島津義久書状案
(天正14年)8月2日 / 冊子 213頁
島津義久が彦山座主坊へ、秋月種実の要望に応じた出勢によって筑紫方を容易に退治し、鬱憤を晴らして満足していると報告する。 使僧が丹精した巻数と織筋の到来を喜び、今後も彦山の神慮を仰ぐと述べる。軍事行動の成功と宗教勢力からの祈祷・贈答が結び付いた書状案である。
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(天正14年)8月2日 / 冊子 213頁
島津義久が彦山座主坊へ、秋月種実の要望に応じた出勢によって筑紫方を容易に退治し、鬱憤を晴らして満足していると報告する。 使僧が丹精した巻数と織筋の到来を喜び、今後も彦山の神慮を仰ぐと述べる。軍事行動の成功と宗教勢力からの祈祷・贈答が結び付いた書状案である。
(慶長十九年)八月八日 / 冊子 542頁
現地での取扱いを見届けた上で採用・改定すること、宗教・政務上の処置を慎重に進めることを述べ、長谷川忠兵衛・茶屋四郎次郎らの動向にも触れて報告を求めた山口直友の書状。
年月日未詳 / 冊子 203頁
寿命や横死、生来の善悪、善念と悪念、仏心と野狐心、稲荷神が島津家への悪心を退けるか、験者・呪詛・外道、施物と祈念の効験などを問う宗教問答の条書。薩摩で一向宗・キリシタンを禁じ神仏を信仰してきたのに、子孫祈願がかなわず幼児が三歳を越えない理由など、宿命と祈願の効力への疑問を列挙する。
(文禄元年)4月11日 / 冊子 542頁
長寿院盛淳が、島津義久の上洛中、神前で毎日油断なく祈祷するよう二之宮隠岐守へ伝えた書状。祓についても怠りなく行い、何か不足や問題があれば事前に知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 532頁
慶長十九年、山口駿河守直友が長崎で耶蘇教徒の取締りに当たり家久へ報告したため、家久が三原重種を遣わして労をねぎらい、現地の状況に対応させたことを記す家久譜。
寛永十七年三月廿日 / 冊子 104頁
川上久国が兵具方の担当者らへ、蒲生衆中の田代新兵衛は一向宗のため召し離された者だが、火縄の技能を用いるため兵具衆が身代銀を出して買い取り、飯米を与えて火縄の役を命じるよう伝えた書状。ただし公儀へ正式に召し出さず、兵具衆の被官同様に使うことを条件とし、北郷久加・山田有栄とも合意済みとしている。
九月日 / 冊子 328~329頁
大版本の観音経が完成したので送り、自分の本を書いた人物がこれも書写したと説明し、奥書は希望もあるだろうが遠方なので一まずこちらで命じ、春中には参上するとした島津家久書状。
正月七日 / 冊子 29頁/原整理番号 6-44
鎌田政直は島津図書に、御記録の外題を福昌寺内の長田に書かせるよう命じたので、平田清右衛門と相談し、相応の心付けを御物座から与えるよう依頼した。鎌田が上方へ出向くため、処置を託す正月七日付の書状。
正月七日 / 冊子 29頁/原整理番号 6-45
福昌寺内の長田が御記録の外題を書き終えた際、この手紙を関係者へ示して相応の心付けを与えるよう平田清右衛門へ伝えた正月七日付の書状。
正月七日 / 冊子 29頁/原整理番号 6-46
花尾権現の木像の件を翌日御本丸へ報告するので、関係者を差し出すよう指示する。併せて御記録草案の外題を福昌寺の長田に書かせ、書き入れについて宮越新兵衛へ申し伝えるよう命じた正月七日付の返答書。
正月十六日 / 冊子 29頁/原整理番号 6-47
厚智山の石塔付近の古木二本のうち一枝が折れて塔の角を傷つけたため、関係者と相談して伐るよう指示する。厚智山の脇坊が十六坊から十二坊になったという伝承は草案への反映を大乗院に見せて判断し、厚智山の書物を持つ比志島左京とも相談するよう命じた返答書。
年月日未詳 / 冊子 31~33頁/原整理番号 7
島津安藝・島津大膳をはじめ、入来院石見、樺山源三郎、喜入摂津介、村田太右衛門、亀山又六、最上右近、指宿助左衛門、白濱治大夫らが所持する御家関係文書を、所持者別に列挙した記録。元暦二年の伊勢国波出御厨・須可御庄の地頭職御下文、島津御庄下司職御下文をはじめ、頼朝の判をもつ文書や後代の文書・写しを、日付・発給者・通数とともに記す。個々の文書の本文ではなく、所在と概要を示す目録である。
万治元年十月日 / 冊子 33~45頁/原整理番号 8-1
『御家文書所持之貴賤同考之記』として、島津家・家臣・寺院などの所持する御家関係文書、書状、口宣案、写し、案文帳などを所持者ごとに掲げ、島津家の代々に照らして日付・発給者・通数を記した文書目録。元暦二年の頼朝袖判の御下文から義久・義弘・家久期の書状までを収め、末尾に『惣合百六拾九通』とする。一方、張紙には提出帳の条書が『百五十八』と記されている旨の注記があり、両数値の関係は本文だけでは確定できない。万治元年十月付で、伊兵少老へ差し上げた帳の写しであると記す。
正月六日 / 冊子 54~55頁/原整理番号 21-2
伊地知季安は相良甚太夫の前掲書付に補い、中古まで御記録所などの専用の役所だけで政務が行われたわけではなく、寺院や家老・役人の居宅も評定・用談の場であったと考える。酒匂安国寺申状や『上井覚兼日記』を引き、外城の役所から麓の地頭仮屋・屋敷への移行を推測する。古帳を組頭宅で保管した例も追記し、役所の変遷を時代ごとに考える必要を説く。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 57~59頁/原整理番号 23
伊地知季安は、相良甚太夫の御文書奉行・平田清右衛門に関する説明を受け、旧来の御文書奉行の候補者と職掌を検討する。また平田が歴代の記録編纂に着手した時期を考え、寛永初年とする説には疑問を示し、正保二年着手という平田家の伝えを重視する。幕府が諸家の系図提出を命じた時期や川上久国の書状を手掛かりに、島津家の系図作成・提出の経過を追うが、推測を含むことも明示する。
四月十日 / 冊子 59頁/原整理番号 24
『元寛年月日記』巻十四からの抜書。寛永十八年二月十一日、太田備中守資宗に諸大名・旗本の系図提出を取りまとめ、日光山の宝蔵に納めるよう命じたと記す。系図のなかった家も急いで数代分を作成して提出したこと、同年の日光山での権現の宝塔造営にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 65~68頁/原整理番号 36-1
諏訪神事の頭屋・居頭役について、慶長五年・七年の役割分担を記した古書を挙げ、頭役、献役、幣役、宿などの担当者を列挙する。伊地知季安は、本田氏・新納家・平田家などの伝承や社役帳を照らし、担当家の組合とその変遷、神事の古い作法を考証する。また大口の諏訪神事にも触れ、慶長十二年・十八年の記録を挙げて鹿児島の頭屋との関係を推測する。
年月日未詳 / 冊子 68~70頁/原整理番号 36-3
伊地知季安は、稲荷神事の鏑流馬が朝鮮出兵後に始まったという伝えを、『上井覚兼日記』の天正三年十一月の記事と比べる。同記事には樺山・寺山の関係者が鏑流馬の翌日に登城したとあり、季安は慶長四年とされる開始より前から行われていた可能性を指摘する。朝鮮出兵後には奉納の人数を増したのであって、神事自体の創始ではないのではないかと推測し、さらに吟味を求める。
万治三年正月吉日 / 冊子 72~75頁/原整理番号 1
『御旧式類抄』の冒頭で、元日から年中行事に至る島津家の旧儀を項目ごとに列挙する。年頭の出仕・社参・福昌寺との往来、御吉書・椀飯・三献、諏訪神事、琉球使節の接遇、元服や代祝などを挙げ、いくつかの項目には出典や人物比定に関する書入れを付す。儀礼の本文を一件ずつ記した文書ではなく、旧式の項目と注記を集めた目録的な部分。
長禄二年正月四日 / 冊子 77頁/原整理番号 8-1
守護代本田国親は、神社仏寺の興行、農業への精勤、堤・溝などの修理、大犯三箇条の執行、各所の所領への入部について指示する。長禄二年正月四日付の吉書。
年月日未詳 / 冊子 79頁/原整理番号 10
『島津摂津介忠春日記』の享禄二年正月一日から七日の記事。忠春が鹿児島で新年の出仕と節供、三献・椀飯、福昌寺や鎮守への参詣、関係者との酒宴などに参加した経過を日ごとに記す。
天文十一年十一月廿日 / 冊子 80~81頁/原整理番号 12
天文十一年十一月二十日付の一所衆三献の式次第。川上・新納らを三献の席、入来院らを三つ肴三献の席などに分け、老中、諸地頭、国衆の使者、談議所や福昌寺・道場に対する酒肴・茶子の出し方を列挙する。相手の身分や場に応じて供応を区別した覚。
年月日未詳 / 冊子 81~83頁/原整理番号 13
伊地知越後守重実の日記から、天文二十二年正月朔日から閏正月十五日までの記事を抜く。御社参、椀飯、三献、寺社への参詣、客の来訪、御狩、連歌、各地への移動など、藩主と周囲の年頭行事を日ごとに記す。料理・献酬・参上者の名も多く、年中儀礼の実際を示す記録。
年月日未詳 / 冊子 83~84頁/原整理番号 14
『上井覚兼日記』天正三年正月の記事を抜く。元日の社参と老中の三献、椀飯、十一日の酒席の献酬と座次を記すほか、同日の初談合で神社仏閣の修造、軍事、下大隅への移衆、菱刈、法度など五項目を地頭衆へ伝え、翌日に返答を受けたことを記す。十六日の寄合の席次やその後の出仕も載せる。
知季安追啓天正七年正月十一日 / 冊子 87頁/原整理番号 16
島津義久は、神社仏寺の修造・興行、農業への精勤、各地の年貢の徴納について指示する三箇条の吉書を出した。天正七年正月十一日付。
年月日未詳 / 冊子 87~91頁/原整理番号 17
本田公親が年男として記した、天正八年正月元日から十五日までの島津義久の年始儀礼の記録。御対面や出仕の順序、寺社参詣、三献・進物などの日々の作法を記し、元日の伊地知家、七日の平田家、十五日の本田家による椀飯進上を伝える。十一日には吉書と具足着始の儀を記す。末尾に本田大炊太夫公親の署名がある。
年月日未詳 / 冊子 91~96頁/原整理番号 18
伊地知重元が年男として記した、天正十年正月元日から十五日までの島津義久の年始儀礼の記録。元日の火起こし・茶湯から御対面、寺社参詣、三献、進物、諸家の椀飯進上まで、日ごとの参列者と作法を詳述する。四日夜の節分、十一日の吉書・具足着始、十五日の本田家の椀飯も記す。末尾に年男伊地知又八重元らの署名がある。
年月日未詳 / 冊子 96~103頁/原整理番号 19
伊地知重則の年男日記。天正十一年末の節分・年の餅の儀から天正十二年正月十五日まで、島津義久の年末年始行事を日付順に記す。元日の社参と伊地知家の椀飯、七日の蘇民・鬼籠と平田家の椀飯、十一日の吉書・鎧召初、十五日の本田家の椀飯をはじめ、諸寺社・家臣・地頭・百姓らの御目見え、進物、三献や酒宴の次第を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 103~109頁/原整理番号 21
伊地知重元が年男を勤めた際の日記。前年十二月十八日の節分・年末の餅や年縄の儀から天正十四年正月の年始行事まで、島津義久の御対面、社参、寺社・家臣・百姓らの出仕、進物と酒宴の次第を日付順に記す。元日の伊地知家、七日の平田家、末尾の本田家による椀飯のほか、十一日の大般若・吉書・具足召初、十四日の年縄の片付けを伝える。
年月日未詳 / 冊子 110~112頁/原整理番号 24
文禄四年十二月下旬の朝鮮在陣中の日記。歳暮の礼として竹嶋・小西・大村・天草らから届いた鳥・樽・肴などの進物、加藤・小西ら諸大名への年末の使者と書状、年男の任命、鳥狩りや鞠、道具衆・中間衆への衣服の給与を日ごとに記す。釜山浦では小西行長・寺沢正成へ進物を届け、末尾に年男らへの肩衣・袴の給与を記す。
長禄二年正月四日 / 冊子 113~133頁/原整理番号 28
慶長十三年正月朔日から晦日までの加治木御日記。惟新(島津義弘)のもとに参上する家臣・寺社・使者と年頭の進物・酒宴を日ごとに列記する。前年からの惟新の病状を案じる龍伯・奥州らとの使者往来、各寺社の祈祷成就と札・巻数の進上が繰り返し現れる。十五日には駿河普請に関する口達、二十五日には猿渡弥七郎の処罰、晦日には惟新の吉書を記す。末尾の注記は、この日記の儀式を隠居後の加治木城の式例とそのまま同一視できないと述べる。
覚書三〇慶長十九年九月四日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 30
惟新(島津義弘)への年頭の三献の次第を記した覚書。川上・新納・又四郎には式三献、北郷・佐多・喜入らには古鉢三献、入来院には渋谷三献、吉利・根占・肝付・伊地知らには三肴三献を用いるとし、盃や膳の形も区別する。元日の盃、社参後、談議所・福昌寺への出仕時の酒や茶の作法も記す。慶長十九年九月四日の書写記事を付す。
三四の1享保九年七月 / 冊子 138~140頁/原整理番号 34-1
享保九年七月、島津久春が年頭の御礼着座を改めるよう申し渡した書付。従来の客居・主居の区別をやめ、対面所では客居側に一列に着座させる。各家の席順を挙げ、同格の家は本人や子の役職、役がなければ年齢などを勘案すると定める。病気などで欠席しても席を空けずに詰め、御書院の着座や城代・家老の列座にも新しい配列を適用する。
三六冖宝暦十三年十二月廿九日 / 冊子 141~142頁/原整理番号 36
宝暦十三年十二月二十九日付、記録方・記録奉行五名の連署調書。川田伊織が年頭に役職上の席で太刀を進上する一方、家格による太刀進上は養子の彦七に任せたいと願い出た件を検討する。歴代の座配と嫡子による進上の先例を挙げ、彦七が親の家格の席で進上することを認めるべきだと結論づける。
年月日未詳 / 冊子 147~154頁/原整理番号 41
伊地知季安が旧記や法令を引いて御関狩・御馬追の由緒を考証した覚書。中世の守護御狩・国廻狩と狩倉の領家分・地頭分に始まり、正月の初狩が御関狩として続いた経緯、狩場・狩人・検者の役割をたどる。慶長以降の六度狩から三度狩への変化、百姓の狩立免除と狩夫銀の負担・配分、元禄期の殺生禁止後に旧式の御関狩だけを続けた扱いも整理する。神狩・猟師狩・作喰狩などを区別し、末尾で考証の誤りがあり得ることを断る。
享保四年十二月五日 / 冊子 154~155頁/原整理番号 42
享保四年十二月五日付、記録奉行三名の連署調書。御関狩と御馬追の由来を問われ、記録所の史料と上使への返答を調べる。御関狩は毎年正月の武家の旧例で、生類憐みの禁令後も獣を撃たずに儀式を続けたと説明する。一方、関狩・馬追の起源は古老の伝承だけでは確定できず、守護の国廻狩や古い牧との関係を挙げながら史料不足を認める。
宝暦十三年二月廿二日 / 冊子 157頁/原整理番号 44
宝暦十三年二月二十二日付、安藤左平次・吉田用右衛門の連署調書。島津龍伯の譜に載る、天正四年の近衛前久の鹿児島滞在中のもてなしを書き写す。御馬追、春山の関狩、花見、歌会・連歌、馬揃、犬追物、笠懸、川遊び、寺社参詣などを列記し、別の古戦書付にも同趣旨の記事があると伝える。
年月日未詳 / 冊子 157~158頁/原整理番号 45
大村重頼の古戦書付に見える近衛前久の鹿児島下向記事。天正四年四月、前久を歌会・連歌、御馬追、御関狩、花見、馬揃、犬追物などでもてなしたと記す。前久は九州の大名間の戦いを和談させようとしたが、島津義久が同意せず帰京したとする。
年月日未詳 / 冊子 158頁/原整理番号 46
『続日本後紀』承和八年二月・三月の記事の抄録。以前から禁じられていた寺の周囲での殺生が再び広がったため、諸国司に禁制を徹底し、違反者を処罰するよう命じる。また春日大神の神山での狩猟・伐木も禁じる。季安は関狩とは別の事例として、古くから狩猟と寺社の禁域が問題になっていたことを示すために収める。
長久四年八月十一日 / 冊子 158~159頁/原整理番号 47
長久四年八月十一日付、大隅国から郡司への符。霊験ある清水蓋明寺の山内では先の符によって狩猟が禁じられているのに、なお狩りをする者がいるとして、禁制の徹底を命じる。従わない者は捕らえて取り調べると警告する。
天喜三年七月廿五日 / 冊子 159頁/原整理番号 48
天喜三年七月二十五日付、大隅国司の庁宣。清水蓋明寺の山の四至内では代々狩猟を禁じてきたが、近年これに背く者がいるため、郡司に再度の停止を命じる。違反者があれば身柄と姓名を報告させ、処罰を示唆する。末尾には季安が、狩夫銀や守護御狩・地頭狩などの関連史料も併せて抄録すると記す。
正応二年八月廿一日 / 冊子 160~161頁/原整理番号 51
正応二年八月二十一日付、守護の御狩で左手馬・右手馬を担当する者の書分。左手には惣検校の税所介、河俣大掾、祢寝郡司、佐多氏らを、右手には加治木郡司、木田大掾、小河郡司、東郷郡司らを配する。守護代僧唯道は先例に従って怠りなく勤仕するよう命じる。季安は行間注で、これを御関狩の根拠となる先例とみる。
正応二年八月廿一日 / 冊子 161~162頁/原整理番号 52
正応二年八月二十一日付、守護御狩の踏馬割当注文。惣検校の税所介に十疋、重久加賀房に四疋など、各担当者が差し出す馬の数を列挙する。先例どおりの踏馬次第とし、守護代僧唯道が怠りなく勤仕するよう命じる。
嘉永五年閏二月十八日 / 冊子 168~169頁/原整理番号 60-2
鹿屋院の惣地頭代官らによる押領と年貢抑留を列記した注文の抄録。狩倉の項では、地頭側が領家の狩りをやめさせ、狩倉跡の在家にも雑掌を関与させなかったと訴える。康元年間以降七十四年分を年五十枚、計三千七百枚の皮として算定し、複数の狩倉名を挙げる。季安は注で、この皮の算定と守護狩・地頭狩の関係を考証する。
正応二年八月廿三日 / 冊子 173~174頁/原整理番号 76
『上井覚兼日記』三月三~八日の田野御狩の記事。行司との日程調整を経て、覚兼は周辺諸所に人数を出すよう伝え、六日に田野で準備した。七日は吉利・福永・樺山などの衆と狩り、猪鹿十二、三頭を得た。八日は海江田への帰路に鹿倉で再び狩り、鹿五、六頭を得た。狩人は七日に約千人、八日に約五百人と記す。
寛永廿一年七月廿一日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 90
寛永二十一年七月二十一日付、加久藤の郷中から飯野の郷中への書状。十五~六十歳の百姓に対する年一度分の狩代銀の上納をめぐり、従来地頭狩に出ていなかった諸士の被官や神領の者を今回も除外してよいか、隣郷の扱いを問い合わせる。
天和元年九月四日 / 冊子 195~198頁/原整理番号 120
『横山慶左衛門日記』延宝八年正月の記事。十二日の春山初御狩には近在の衆中が前日から参集し、日記はこれを『御関狩』と記す。同日鹿児島で大火が起こり、筆者の家も焼失し祖母が亡くなった。後続の記事は被害・死者の報告や救済の米支給を記す。季安は行間注で『御関狩』の呼称の古例を列挙し、この年の狩りと火災を結び付けて考証する。
宝永七年二月 / 冊子 203頁/原整理番号 128
御関狩に関する日記・記録の抜書。元禄五年正月九日の春山御関狩について御名代・家老・奉行・組の担当者らを挙げ、狩場で鉄砲を使い、参加者を組分けして動員したことを記す。元禄十二年正月二十六日の吉野御関狩にも触れ、季安は城下の初狩を御関狩、外城のものを初狩と呼ぶ用例を考証する。
十一月十八日 / 冊子 216頁/原整理番号 148
『御当家由来』からの抜書。島津家が日向国の島津荘にいた時代の伝承を述べ、薩摩へ下向した後、山門院の地や瀬崎野の牧と結び付く経緯を記す。古い牧の由来を説明するために採られた記事。
年月日未詳 / 冊子 218~219頁/原整理番号 153
『島津貫忠譽日記』享禄二年の記事。春から初夏にかけての馬追や馬の世話、使者の往来を日ごとに記し、捕えた駒や牝馬を家臣らに預け、贈ったことに触れる。御馬追が実際に行われた時期と馬の配分を示す。