斯波氏経感状
康安二年三月廿五日 / 冊子 26頁
斯波氏経が大隅小四郎に、薩摩国池部城合戦で御方として負傷した忠節を神妙と賞し、今後もいっそう忠節を尽くすよう求めた感状。
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康安二年三月廿五日 / 冊子 26頁
斯波氏経が大隅小四郎に、薩摩国池部城合戦で御方として負傷した忠節を神妙と賞し、今後もいっそう忠節を尽くすよう求めた感状。
天正四年五月廿一日 / 冊子 479頁
島津義久が、島津家との歴然たる旧好により、頴娃小四郎家の所定の役務について、代々の嫡子一人を永く免許すると認めた書下。
年月日未詳 / 冊子 25頁
『島津国史』が康安二年の薩摩国池部城合戦を起点に、康安・貞治年間の道鑑公関係記事を編年で記す。大隅小四郎の戦功と斯波氏経の感状、関所・所領をめぐる処置、細川頼之・島津氏久・定山公ら一族の動向を収録する。軍功認定から所領支配へ展開する政治過程を示す。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
伊東・肝付・伊地知方が小禰寝へ出兵して浜城を落とし、本城麓へ放火した。園見城から喜入図書助・弟小四郎が加世田勢を率いて奮戦したが、多勢に敗れて兄弟とも戦死した。続く岩瀬戸口の追撃戦では猿渡越中守・井尻伊賀守・喜入摂津守・平田新左衛門らが働き、敵も損害を出したものの、この戦いは伊東・肝付方が小利を得て退陣したとする。
年月日未詳 / 冊子 808~809頁
天文十二年、種子島へ漂着した異国船から鉄砲と火薬調合の技術が伝わった経過を記す。種子島時堯が鉄砲を買い取り試射し、篠川小四郎・織匠に製造を命じた。技術が紀伊へ渡り、堺商人や和泉橘屋又三郎を介して国内へ普及したことを伝える。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
禰寝重武が島津方へ帰順し、元亀三年三月中旬に伊東・肝付・伊地知方と戦った経緯を詳述する。大姶良方面では島津歳久・忠長らの反撃で敵を退け、重武の子を人質として境目の城々に番兵を置いた。のち敵が小禰寝の浜城を落とすと、喜入図書助・小四郎兄弟らが戦死し、岩瀬戸口で島津方が追撃して多数を討ち取った。
「大永六年」十一月五日 / 冊子 666頁
島津忠兼が肝付兼演に、虎寿丸らが来訪して心配はなく、肝付方が出頭する運びなので、確かな奉公を頼むとした書状。
暦応三年七月廿日 / 冊子 730頁
薩摩国の凶徒退治のため、大井小四郎に一族を催して急ぎ発向するよう命じた島津貞久軍勢催促状。
元禄五年一月二日 / 冊子 879頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2371
綱貴が中将へ、修理大夫が旧臘二十九日に上使堀小四郎(利安との傍注)を通じて御鷹に関わる品を拝領したことをありがたく思い、その旨を報告する。
建武2年2月20日 / 冊子 358~359頁/原整理番号 145
建武二年二月二十日、三月から内裏大番を勤仕すべき薩摩国の地頭御家人を列挙した交名注文。大隅二郎三郎・周坊蔵人三郎・式部孫五郎入道・渋谷小四郎入道・渋谷新平二入道・矢上左衛門二郎・渋谷彦三郎入道・指宿郡司入道・比志島彦太郎・渋谷弥二郎・智覧四郎・光富又五郎入道(友経、心楽)・朝岳強三郎の十三名を、次第不同・常参分として掲げる。鎧・直垂・『てうつかけ』を用意すべきことも指示し、真本は比志島氏家蔵と注記される。
至徳2年12月15日、暦応4年7月27日・8月14日、文安3年、宝徳3年9月8日、嘉吉元年12月12日、寛正3年、天文17年、永禄10年、天正8年、寛永元年、寛延3年1月12日、貞享5年 / 冊子 320~324頁/原整理番号 122
市来小四郎家と次左衛門・千左衛門・左中・勘左衛門などの諸流を、慶頼王の後裔とする祖系から近世まで示す長大な系図。広言が晩年に島津忠久へ従い、その子友成が大蔵家房の娘を妻として市来郡司家へ入り、政家が父家と祖母から市来院郡司職を受けて惟宗・大蔵の二姓を兼ねた経緯を記す。氏家は歌道と蹴鞠に優れ、忠家は至徳二年の犬追物で射手を務めた。久家は幼少時に島津久豊の葬送へ従い、嘉吉元年には薩摩守持久らと島津忠国に供奉したが、後に守護島津立久へ背き、寛正三年に市来城を攻められて没落した。後代では、家保が加世田で戦死し、家永が永禄十年に市山で戦死したこと、家政が天文十七年の日新公による加世田城攻撃で御剣を持ったこと、別家の家政が竹内兵部少輔を称して竹内隠岐守の養子となったのち市来氏を再興したことなど、各流の軍功・戦死・養子・役職・法名を列記する。忠家の一支については次左衛門家系図に見えず、本宗にも忠家がいないとの異説を付記する。
天正三年三月十六日 / 冊子 145~146頁/原整理番号 81
天正三年三月十六日の犬追物手組。島津右馬頭十四疋、島津國書頭八疋、島津小四郎十一疋などの配当を掲げ、検見を島津上野守、喚次を比志島彦三郎とする。
天正四年四月九日 / 冊子 146~147頁/原整理番号 84
天正四年四月九日、近衛殿下向の御会釈として興行した犬追物の手組。島津右馬助四疋、島津國書助十四疋、島津小四郎六疋、島津左衛門尉九疋などの配当を二頁にわたり記し、検見・喚次の役を付す。
文政十三年十一月四日 / 冊子 189頁/原整理番号 159
別冊後綴に「犬追物記」全編があるため本冊では省略すると記す短い参照記載。末尾に文政十三年十一月四日「書之」として本田親良・伊地知小四郎平季澄の名を掲げる。犬追物記の本文そのものは本件に収録されていない。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
正月29日(写) / 冊子 337~338頁/原整理番号 130-22
河上氏文書のうちから正月二十九日に写した別紙の某覚書。大隅国の吉内左衛門尉家長に関わる山城守の許可、松山地頭となった人物が和泉から日新斎へ供奉して中村に居住した由緒、羽月居住者と貴島常陸一族、南郷氏との争い・永吉での討死、薩州時代に小湊を領した人物、市来助次郎の曾祖父山城守の妹婿にあたる和泉の市来氏など、一族・姻族の関係を伝える。付随系譜は九代家政が次郎左衛門尉・山城守を称し、法名を長盛としたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 16
忠元の年譜が、天文七年に忠勝の敗落で家臣が離散し、安萬も父祐久に従って田布施へ移ったと記す。十四年、大中公が伊集院にいた時に入来院重朝が背き、八月七日頃に神殿から兵を出して郡山城を夜襲した。忠元は諸将とともに城へ迫り、先に柵を登って山口某と刀で戦い首を取った。初めての従軍で槍傷を負い、その時は十九歳だったという。
年月日未詳 / 冊子 335頁/原整理番号 19
忠清の申状が、伯囿の伊集院在城時、八月七日の夜に神殿から郡山城へ忍び入り攻めたと記す。敵が強く城戸で抵抗する中、南郷・市来・拙斎らが先に走り込み、城戸を破って内城へ迫った。伯囿が火矢を用いて攻めた後、川上・阿弥・野村らと拙斎が心を合わせて戦い、拙斎は山口という者を刀で切り合って討ち、その首を伯囿へ見せたという。
暦応四年七月日 / 冊子 741頁
放火狼藉の関与者として、渋谷弥四郎本人、西岡弥次郎左衛門尉、重内三郎、山口平次三郎、同平四郎、一渡弥四郎、大井小四郎、同六郎らを列記した交名注文。
年月日未詳 / 冊子 171頁/原整理番号 50
橘諸兄の末流とする東山藤崎氏の系図。小四郎公紀は従五位下美濃守で藤崎を号し、鎌倉合戦では宮方として新田陣に加わり、初めて薩州へ下って向島および諸所を領したとする。公辰(美濃守・橘次)―公明(備前・小四郎)―公兼(肥前守・平六兵衛)の系線、公範(豊前守・小四郎)―公行(善六左衛門・但馬守・小四郎)―公昌(助右衛門・吉次)の系線、公朝(六郎右衛門)―公常(善六左衛門)の系線を掲げ、公朝の母を島津左近将監忠富の娘と記す。子孫は六太夫。
至徳二年〔十二月十五日 / 冊子 120頁/原整理番号 7-1
至徳二年十二月十五日の犬追物手組「7の1」。市来小四郎家状を引き、島津殿十疋、市来殿九疋などを列記する。「不用より次二出す」との注記がある。