島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 8頁
島津家久が帰国の挨拶として吉利下総守忠張を使者に立て、沈香五斤と薩摩で焼いた茶碗・灰入・底取を徳川秀忠・家光へ献上したことを記す。土井利勝・酒井忠世が披露し、忠張は御前で拝謁を許され、内書を賜った。
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年月日未詳 / 冊子 8頁
島津家久が帰国の挨拶として吉利下総守忠張を使者に立て、沈香五斤と薩摩で焼いた茶碗・灰入・底取を徳川秀忠・家光へ献上したことを記す。土井利勝・酒井忠世が披露し、忠張は御前で拝謁を許され、内書を賜った。
年月日未詳 / 冊子 558頁
吉利忠張の子女から久在・久良・忠名・久遠・忠真らへ続く家系を、生没年、母方、幼名・官途、養子相続とともに記した吉利氏系図抄。久在に男子がなく、義岡久達の長子久良が姉婿として家を継いだ経緯を載せる。
(寛永三年)閏四月廿二日 / 冊子 8~9頁
土井利勝が島津家久へ、無事の帰国を祝し、使者と沈香・薩摩焼の献上が将軍に披露され、使者が御前へ召されて内書を賜ったことを報告した書状。大御所の江戸出発は五月末の予定で、上洛の心得を整えるよう伝える。
(寛永三年)五月四日 / 冊子 9頁
徳川家光が島津家久へ、家久の帰国後に使者から沈香五斤と薩摩焼の茶碗などを贈られ、遠路の厚意を喜んだ御内書。詳しくは酒井忠世が述べるとする。
(寛永三年)五月七日 / 冊子 9~10頁
酒井忠世が島津家久へ、無事の帰国と将軍への献上品を祝し、使者が御前へ召され内書と巻物・薩摩焼の茶器類を賜ったことを報告した書状。長期滞在中に多忙で疎遠だったことを詫び、再上洛時の面会を期す。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
寛永三年七月八日 / 冊子 13~14頁
国政上の協議事項を列挙した覚書。唐船の来航・積荷・銀子・商取引、異国人や船員への対応、国内の諸役、城・寺社・屋敷・港湾の管理、役人の配置や掃除・警備などについて、関係者が相談して処理し、独断や先例に反する措置を避けるよう定める。
年月日未詳 / 冊子 431~433頁
初音、遊興、雷、秋霜、月夜、夢、酒宴、双六、囲碁、将棋、歌舞、能、茶の湯、江戸普請などを滑稽味豊かに詠み継いだ倭漢連句・俳諧。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-3
喜入忠政・島津久賀が亀之河の島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、鹿児島へ照会した条書への返答を知らせる。任意に有馬へ渡る者は自ら飯米と船を用意し、後日処分を受ける場合もあるとの命令なので、条書の写しを送り、当地から直接任意に渡ろうとする者も含め、配下の全員へ漏れなく申し渡すよう求める書状。
二月四日 / 冊子 19頁/原整理番号 24
伊地知季安の考証。山々の狩は薩州らに命じられ、在郷改は二月四日に寺沢・松倉両家へ、領内の百姓竈を調べ、邪宗に陥った人数と残留者の内訳を詳しく報告するよう命じられ、同十日・十二日に報告されたと述べる。また、細川忠利が正月二十六日に有馬へ着いたことから、同日か翌二十七日に島津久元の陣所を見舞い、それを川野監物が見て同夜上津浦へ帰って報告したのだろうと推量する。鹿児島から来た御袖判条書は二十七日条の七か条に当たると比定し、亀之川の物頭として吉利忠張・東郷昌重・肝付兼屋・敷根久頼らを挙げる。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同十八年辛巳九月三日 / 冊子 153~154頁/整理ID KW1-G000134
太守大隅守光久公が重永の廃府の宅へ来駕し、島津豊前久賀が御伴した際、光久が七絶を賦し、久賀・忠張・重位・正貞・重將らも佳作を作ったと記す。 重永も和歌を詠み譜端に掲げたと述べ、左方に作品を載せる。短冊に記された名について小字注がある。
現行年紀:未確認 / 冊子 154頁/原整理番号 266/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0266
「松間紅葉」を題とし、光久の漢詩七絶と、久賀・忠張・重位・正貞・重將・重長の和歌を載せる。 和歌には松、紅葉、時雨を詠む句がある。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。