本田方の兵が各持場で攻防した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 882頁
加治木城主肝付兼盛が太守島津貴久に従わなかったため、伊集院忠朗・北郷忠相らが加治木を攻めた経過を記す。蒲生・渋谷方との戦闘、城周辺の封鎖を経て兼盛方を退け、使者を介した赦免条件の調整によって帰順させ、城と所領を処置した。
年月日未詳 / 冊子 882~883頁
天文十八年、島津貴久方が加治木城主肝付兼盛と蒲生・渋谷方を攻めた戦役を記す。伊集院忠朗らが城と周辺陣地を攻略し、敵勢を退散させて加治木城を落とした後、使者・人質を介して和議を結び、兼盛らを赦免して帰順させた。
年月日未詳 / 冊子 883~884頁
樺山玄佐が加治木・蒲生方面の陣取りと和平交渉を詳述した自記。島津貴久・伊集院忠朗・肝付兼盛・北郷氏らの動向、親族・使者を介した条件調整、所領と人質の扱いを記し、城方の帰順後に城・知行をどのように処置したかを示す。
年月日未詳 / 冊子 888~889頁
瀬戸口伊豆入道が、少年期から島津貴久・義久方に従った自身と一族の軍歴を回想した覚書。伊集院忠朗らとの従軍、各地の城攻め、身内の敵討ち、味方武将の討死を挙げ、危機の中で続けた奉公と、その功績が家に伝えられた事情を記す。
万暦元(天正元)年七月十一日 / 冊子 312頁
琉球国三司官の那呉道林が伊集院忠棟へ、初めて書状を送り、懇切な音問への謝意を述べる。先代伊集院忠朗以来の交誼が変わらず続くことを喜び、琉球と島津領国が隣国として旧約を保ち、隔意なく往来することを望む。心香・唐五明・織物を祝儀として贈る。
年月日未詳 / 冊子 677頁
島津光久の家族関係として忠朗・久直・女子を掲げ、女子は元和四年九月十三日に忠朗と同腹の母から生まれ、寛永十四年三月二十四日に二十歳で早世したと記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津忠広が義弘の長女御屋地の所領を受け、朝久の二男でありながら延宝五年に光久の命で豊州家を離れ忠朗の次男に準じられ、元禄十六年に没して萬山孤峯大居士と号したこと、および子孫を示す一流系図。