島津綱久譜
年月日未詳 / 冊子 260頁
寛永九年四月朔日、島津綱久が江戸桜田邸で誕生したこと、母は家臣伊勢大隅貞豊の女であること、綱久の幼名・通称・官位と、母の没年・法名・牌所等を記す綱久譜の記事。
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年月日未詳 / 冊子 260頁
寛永九年四月朔日、島津綱久が江戸桜田邸で誕生したこと、母は家臣伊勢大隅貞豊の女であること、綱久の幼名・通称・官位と、母の没年・法名・牌所等を記す綱久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁
島津綱久が寛永十一年六月十六日に江戸で誕生したことと母を記し、女子の一人が日向佐土原城主島津右馬頭久雄の室となった系譜記事。
三月廿八日 / 冊子 89頁
堀四郎左衛門が安養院へ伝えた口上覚。島津綱久の厄年に伴い、西原山王へ年数珠を当年から三年間奉納する誓願について、当年三月から十二月まで十一か月分の年数珠を届けるので、吉日を選んで奉納し祈祷するよう依頼している。
十月廿六日 / 冊子 89-90頁
島津久儀が安養院に宛てた礼状。島津綱久の厄年に際して諏訪社へ寄進するため送った刀が、早速神前へ納められたとの報告に謝意を示している。
八月廿三日 / 冊子 487頁
将軍が機嫌よく過ごしていると伝える。また先日の嘉定の礼で同名薩摩守(島津綱久)が着座を命じられたことを光久が喜び、使者を派遣した件について、その入念な対応を披露すると返答した連署書状。
九月十七日 / 冊子 488頁
上使を通じて将軍の鷹が捕らえた雲雀を同氏薩摩守(島津綱久)が拝領したことを光久が喜んだ旨を受け、書面のとおり相談して上聞に達すると返答した稲葉正則書状。
九月十二日 / 冊子 490頁
上使を通じて将軍の鷹が捕らえた雲雀を子の薩摩守(島津綱久)が拝領したことを光久が喜び、礼の使者を派遣した件について、その入念な対応を上聞に達すると伝えた連署書状。
十月朔日 / 冊子 490頁
将軍が機嫌よく過ごしていると伝え、子の薩摩守(島津綱久)が湯治の暇を許されたことを光久が喜んで礼の使者を派遣した件について、その入念な対応を上聞に達すると返答した三名連署書状。
十一月廿日 / 冊子 493頁
参勤時期を使者を通じて尋ねた島津光久に対し、翌年四月中に国元を出立し、同氏修理大夫(島津綱久)はそれより先に参府するよう命じた四名連署書状。
(寛永九年)四月五日 / 冊子 260~261頁
伊勢貞昌と島津久元が、四月朔日に薩州様に男子が誕生し、黄門様も大いに満足したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じ、神仏への祈念について談議所と協議するよう求めた連署書状。
(寛永九年)六月五日 / 冊子 275頁
島津家久が、島津光久の男子誕生祝いに使者と太刀一腰・馬一匹が届いたことを喜び、加藤忠広父子の『無分別之企』による罪科と、父の出羽国、子の飛騨国への配謫を報じ、詳細は帰国時に直接話すと述べた書状。
(寛永九年)六月五日 / 冊子 276頁
島津家久が島津忠紀に、島津光久の男子誕生祝いの使者と太刀一腰・馬一匹が届いたことへ喜びと謝意を述べ、詳細は下野守久元が伝えるとした書状。
(万治三年)一月九日 / 冊子 418頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0864
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、年頭の祝儀として使者を通じて太刀一腰と馬代黄金十両を献上した件を将軍に披露し、入念な進上を将軍が喜んだと伝えた連署状。編者は宛所の薩摩守を綱久とみて、綱久譜へ収めるべき可能性を注記する。
(万治三年)八月十五日 / 冊子 426頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0889
本多忠相ら四名が島津綱久へ、綱久の奥方が病気のため熱海で湯治したいとの願いを老中へ申し上げたところ、入湯を許可されたので承知するよう伝えた連署書状。
(万治三年)十月廿七日 / 冊子 430~431頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0907
松平信綱が島津綱久へ、紀伊大納言が参府して翌二十八日に将軍と対面するため諸礼を行わないので、登城には及ばないと通知した書状。
(寛文元年)八月十日 / 冊子 440~441頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0943
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、将軍が健勝であることを知らせ、綱久が暇を得て無事鹿児島へ到着したことを喜び、帰国礼の使者と樽一荷の献上を承知して将軍へ披露したと通知した連署状。
(寛文元年)八月十四日 / 冊子 441頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0944
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、将軍の病状を案じた書状を受け、将軍は早く快復し七夕には表へ出て諸礼を受け、その後も健勝であるため安心するよう通知し、綱久の心遣いを将軍へ披露すると伝えた連署状。
(寛文元年)八月十八日 / 冊子 441頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0945
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、将軍が少々病んだものの早く快復し、七夕には表へ出て諸礼を受けたことを綱久が喜んだ旨を承知し、その心遣いを将軍へ披露すると伝えた連署状。
寛文五年三月廿七日 / 冊子 502頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1110
土屋数直・久世広之が島津綱久へ、翌二十八日に尾張中将へ暇が与えられるため、例月の御礼登城には及ばないと通知した連署状。
寛文六年九月廿七日 / 冊子 521頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1170
幕府老中四名が島津綱久へ、翌二十八日は光御門跡との対顔があるため例月の御礼はなく、登城に及ばないと通知した連署状。
(寛文七年)七月廿六日 / 冊子 535頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1215
島津光久が島津綱久へ、国中の仕置に習熟するため諸事を遠慮なく報告させ、処分を決める際は家老衆と重ねて相談し、私的な縁によるひいきを退け、諸士の奢り・遊山・無作法を抑えるよう戒めた覚書。
(寛文七年)七月廿六日 / 冊子 535頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1216
島津光久が島津綱久に示した教訓覚。五節句と毎月の礼日に出座すること、学問・算勘・武芸を励行すること、大酒を避けること、指定先以外での振舞への出席を控えることを命じる。
(寛文八年)九月十五日 / 冊子 549頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1265
黄檗僧木菴性瑫が島津綱久へ、以前からの厚意と俗外の交わりに謝意を示し、さらに禅海へ深く入り宗門を護持することを願うと述べ、秋の挨拶を添えた漢文書状。
(寛文八年)十一月廿七日 / 冊子 550~551頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1273
久世広之ら幕府老中四名が島津綱久へ、翌二十八日から東叡山で法事が始まり、例月の御礼が行われないため登城に及ばないと通知した連署状。
(寛文十一年)十月廿七日 / 冊子 586頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1422
久世広之・土屋数直・板倉重矩が島津綱久へ、参勤の者たちが翌二十八日に拝謁するため、月例の御礼は不要であると伝えた連署状。
(寛文十二年)四月廿二日 / 冊子 592頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1441
久世広之が島津綱久へ、高田殿の逝去を言葉に尽くせないほど痛んでいるとの綱久の書状を承知し、派遣された使者からの申入れについて老中一同で相談して将軍へ言上すると答えた書状。
(寛文元年)十月十一日 / 冊子 445~446頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0960
稲葉正則・阿部忠秋・松平信綱・酒井忠清が松平薩摩守へ、公方の機嫌がよいことを喜び、その様子を伺う使者を遣わした旨を承知したと伝える。公方はますます勇健なので安心するよう告げ、御肴一種を献じた件を披露して一段の御仕合と返答する。
寛文三年十二月十一日 / 冊子 473頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1047
久世広之・稲葉正則・阿部忠秋・酒井忠清が松平薩摩守へ、公方の機嫌伺いの使者に対し、公方は勇健なので安心するよう返答する。御肴一種を献じた件を披露し、一段の御仕合とする。
寛文六年正月廿九日 / 冊子 514頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1144
板倉重矩が薩摩守の宿所へ、正月二十四日朝の江戸火災について、延焼を免れた諸大名・旗本の屋敷と、焼失・半焼した屋敷を列挙して知らせた覚書。
(寛文八年)二月六日 / 冊子 544頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1246
飛鳥井雅章が薩摩侍従へ、蹴鞠の門弟であるため紫組冠懸を免許する。
(寛文十一年)六月十六日 / 冊子 579頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1397
安智軒が松平薩摩守へ、伏見へ昨日到着した際の飛札と焼酎一壺・琉球雑用器への謝意を述べ、首尾よく暇を得て帰国することを祝う。次男内匠(久住の傍注)が、大隅殿の御定によって家来の島津又八郎の養子となり、今回国許へ同道するとの知らせを承知し、江戸の一門も無事だと伝える。詳しくは書状で申し達するとする。
年月日未詳 / 冊子 123頁
島津綱久譜の系譜記事。綱久と女子於満・女子於辰の系図を掲げ、寛永十七年六月二十三日生まれ、母は家臣松沢八右衛門の女、元禄三年九月二十三日卒、法名を珊窓貞珊大姉とする女性の履歴を記す。系図上でこの生没年記事が指す人物の対応は判読に注意を要する。
年月日未詳 / 冊子 194頁
寛永十九年三月二十五日に島津綱久が誕生したことを記し、母を黒田友右衛門頼清の娘とする。あわせて女子二人と、そのうち一人が家臣島津又八郎久董の室となった系譜関係を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 199頁
寛永十九年六月二十八日に島津綱久が元服して又三郎久平と号したことを記す。家臣島津兵庫忠平が代父、島津光久が加冠役を務めて諱を授け、川上因幡守久国が理髪役を務めた。
「寛永二十一年」三月十二日 / 冊子 327頁
島津綱久が種子島左近太夫へ、年頭祝儀の使者と太刀一腰・馬一疋の献上を受け、遠方からの懇志を喜んだ旨を伝えた書状。詳細は島津久通から申し伝えるとしている。
「寛永二十一年」七月廿六日 / 冊子 346頁
島津綱久が中山王へ、綱久の元服を聞いて贈られた祝儀品を目録どおり受領したことを謝する書状。中山王の厚意は紙上に尽くしがたく、詳しくは使者から申し述べると伝える。
「寛永二十一年」七月廿六日 / 冊子 346頁
島津綱久が中山王へ、中山国の継目が安堵され満足であろうと祝意を述べ、その祝儀として綱久にも贈られた品々を目録どおり受領したことを謝する書状。返礼の趣旨は使者から詳しく述べるとする。
年月日未詳 / 冊子 346頁
島津綱久譜の出典見出し。本文では「綱久公御譜中」とだけ掲げられ、独立した記事本文は記されない。直後にNo.420の正保改元・禁裏御所造営の記事が始まるため、No.420以下の出典を示す区切り見出しとして扱い、No.420本文を混入しない。
正保三年九月二十七日 / 冊子 52頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0093
島津久慶からの書状と動物の献上に謝し、満足したことと今後も同様に取り計らうよう求めた島津綱久の書状。
慶安四年十二月十八日 / 冊子 206頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0405
当地騒動の報を受け鎌田蔵人方へ使者を差し越したこと、道中や到着後の取扱いについて配慮と報告を求めた島津綱久の書状。
(明暦二年)閏四月十六日 / 冊子 293頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0633
島津綱久が鎌田筑後へ、島津光久が無事に帰国へ出立し、赤松諸兵衛から届いた報せを喜んだことを述べ、今後も諸兵衛へ心を配るよう伝えた書状。
(明暦四年)五月晦日 / 冊子 369頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0792
島津綱久が伊勢兵部へ、母が三月十六日頃から重い病状で食事も取れず衰弱しているため、現地の神社で祈祷・立願し、脇差一腰を霧島へ寄進して誠を尽くすよう命じた書状。
(万治元年)八月廿八日 / 冊子 371頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0800
島津綱久が琉球国司へ、新年の慶賀として送られた書状と祝物が届いたことを喜び、後日の祝いの機会を期すと返礼した書状。
(万治元年)九月十五日 / 冊子 372頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0804
島津綱久が琉球国司へ、新年の慶賀書を受領し、布五十疋・芭蕉布五十端・焼酎十甕が届いたことを喜び、詳しくは使者が説明すると返礼した書状。
(万治三年)九月八日 / 冊子 427頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0895
島津綱久が琉球国司へ、当年の祝いとして旧例どおり書状と祝物が届いたことを喜び、後便を期すと返答した書状。
(寛文元年)六月十七日 / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0934
島津綱久が北郷次郎左衛門久定へ、海陸とも無事に前日着船したとの知らせを喜び、その祝儀として遠路使者と書状を寄せた心遣いに謝意を伝えた返書。
(寛文元年)九月朔日 / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0956
島津綱久が琉球国司へ、当年の賀礼として使者と書状を送った旨を江戸で承知し、太平布二十疋・蕉布二十端・焼酎三壺の祝物を贈られたことを喜んだ返書。
(寛文元年)九月廿五日 / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0957
島津綱久が琉球国司へ、当年の賀礼として使者を派遣し、目録どおりの祝物を贈られたことを喜び、詳しくは使者が述べると伝えた返書。
(寛文二年)一月元旦 / 冊子 447頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0964
島津綱久が寛文二年元旦、長寿と泰平を祝う漢詩句と、『真の道』にかなう心を神が守るという和歌を記した吉書。
年月日未詳 / 冊子 472頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1040
島津綱久が寛文三年六月七日に上使稲葉正則から帰国許可と時服五十を受け、馬を拝領し、七月二十九日に江戸を発って九月九日に帰国、伊勢勘右衛門貞増を使者として謝礼を述べた記事。