寺山久兼譜
年月日未詳 / 冊子 253~254頁
『寺山久兼譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦での寺山久兼の戦功を記す記事。義弘・忠恒父子が開門して明軍へ突入した際、島津忠長と対峙する敵将が現れると、久兼は兵を横隊にしてその後軍を攻めさせた。これにより前軍も崩れ、島津勢が敵首を斬獲する契機となったとする。末尾に久兼が慶長十六年十月晦日、四十五歳で没したことを付記する。
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年月日未詳 / 冊子 253~254頁
『寺山久兼譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦での寺山久兼の戦功を記す記事。義弘・忠恒父子が開門して明軍へ突入した際、島津忠長と対峙する敵将が現れると、久兼は兵を横隊にしてその後軍を攻めさせた。これにより前軍も崩れ、島津勢が敵首を斬獲する契機となったとする。末尾に久兼が慶長十六年十月晦日、四十五歳で没したことを付記する。
慶長三年九月十九日 / 冊子 238~239頁
『島津義弘譜』が、島津忠恒配下の寺山久兼が望津の守備中、明・朝鮮軍の兵力を偵察し、猛暑時に兵を川辺へ伏せて敵の人馬が水に入るところを鉄砲で一斉射撃し、多数を倒したと記す記事。さらに山谷に火を放って大軍が潜むように見せるなど奇策を重ねたため、董一元は九月十九日に晋州へ進出しても島津義弘の武勇と城の堅固さを恐れ、攻撃を控えたとする。
年月日未詳 / 冊子 253頁
『川上久辰譜』が、泗川・新寨決戦での川上久辰の働きを記す記事。董一元らの大軍に対し、義弘・忠恒が七千余の兵を率いて反撃し、忠長も小勢で紅巾の兵を支えた。諸将が追撃に出て義弘の周囲が手薄になると、久辰がその側へ進み、義弘は祖先川上久朗が菱刈で両君のため命を懸けた故事になぞらえて称えた。寺山久兼の鉄炮隊による後陣攻撃で敵を崩し、茅国器側が弟を人質として講和を請うたとする。
年月日未詳 / 冊子 394頁
寺山氏系図は、廣田某の猶子となった寺山四郎左衛門久兼が、慶長四年の庄内山田の戦いで三十三歳で戦死したと記す。法号を良翁玄張居士とする。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
寺山氏三代久兼の子女から久豊・久堅・忠昌を経て、養子久任・久長・久繁・久年・用長へ続く系統を記す。忠昌が佐多忠充の三男として養子に入り、坊津・姶良の地頭を務めたことなどを載せる。
慶長三年十月朔日 / 冊子 248~250頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後、首実検と勝利の儀礼を行い、翌二日に敵首三万八千七百十七級と算したとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 250~252頁
『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子の首実検と勝利の儀礼、十月二日の敵首集計を記す。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されており、島津義弘譜に記された慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されている。同じ参照先を持つNo.499とは別番号で掲げられ、泗川・新寨決戦記事の一部分に対応する。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.490の記事の一部と同文であるため省略されており、島津忠恒(家久)の接近射撃・敵中突入・追撃を中心とする新寨決戦記事を参照する構成となっている。
慶長三年六月廿日~九月廿日 / 冊子 242~243頁
『盛香集』が、寺山四郎左衛門久兼の望津での対陣と家来神宮矢兵衛の射撃を伝える記事。久兼は漢南の大軍を前に、晋州の川を隔て約二百人で六月廿日から対陣し、人数の多少を悟らせない計略で敵を悩ませた。九月廿日の命令で望津陣を払い新寨へ移る際に敵が渡河を試みたといい、鉄炮上手の神宮矢兵衛が川越しに撃つ弾だけは外れず、唐人が大いに恐れたとする。