入来院重高書状
五月廿七日 / 冊子 146頁
入来院重高が入来院尾張守・東郷吉兵衛に、江戸から赤子を殺す行為を禁じる命令が下されたことを伝えた書状。分国全体で同様に徹底し、家中の歴々から百姓以下、男女・子供を問わずよく申し付けるよう命じ、詳細は口上で伝えるとする。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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五月廿七日 / 冊子 146頁
入来院重高が入来院尾張守・東郷吉兵衛に、江戸から赤子を殺す行為を禁じる命令が下されたことを伝えた書状。分国全体で同様に徹底し、家中の歴々から百姓以下、男女・子供を問わずよく申し付けるよう命じ、詳細は口上で伝えるとする。
閏七月十六日 / 冊子 146~147頁
入来院重朝が入来院尾張守に、敵味方の動向と境目の警固について報じた書状。又八郎兄弟への扶持や本瀬越中の雇用を相談し、麓の用心が必要として内手衆に働きかけ、足軽二、三十人を翌日派遣すると伝える。あわせて馬一疋を贈り、適切に扱うよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 522頁
文明十七年三月二十三日、加治木忠敏・吉田尾張守・本田又左衛門尉・正八幡宮社家らが同心して上井に陣を構え、後園・薩摩守重久・北郷氏らが出羽守久遠らを派遣し、城を四方から攻めた経過を記す譜記事。
天文九年十一月十五日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津尾張守らを組み合わせ、射手ごとの射数を示した犬追物の手組。
永禄十二年正月廿四日 / 冊子 212~213頁
永禄十二年正月二十四日、馬越で島津・相良双方の重臣が会合し、和談成立を祝った。島津方が「東西南北の敵を安く平らぐ」と弓謡を歌うと相良方が不快感を示したため、鎌田尾張守が座興で収めた。しかしほどなく深水頼兼が手切れの証拠を示し、和議は破綻したと記す。
二月廿三日 / 冊子 125頁
新納久利が山田安藝に、先日の使者と狩物に関する知らせへの対応を述べ、近日の出仕・会合や兵衆の手配について相談した書状。急用があれば中野方を通じて知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 623頁
永正十六年十一月、伊集院尾張守為長が謀反して城に籠り、十二月に新納近江守忠武らが攻撃した経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 623~624頁
『島津国史』が、島津忠将の家系・官途を起点に、永正十七年以後の合戦と軍功を記す。忠朝・貴久・勝久との一族関係、伊集院尾張守忠武ら家臣との従軍、恩賞・所領支配の推移を掲げ、忠将家の成立と島津家中での役割を整理する。
年月日未詳 / 冊子 626頁
永正十七年、伊集院尾張守忠武方との合戦で敵方が敗れ、城を退去・降伏した経緯を記す島津勝久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 757~758頁
尾張守資忠の旧領を近江守忠勝が押領したことから生じた領地争いを記す。島津貴久が双方の主張を聴取し、財部院・横市などの知行を裁定したが、忠勝方は処分に抵抗した。使者を介して返還・代替地・和議条件を調整した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 17~18頁
天文二十四年から弘治元年の戦闘における島津方の戦死者を補記する。九月五日の新納尾張守忠征・新納河内守忠照、十一月十六日の本田宗左衛門、十二月五日の前田長門守らについて、日付・所属・従者の戦死を列記する。
年月日未詳 / 冊子 502~503頁
文明十五年八月廿一日に二宮新田八幡大菩薩神前で行われた笠懸について、射手や役割を列記した日記記事。
年月日未詳 / 冊子 503頁
豊州家二代忠廉譜として、文明十五年八月廿一日の笠懸に参加した忠廉と一門・家臣らの名、役割、系譜上の注記を列記する記事。
年月日未詳 / 冊子 521頁
文明十七年三月三日以降、本田兼親が忠廉の催促を受けて上井城などの戦いに参加し、戦功・合戦と一族の動向、のちの戦死を記す譜記事。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
年月日未詳 / 冊子 450頁
肝付兼藤が、北条師時承幕府命により越尾張守高家に奪われた所職について訴え、北条時直・北条武蔵守貞顕の在任中に探題へ提訴して復審を求めた経緯を記す伝記事項。
延元2年6月4日 / 冊子 334頁/原整理番号 130-12
延元二年六月四日、左近将監高家が三条侍従泰季の命を受け、河上又二郎入道へ出した御教書。軍忠に報いるため、上級裁決が確定するまで薩摩国市来院内河上名の地頭職を預け置き、先例を守って支配・処務するよう命じる。傍注は高家を名越尾張守高家かと考証し、建武年間の山城国での討死や、島津貞久の市来院名主職に関する記事にも言及する。
永禄四年七月十二日、寛永十五年、宝永元年三月三日~宝永五年閏正月十六日(主要記事) / 冊子 498~501頁/原整理番号 22-2
酒匂氏左衛門尉家の系譜・軍歴・伝来什物の家例を記す。新左衛門尉から治部少輔へ続き、日州目白坂で戦死した人物を置く。源左衛門尉は鎌田尾張守政年とも称し、島津義久に仕え、伊集院忠朗・島津忠将の移動に従った後、永禄四年七月十二日の竹原山合戦で忠将とともに戦死し、配下三十余人も討死した。景宗は義久から正嫡と認められ、肝属郡串良など八町を知行したが、肝属一郡が伊集院幸侃へ与えられると子らは蒲生、のち出水へ移った。景政を猶子、景明を婿養子とする家督継承、後裔の婚姻・早世・地頭職も載せる。酒匂家伝来の観音像と『天之御母衣』は、家督者が千日潔斎・七か月別火を行って一度拝し、太刀・樽肴を献じて藩主へ披露する家例であった。景明・景義の代に中断したが、景安が旧例復興を訴え、宝永元年三月三日に儀礼を再興し、宝永五年閏正月十六日には忠久伝来什物を収めた筥蔵の小番を代々務めるよう命じられた。
年月日不記(天文九年・天正十四年・文明十七年は系図内記事) / 冊子 653頁/原整理番号 120-2
鎌田氏政年流の系図で、政年から子の政広へ続く。同三男家と注記し、政広は天文九年生まれ、山田蔵人有親の娘を母とすると記す。天正十四年の九州合戦時には和睦の使いとして上洛し、太刀と衣服を拝領したという。末尾では、鎌田氏正統に文明十七年、日州櫛間の牟田迫で戦死した尾張守政年がいるものの、その人物は政広の父・政年ではないと、同名の二人を明確に区別する。
年月日未詳 / 冊子 128頁/原整理番号 470
日向国櫛間院の本主と地頭職の手継ぎを示す系図。郡司尾張守是助・尾張氏・小石祢丸名主から伴兼任らへ続く相伝を、嘉応三年・安元二年・治承二年・永暦元年・文治二年などの本家御下文・目代施行・譲与に関する注記とともに掲げる。末尾は元弘・建武年間の勲功による地頭職給付を経て、観睿・通睿から久盛・盛忠へ至る。
天文十年正月十二日 / 冊子 144頁/原整理番号 78
天文十年正月十二日の犬追物手組。三郎左衛門尉・島津尾張守・税所右衛門兵衛尉・村田越前守らの射手を列記し、検見を島津武蔵守、喚次を本田下野守とする。犬数の配当は記さない。
文和四年十一月五日 / 冊子 261~262頁/原整理番号 26
島津師久が、父道鑑の所領である薩摩国楠木野城に三条侍従・市来氏家・鮫島蓮道・知覧忠世らが九月二日に攻め寄せ、五日間の合戦で敵を捕らえ追い落としたことを申告する目安状。九州宮方の蜂起と一色の長州越えに伴う戦況を述べ、十月十二日の和泉庄側の攻撃では自身が三か所、伯父尾張守資忠が右腕に負傷し、守護代酒匂らが戦死、ほか百余人が負傷したと訴える。道鑑は中風で難儀して詳しい報告ができないとして、敵方の延引を避け両御所の命による出陣を求め、さもなくば国を捨てて参洛すると申し上げる。
年月日未詳 / 冊子 371頁/原整理番号 79
大口と眞幸の敵を圧迫し、伊東の楠比良の陣も崩れたことを記す。八月十八日から大口を包囲して秋作を妨げ、求麻・八代・大口の兵が出るたびに戦ったため、敵は疲弊して和平を申し入れた。菱刈方の命を助け、九月中旬に大口の番衆を引くと籠城側も降った。城内で太平を祝い、鎌田尾張守の働きを賞し、諸城に地頭を置いて軍勢を帰したという。
文書日付:建長六年正月十四日 / 冊子 447頁/原整理番号 六七七/整理ID TMP-P03-IKEHATA-D0677
氏に祢寝院佐法村内の田柒段・薗壹所を早く領知させる旨を記す。 前年十二月廿八日の安堵御下文の旨に任せる。 その土地を領掌させるよう指示する。 建長六年正月十四日付、前尾張守平の署判による。
記事成立日:未確認 / 冊子 613頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A074
庚子の秋に文書の写一通を得たと記す。 紹介句は高尾張守師泰・島津前豊後守實忠・平兼政を挙げ、「連署與二階堂紀伊權守行仲執達狀也」と記す。 建武三年三月十七日の記載に続き、正文を御用に進上したと述べる。 島津因幡忠郷・和泉家・伊勢兵部貞〔知/矩候補〕を挙げ、賜・臨摹・見贈・付與證文・回翰の句を記す。
建武三年三月廿八日 / 冊子 657頁
大隅式部三郎忠能が多々良浜合戦で敵の首を取った軍功について、実否を見知者に問い、起請文を付して注進させるよう命じた足利尊氏奉行人連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 361~362頁/原整理番号 65
馬越から一山を見廻った時、大口の四千人ほどが二手に分かれて襲来したことを記す。小苗代原では肝付が諸隊に指示し、弓と鉄炮で戦った。一山地頭の忠元は白坂口へ出て的場五藤と戦い、大太刀を振るったが、五藤は負傷して退いた。続く諸隊の働きと忠元の鎧の損傷、敵の撤退を記し、三原・長谷場を使者として軍労に礼を述べたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 410~411頁/原整理番号 147
天正七年春、天草紹白が来迎寺の使僧を介して忠元と交渉し、出水の義虎と和睦した経緯を記す。忠元は大友に従うことの不利を説き、将軍義昭の大友退治の沙汰を受けて肥後で活動した。鎌田寛栖とともに志岐・上津浦・栖本・大矢野ら五人の城主を出水へ招き、島津への奉公・降伏に導いた。肥後の領地拡大を忠元と寛栖の勲功とする。
(大永四年)九月十三日 / 冊子 647頁
島津忠朝が新納忠勝に、串良院の処置と安千代殿の進退、志布志衆への対応を伝え、協力を求めた書状。
(天正七年)六月十四日 / 冊子 637頁
島津義久が天草鎮尚へ、隣国として長年懇意にしてきた縁から、今後島津家の幕下となるとの申し出を喜ぶ。返礼が遅れたことを詫び、太刀一腰と馬一疋を贈り、詳しくは泰平寺と相談すると伝えた。
文保元年三月廿日 / 冊子 450頁
大隅国肝付郡弁済使等阿申所職・名田畠等について、地頭尾張守高家が押領しているとの重陳を受け、下地使者が不日差遣して実地を糺し、押領・狼藉が事実なら厳密に処罰するよう命じた関東御教書。
天正七年三月二日 / 冊子 629頁
島津義久が、幕下となることを懇望した天草鎮尚に対し、受領名として尾張守を称することを許可した文書。
年月日未詳 / 冊子 149~150頁/原整理番号 33
『上世略』として梶原太郎を号した景久から景長へつなぎ、景時・景季・景高・景茂らの諸流を展開する梶原景久流系図。景久流と、兼純・滋純・助純・信純・義純・重純・政純らの系線を掲げ、北原弥次郎の称号、薩摩国日置、鹿児島城・別府での討死、官途・法名・嫡子・次男・養子関係を記す。吉田上村、島津式部亮、三俣中野、伊地知、玉利・迫田、伊集院野田など諸家との婚姻を列記し、僧慧原・僧超慶・僧祐寿ら出家者も収める。左注には文明六年の『行脚雑録』に梶原主計が見えること、伊地知尾張守重秀の妻が梶原氏女で、天文三年閏正月七日に没し法名を秀窓妙用大姉としたとの記事を掲げ、墨色の違いと続筆関係も注記する。
年月日不記(天正十五年・慶長四年などは系図内記事) / 冊子 628~630頁/原整理番号 113
種子島氏支族・河東尾張守時定の八代に当たる因幡守時儀の子から続く善左衛門家系図で、時近・時適以下の系線、養子、婚姻を記す。時近の女子は島津義久の室となった種子島時堯の娘に局として仕え、天正十五年の秀吉西征時に人質として上京する亀寿に随従し、十八年の再上京にも従った。義久はその勤労に感状と三百石を与えたという。この局は義久の許可を得て最上長門守の二男・時弘を養子として跡を立て、時弘は肝付郡百引の地頭職を賜った。時弘は阿多掃部介の二男・時常を養子とし、後の時豊は一時阿多甚左衛門家を継いだが、兄時次が子を残さず死んだため同家を辞して本家を継いだと記す。
年月日未詳 / 冊子 261~262頁/原整理番号 106
『系図抄』として上原康基を起点に、康忠・貞安・康時・惟康・康宗・尚康・尚宗・康続以下の諸流を縦系図で示し、各人の官位・官途・法名を付記する。康基は右衛門督・蔵人頭・従五位上、康忠は右兵衛督・長官・蔵人・従四位上、貞安は右兵衛督・従四位上とし、尚康を兵部少輔・従五位上・法名大全、尚宗を刑部大輔・従四位上・安房守とする。信康は若狭守・法名窓鑑で「始遷薩州」と記され、康純は大学頭・大和守で日州へ移住したとされるため、上原氏祖系の薩摩・日向への移動を示す。後段には治尚・尚定、安成・安常、行安・康高・康将、康元・康輔・康保、康衡(号尚永)などを掲げ、尚弘を上原美作守、尚重を上原清右衛門と明記し、尚純(主税助)を含む末流へ続ける。
年月日未詳 / 冊子 308~309頁
弘安四年六月二十九日に入来院平四郎有重が戦死し、同院平四郎太郎重尚も傷を負ったことを記す。鎌田尾張守清憲が元軍を追った博多の戦いと関連づける短い殉国記事。
文保二年三月廿三日 / 冊子 465頁
島津道義が六男尾張守資忠分として日向国河南北郷内三箇二山西三中郷など、合三百町の所領を譲与したとする文書。一連の疑文書群の末尾に位置する。
年月日未詳 / 冊子 838頁
北郷資忠が、太守島津貞久の在洛中に尾張守へ任じられたことを記す譜記事。
文和三年六月日 / 冊子 852頁
知色城落城時に最前へ馳せ来て忠節を尽くした味方を列記する交名注文。下野尾張守、上総弥三郎、大野三郎次郎、渋谷彦河守、山門彦次郎、市来弥次郎太郎らと一族・被官を挙げ、攻城参加者の構成を示す。
年月日未詳 / 冊子 828頁
豊州家の忠親について、忠相の長子であること、尾張守・豊後守を称したことなど、家督と系譜を記す。
永禄五年九月十八日 / 冊子 118頁
永禄五年九月十八日、島津尾張守忠親が策をめぐらして飫肥へ向かい、伊東勢を攻めて勝利し、再び飫肥の領地を取り戻したことを記す。