島津貴久書状
八月七日 / 冊子 350頁
島津貴久が右馬頭へ、先日の合戦で弓をもって働いたことと佐左・五ヶ瀬川合戦の勝利を賞した書状。北原からの返事はこの勝利によるものとみて、使僧を遣わして調略し、北原を味方に召し出したいと述べる。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
40 件 (全巻)/ 1–40件を表示
ページ 1 / 1
八月七日 / 冊子 350頁
島津貴久が右馬頭へ、先日の合戦で弓をもって働いたことと佐左・五ヶ瀬川合戦の勝利を賞した書状。北原からの返事はこの勝利によるものとみて、使僧を遣わして調略し、北原を味方に召し出したいと述べる。
天正六年十一月 / 冊子 562~564頁
天正六年十一月の高城・耳川合戦に島津義久・義弘に従軍した一族・国衆・地頭・家臣を多数列挙する交名。歳久・以久・忠長・家久、北郷時久、樺山範久、山田有信、伊集院忠棟、上井覚兼らを掲げ、防戦功・戦死・負傷などの注記を付す。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 592~596頁
天正六年九月十一日の義久出発から十一月二十九日の鹿児島帰還までを記す高城・耳川合戦の日記。石城攻めと降伏、野尻での軍議、大友軍の高城包囲と三納反乱、佐土原への進軍、松山陣に対する伏兵戦、根白坂・耳川での追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞、番手配置、霧島参詣を経た帰陣までを詳述する。
天正六年十月二十五日以後 / 冊子 602~612頁
十月二十五日の島津義久出発から耳川合戦後の帰陣までを記す別本。三納反乱鎮圧、紙屋での夢中詠、佐土原の軍議、十一日の伏兵による松山陣攻略、十二日の大友軍総攻撃と本田親治らの戦死、義弘・征久・忠長らの横撃、家久・山田有信の追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。
年月日未詳 / 冊子 120~121頁
『殉国名薮』の記事。承久三年六月十四日の宇治川合戦で、市来左衛門尉忠康が北条泰時に従って戦死したことを述べ、若狭兵衛尉忠季・佐多太郎久秀・高城六郎重貞ら同族の戦死者を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 144~145頁
『島津忠久譜』巻末の記事。忠久の官職・所領、鎌倉での奉公、薩摩・大隅・日向三国および伊賀・近江・讃岐の所領支配を述べる。諸系図・私記の差異を検討し、忠久・忠季・忠綱らの親族関係、出生年、母系、大友氏との関係、宇治川合戦後の一族の動向を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
延文五年、筑後味坂庄周辺で宮方と将軍方が衝突した合戦を記す島津道鑑譜。菊池勢の夜討ちで西征将軍宮が負傷し、新田・菊池・小弐・松浦・島津など諸勢に多数の戦死者が出た。菊池方の勝利後、双方が帰国するまでを追い、筑後川合戦の損害と軍勢構成を伝える。
年月日未詳 / 冊子 118頁
山田聖栄自記として、碇山金吾が島津上総介の名代、新納将監が島津元久の名代となり、二人とも肥後白川合戦で将軍方に属して討死したと伝える記事。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
永正三年七月十一日の土川合戦後、山崎助左衛門が捕虜・被官・領知の処置をめぐる交渉を記した覚書。和泉氏・阿多民部左衛門尉ら当事者の申し分を整理し、誰を返還・召し抱えるか、所領をどう扱うかについて島津忠興が下した裁定を伝える。
永禄五年六月十六日 / 冊子 114~115頁
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
天正六年 / 冊子 532~534頁
天正六年の島津氏の動向を編年で記す。年初の日向諸氏からの服属・進物、石城をめぐる攻防と土持氏の滅亡、琉球との進物往来を載せる。十月以降は伊東氏復帰を掲げた大友軍の高城攻め、耳川合戦での島津方の大勝と大友軍の多数の戦死・溺死、日向再平定を詳述し、年末には足利義昭・毛利氏による大友攻撃構想への返書を収める。
天正六年 / 冊子 535~536頁
天正六年に島津方として戦死した者を月日・戦場別に列挙する名簿。三月の石城方面、十月二十三日の三原衆反乱、十一月十二日の高城・耳川合戦などの死者を中心に、福永丹後守・鎌田大炊助・伊地知式部少輔・本田親治・北郷久盛ら多数を記し、日付不詳の者も追記する。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 581~588頁
天正六年九月十一日から十一月二十九日までの日向出陣日記の別本。野尻での石城攻めと九月晦日の受取、十月二十五日の高城救援出発、夢中詠、佐土原での軍議、十一日の伏兵戦と松山陣攻略、十二日の根白坂・耳川合戦、北方諸城への追撃・降伏処理、戦死者供養、恩賞と番手配置、霧島参詣を経た鹿児島帰陣を記す。
天正六年十一月十日~十三日 / 冊子 599~602頁
十一月十二日の根白坂・耳川合戦を詳述する。北郷相久・忠虎らが奮戦し久盛らが戦死、本田親治も討死して島津勢が一時退くが、義弘・征久・忠長・伊集院忠棟らが一瀬川で支えて反撃した。大友軍は深淵と耳川へ追い込まれ、佐伯氏ら多数の将兵を失った。家久も単騎で追撃し、十三日に義久が敵本陣で凱歌を挙げた。
天正六年十一月 / 冊子 609~612頁
高城・耳川合戦で島津方が伏兵と横撃を用いて大友軍を崩し、深淵と耳川へ追い込んだ経過を長谷場越前の立場から記す。諸将の配置、味方の戦死、敵陣追撃と分捕り、合戦後の凱歌・帰陣までを回顧する。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
年月日未詳 / 冊子 238~239頁
島津家久が豊後南郡へ進み、府内近辺の諸城を攻略する一方、大友義統・仙石秀久・長宗我部元親らの大軍が十二月十三日に家久の利光陣へ迫った経過を記す。家久方は河川の増水と地形を利用して伏兵を置き、敵の渡河を待って反撃し、長宗我部信親らを討つ。戸次川合戦から大友方の退却、島津軍の追撃・府内進出までを連続して示す。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
島津義久が日向・大隅・薩摩・肥後・筑後の軍勢を動員して豊後へ向かわせ、義弘が肥後口から南郡へ、家久が日向側の険路から進んだ配置を記す。家久勢は城を攻め、敵の救援軍を河川・険路で迎撃して多数を討ち、府内方面へ追撃した。戸次川合戦を含む家久軍の進路、兵数、攻城と追撃を詳述する軍記記事である。
(慶長三年)十二月七日 / 冊子 303~304頁
島津義弘が(慶長三年)十二月七日付で友枕斎へ出した書状。高麗在陣中、聖門様からたびたび祈祷札・護符を賜ったことに謝意を表し、その加護による戦勝と帰帆を報告する。十月朔日の泗川合戦で忠恒が明軍を破ったこと、蔚山・順天の包囲解除、十一月十七・十八日の海戦で朝鮮船四艘・江南船二艘を奪取して小西行長軍の撤収を助けたことを詳述し、祈念の験として聖門様への披露と上洛後の拝謁を願う。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 408頁/原整理番号 141
義弘を御太将として、歳久・右馬頭・圖書頭・河上上野守・北郷一雲らの名を列挙する自記の抄録。新納武蔵守、伊集院右衛門太夫・美作守、新納越後守も記載される。前後の耳川合戦の記事は省略したと注記されている。
年月日未詳 / 冊子 18頁
『太平記』の記事として、延文五年八月十六日夜の味坂庄周辺の合戦を記す。宮方の菊池勢が将軍方へ夜討ちをかけ、西征将軍宮も負傷し、双方に多数の戦死者を出したのち、小弐勢は太宰府、菊池勢は肥後国へ退いた。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 564~575頁
天正六年九月十一日の島津義久出発から十一月二十九日の鹿児島帰陣までを日次で詳述する。野尻滞在中の石城攻めと降伏、大友軍の耳川渡河、十月の高城救援進発、三納反乱鎮圧、佐土原での軍議、伏兵による松山陣攻略、根白坂・耳川での大勝、北方諸城の服属、戦死者供養と豊後塚建立、諸将への感状・恩賞、各地の番手配置、霧島参詣を経た帰還までを記す。
天正六年十月 / 冊子 598頁
大友軍が高城へ迫り、家久・山田有信らが籠城したため、救援か後詰かをめぐり評議が割れた。滝聞美作入道は義久の身を第一として紙屋城で境目の報告を待つよう諫めたが、義久はその忠言を認めつつ老功の者に任せて決戦を選び、耳川で大勝したと記す。
天正七年 / 冊子 634~635頁
耳川敗戦後、大友方の威勢が衰えて筑前・筑後・肥後の諸勢力が離反し、熊本の城親政も島津方への帰属を望んだ。義久は遠国支援を評議し、鎌田政年の進言で島津義虎を介して天草五人衆を味方につけ、政年・田尻荒兵衛尉ら足軽二百余人を熊本へ派遣して城親政・伯耆鑑高と連携した。
天正七年 / 冊子 635頁
天正七年、大友宗麟・義統が数万騎で日向高城へ攻め寄せたが、十一月十二日に島津義久が陣を破り、数万人を討ち取ったとする年代記の記事。
年月日未詳 / 冊子 570~572頁
新納時久が守護代として上京中に高城を攻め落とされたこと、二代実久が島津元久の名代として肥後二見の渋川満頼を訪ね犬追物で射手を務めたこと、将軍方に属して白川で戦死したことなどを記す新納氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 269~270頁/原整理番号 48
山田聖栄の自記から、氏久が税所方と球麻の相良を敵にして戦い、大隅を患った経過を記す。姫城を落として本田親治・氏親父子を守護代に置き、清水・湯峰でも戦い、氏親らと税所の子が討死し、氏頼は深手を負ったとする。続いて味方の少勢で求麻・和泉・山北の軍勢と戦う場面、碇山金吾の太刀振舞い、師久の名代として出陣した碇山金吾元久と新納将監が肥後白川で討死したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 270頁/原整理番号 51
新納久吉の伝記記事。島津元久主の名代として肥後国へ赴き、将軍方に属して白川辺の合戦で戦死したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 408~409頁/原整理番号 142
十一月上旬、久峯観音堂に集まった武功者が、川原陣へ忍び入り高城を救う策を立てた。義久への報告と諸将の軍議を経て、十日夜、雨の中を百四十五騎が進み、別府村には三百人が待機した。翌日、帰還する豊後の番衆を襲い、七十三人を討ち取り荷駄を追い落としたと記す。敵の反撃と家久の動静、味方の士気の高まりも述べ、続く高城への進撃は省略する。
巻二/冊子 26~29頁
天正六年、大友義統・義鎮父子が豊後・肥後・筑前などの大軍を率いて日向へ侵攻し、高城を包囲した戦いを記す。高城では山田有信を中心とする島津方の守兵が、兵糧や水の不足に耐えて防戦した。義久は諸軍を集め、家久らを前面に出して大友軍と対峙する。十一月の決戦では、島津軍が釣り野伏などの機動的な戦法で敵を誘い崩し、耳川方面へ敗走させた。大友方は多数の将兵を失い、河川や山道で潰走したとされる。戦後、義久は敵陣跡で凱歌を挙げ、敵方に従った日向の住民についても一律に殺すのではなく、罪を問いつつ謝罪・服属を受け入れた。大友氏の大軍を退けた高城・耳川の戦いを、島津氏の九州進出を決定づける勝利として描く記事である。
巻三/冊子 38~41頁
伊東氏を保護した大友氏が秀吉へ島津征伐を求めたことに対し、義久が先に豊後へ攻め入った経過と、秀吉の九州国分け・征伐命令を記す。入田宗和・志賀道益ら大友方内部の離反を受け、新納忠元が密使を送り、天正十四年十月、義弘を大将とする三万七百余騎が肥後側から豊後へ進む。義弘勢は野尻・高城・津賀牟礼・松尾・鳥嶽などを攻略し、家久勢も日向側から三重方面へ進んだ。秀吉は島津・伊東・大友らの所領を配分する調停案を示して戦争停止を求めるが、島津方は従わず、十二月の戸次川方面の戦いで大友義鎮・仙石秀久・長宗我部信親・十河存保らの軍を破り、信親・存保を討つ。翌天正十五年、秀吉はこれを命令違反として九州征伐軍を進める。島津勢は府内・野上・玖珠方面から撤退を決め、義弘・家久は日向路、歳久・征久・忠元・伊集院久春らは肥後路へ分かれる。清田・三重・梅の隘・坂無・谷山・八代で追撃を受けながら防戦し、忠元らは国人の離反と豊臣方の海陸大軍の接近を見て、人吉を経て薩摩へ帰る。豊後侵攻の進展、戸次川での勝利、秀吉の国分け命令違反、豊臣軍来襲による撤退を一連の転換として描く。
年月日未詳 / 冊子 12~13頁
三月二日の帖佐別府川合戦、同八日の加治木・溝辺・日当山・長濱勢の山田出陣などを回想する。島津忠辰らの奮戦、敵味方の討死、帖佐方面への追撃、北郷・根占・肝付勢の来援を記す。
(天正15年)正月19日 / 冊子 272頁
本文はNo.230と同文のため原資料では省略されている。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
(天正15年)正月19日 / 冊子 272頁
本文はNo.231と同文のため原資料では省略されている。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
正月19日 / 冊子 272頁
島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
正月19日 / 冊子 273頁
島津義久が石田三成へ送った書状。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
年月日未詳 / 冊子 57頁/原整理番号 52
天文二十三年九月十二日酉刻の岩剣合戦出陣次第を記す。若殿義久を大将、伊集院大和守忠朗を軍配者、本田弥六を太刀役、梶原新兵衛を番役、瀬戸口藤兵衛を幡指とし、御屋形貴久の太刀役を鎌田甚五郎とする。後評では、永禄十一年正月二十日の菱刈羽作瀬での義久・義弘の危難と梶原の不手際・御内追放を挙げ、御旗役を三原氏に代えたのではないかと耳川合戦の記録に関連づけて考える。
年月日未詳 / 冊子 408頁/原整理番号 140
出水の義虎が肥への口を固める役として参陣したことを述べる。大口の忠元は肥後求麻との境目にあたるため出陣を免ぜられ、住番をしていたと聞いたという。前後の耳川合戦の記事は省略されている。