山田氏系図
年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
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年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、吉田若狭守に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402~403頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、樺山孝久に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
嘉吉二年十月廿五日 / 冊子 405~406頁
畠山持国が将軍家の命を奉じ、先に治罰を受けながら再び出張して島津忠国を難儀させる島津持久・高木孫三郎・市来太郎らに対し、吉田若狭守へ速やかに忠国へ合力して戦功を励むよう命じ、命令に背く者は三人と同罪とすると伝えた御教書。
嘉吉二年十月廿五日 / 冊子 406頁
沙弥徳本が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎らの再挙により島津忠国が難儀しているため、入来院弾正少弼へ直ちに忠国へ合力して戦功を励み、命令に背く者を三人と同罪とするよう伝えた御教書。
年月日未詳 / 冊子 516~517頁
鹿児島をめぐる雑説と対立が収まらず、島津相模守忠幸・薩摩守重久らが参越して拠点を築いた経過を記す。祁答院・北原長門守・菱刈孫三郎方と緊張が高まり、築城・軍勢配置と使者交渉を繰り返して、武力衝突を避けながら鹿児島支配を調整した。
年月日未詳 / 冊子 517頁
文明十七年正月十二日、一揆方との対面と修理亮忠廉の返答から、和議・契約をめぐる往復を記す。伊集院氏、北原長門守、菱刈孫三郎、祁答院氏らとの調整後、島津忠昌方は帖佐平山へ進発し、都城・鹿児島方面の情勢へ対応した。交渉から軍事行動への転換を示す。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
鹿児島方の雑説が続く中、島津忠昌を城外へ誘い出そうとする企てと和議交渉を記す。国方修理亮を介した申入れ、匠作による仲介、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らの返答を追い、条件が整わないまま諸勢が撤収するまでを示す。
年月日未詳 / 冊子 518頁
『文明記』が文明十七年の弓箭合戦の次第を記す。薩州勢が伊良山で勝利した後、祁答院・伊牟田など各地で戦闘が続き、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らをめぐる交渉と退去が進んだ。戦場の推移と諸勢力の帰属変更を連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 173頁
差出人不詳の人物が野辺讃岐守に、十三日の衝突で孫三郎らが討ち合った件について、無事であったことをめでたいと伝えた書状。本文末尾には判読困難な箇所があり、事件の具体的経過と差出人は確定できない。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久らの治罰のため島津忠国へ合力し、とりわけ島津貴久への二心ない忠節を賞して、今後も戦功を励むよう吉田若狭守へ命じた御教書。
年月日未詳 / 冊子 403~404頁
嘉吉二年以降の島津氏をめぐる動向を記し、島津持久による本田氏・山田忠尚への所領宛行、足利義勝が入来院・吉田へ持久らの討伐と島津忠国への助力を命じたこと、その後の軍事行動や持久・久照・和田正存らの盟約関係を述べる国史記事。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月一日、祁答院勢が水引城と東郷・高城方面を攻め、守護方が籠城して反撃し、攻城側を川内宮内へ退却させた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
慶長十五年閏二月廿一日 / 冊子 268~271頁
慶長十五年閏二月二十一日、新納為舟が小川内村の田畠を一筆ごとに所在地・面積・石高・耕作者名まで列記し、合計約九十石九斗余を丸田与右衛門尉らに宛てた知行目録。
元応元年十二月廿五日 / 冊子 472頁
渋谷余一入道善阿が訴える相模国寺尾村内田畠・在家以下事について、御教書案と訴状を添え、請文を提出するよう渋谷孫三郎へ命じた薩摩国守護代源貞綱の遵行状。
建武三年八月廿三日 / 冊子 671頁
薩摩国河辺郡宮村を川上孫三郎の恩給所として宛て行い、公事等は先例に従って沙汰するよう命じた島津道鑑宛行状。
建武四年四月廿二日 / 冊子 687頁
薩摩国の凶徒追討のため、島津孫三郎らに国内の地頭・御家人を催促し、軍忠を尽くすよう命じた足利直義御教書。
建武四年五月十七日 / 冊子 690頁
渋谷平次郎に、薩摩・大隅両国の凶徒追討のため島津孫三郎・大隅左京進入道らと協力し、早く発向して軍忠を尽くすよう命じた足利直義御教書。
建武四年十月二日 / 冊子 698頁
兄孫三郎範経以下の打死について、急いで京都へ注進するよう求めた川上頼久書状。
年月日未詳 / 冊子 702頁
山田氏支流の友久について、亀三郎丸・式部孫三郎・掃部助・常陸守の名乗りと系統を掲げる系図記事。
貞和六年十二月廿日 / 冊子 798頁
足利直冬が渋谷孫三郎へ、両殿の意を安んじ奉るため出陣するので、急ぎ馳せ参じ忠節を尽くすよう命じた軍勢催促状。
建武4年2月12日 / 冊子 308頁/原整理番号 119-18
建武四年二月十二日、足利直義が新田宮執印又三郎へ発給した軍勢催促状。度重なる合戦で本人と郎従らが負傷した働きを神妙と賞し、恩賞は追って沙汰すると約束したうえで、敦賀城の凶徒を誅伐するため島津孫三郎とともに戦場へ馳せ向かい、軍忠を尽くすよう命じる。『旧記雑録前編一』1899号文書と同一と注記される。
延元2年10月(1337、日欠) / 冊子 455頁/原整理番号 14-10
薩摩国指宿彦次郎入道成栄の代官・高野淡路房宗栄が、九月二十日、島津孫三郎頼久以下の『凶徒』を討つため大将が市来院へ発向した際に馳せ参じ、軍忠を尽くして敵一人を分取したと申告する延元二年十月付軍忠状。有間平次郎・山角平三郎入道・栗下宰相房の三名が戦功を見知った証人として挙げられ、宗栄はこれを根拠に恩賞を求める。
建武4年2月12日 / 冊子 664~665頁/原整理番号 154
建武四年二月十二日、足利直義が牛屎郡司左近将監に、度重なる合戦で親類・郎従に討死・負傷者が出た軍忠を認め、恩賞は追って沙汰すると告げたうえで、敦賀城の凶徒誅伐のため島津孫三郎と共に戦場へ馳せ向かい、軍忠を示すよう命じた軍勢催促状。前年四月のw9:153が肝付八郎兼重らの討伐を命じるのに対し、本状は過去の損害・軍功と新たな敦賀城攻めを一通に併記する。
建武三年十二月廿三日 / 冊子 3頁/原整理番号 163
足利直義が本田次郎左衛門尉久兼に、度々の合戦で郎従らが負傷した忠節を神妙と評価し、恩賞は追って沙汰すると伝えたうえ、敦賀津の凶徒に対して島津孫三郎とともにその城へ馳せ向かい、軍忠を尽くすよう命じた下文。建武三年十二月二十三日付。
元徳二年十一月日 / 冊子 24頁/原整理番号 225
薩摩郡延時名の交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時四郎入道、延時大夫房、東郷入道とその一族、在国司入道、山田九郎入道、白浜五郎入道、山口平四郎、大迫孫八ら、延時名に関係する人々を列記する。元徳二年十一月付。
年月日未詳 / 冊子 119頁/原整理番号 450
差出人・宛所不詳の仮名書状。十二日の夜の斬り合いで孫三郎らが討ち合いに遭ったことに触れ、無事を『めでたく候』と重ねて喜び、余事は追ってと結ぶ。年月日不詳。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 120頁/原整理番号 452
足利将軍家の意を奉じた右京大夫細川持之が野辺刑部大輔に、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下が処罰されたことを伝え、島津陸奥守貴久に合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。貴久に対して無二の忠節を示したことを神妙と評価し、今後さらに戦功を挙げるよう求める。嘉吉元年十二月十二日付。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 125頁/原整理番号 460
足利将軍家御教書。本文は『諸家系図文書』四五二号文書と同一のため省略されている。参照先No.452は、右京大夫細川持之が島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下の処罰を伝え、島津陸奥守貴久への合力・忠節と今後の戦功を野辺刑部大輔に命じたもの。嘉吉元年十二月十二日付。
年月日未詳 / 冊子 125頁/原整理番号 461
差出人・宛所不詳の仮名書状。本文は『諸家系図文書』四五〇号文書と同一のため省略され、紙背には『賢帝の文』との外題と判読不明の仮名書きがある。参照先No.450は、十二日の夜の斬り合いで孫三郎らが討ち合いに遭ったことに触れ、無事を喜ぶ内容。
文和三年九月十八日 / 冊子 259頁/原整理番号 20
島津師久が和泉庄知色彦三郎入道行覚の城を追い落とし、六月十三日に味方軍勢が入れ替わってその城を踏まえ、自らも在城したことを申告する軍忠状。鹿児島郡東福寺城に向かった弟氏久、肥後の須恵・多良木や菊池・内河らと戦う一色少輔孫三郎への合力を記す。薩州の敵勢が蜂起したため援軍を送り、合戦の次第は定孫三郎から注進するよう申し上げたと報告する。
嘉暦四年五月日 / 冊子 560~561頁
渋谷孫三郎惟重の遺領を注進した目録。相模国吉田上庄寺尾村内の田地・在家を中心に、立野、城籠村、淵脇、中里、大園、古家園など多数の小字ごとに屋敷・田畠・免田・神田を列挙し、反別・在家数・地頭分を記す。
観応二年六月十三日 / 冊子 808頁
足利直冬が島津式部孫三郎友久へ、薩摩国谷山郡山田・上別府両村地頭職を、関東・鎮西の下知と父道慶・兄忠経の譲状に任せて領掌させた下文。
文和元年十二月十二日 / 冊子 830頁
足利尊氏が島津孫三郎左衛門尉頼久に、薩摩国島津庄内加世田別府半分地頭職を大隅国桑郷東西替の軍功賞として宛行った下文。島津氏に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。
文和元年十二月廿四日 / 冊子 830頁
沙弥某が、薩摩国島津庄内加世田別府半分地頭職を当月十二日付御下文に基づき、島津孫三郎左衛門尉頼久へ沙汰付けするよう命じた施行状。島津氏に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。
建武四年四月廿三日 / 冊子 85頁/原整理番号 348
日向国凶徒の伊東藤内左衛門尉祐広・肝付兼重らの討伐で、建部清種が国富庄太田城、兼重城、石山城など各地の合戦に先懸し、城戸口で負傷するなど前年以来連日軍忠を尽くしたことを述べる軍忠状。高木孫三郎久安らが見知し、二度の自身負傷を申告する。建武四年四月廿三日付。
暦応二年八月卅日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 350
建武三年十一月の太田城着到以後、建部清種が櫛間城・新宮城・兼重城・石山城など日向国各地で合戦し、追巻・城戸口での戦闘や城攻めに先懸して二度負傷した経過を列挙した軍忠状。友永七郎澄雄・高木孫三郎久安らの見知を記し、披露を求める。暦応二年八月卅日付。
文和三年六月二十日 / 冊子 258頁/原整理番号 18
島津師久が、宅万城の没落後に薩州の敵勢が市来院伊作田城へ集まり、碇山城を攻める構えとなったため、各通路に備えたと報告する請文。畠山直顕らが日向国真幸院・大隅国下大隅郡へ進入するとの報があり、真幸院へ来れば定孫三郎の出陣に応じ、下大隅郡へ入れば後攻して合力を求めると述べる。渋谷一揆と地頭・御家人が師久とともに戦う忠節への褒賞を御教書で示すよう望み、名簿注進を添える。
文和四年六月十八日 / 冊子 261頁/原整理番号 25
島津氏久が、敵方の牛屎高光・市来氏家・東郷道義らが肥後葦北の敵勢や和泉庄政保らと合流し、四月十六日夜に父の住む山門院木牟礼城へ忍び入って戦ったことを報告する請文。兄師久がすでに注進したので重ねて詳述しないとし、翌日に畠山匠作と伊東貞綱の一族が佐殿方へ出陣したため、師久と相談して味方として合戦を始める旨を申し遣わしたと述べる。一色孫三郎の出陣と合戦の次第は追って注進すると請ける。
現行年紀:嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 130頁/原整理番号 228/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0228
嶋津持久・高木孫三郎・市来太郎以下への治罰に際し、嶋津陸奥守貴久への合力と忠節を求める。 貴久に対して無二である旨を申し出たことを神妙とし、今後さらに戦功をあげるよう仰せられた旨を伝える。
本文日付:文保二年十一月 日 / 冊子 354~355頁/原整理番号 五六一/整理ID TMP-P02-NENE4E-D0561
建部親純が佐多塚親治の代として申し立てる。 親明・信親後家分二方奈古代官孫三郎清貫等が八幡宮造営廻廊一間の修理用途を弁ぜず、惣領親治の支配に従わないと訴える。 御下知状案・大工請取状案・檜皮請取状案・難渋人等交名注文を副進する。 親明の御下知違背について罪科を求め、注文に従い公人数輩による修理用途の責渡しを求める。
年月日未詳 / 冊子 680頁
肝付兼重が石井山城・高城を拠点に島津方と戦い、清敷・祢寝氏らの攻撃を受けつつ城郭を防いだ経過を記す肝付兼重伝。兼重の出自、攻防の日付、加勢した一族・被官、後醍醐天皇方としての活動を掲げる。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の1
『平田宗直加子立曳付』所収、十一月二十二日の浦水手送状。茂兵衛尉・喜左衛門・利兵衛尉・孫左衛門を船頭として掲げ、作左衛門以下の水手を列記する。小浦から立てた合計三十一人の浦水手を受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
年月日未詳 / 冊子 488頁/原整理番号 488
伊地知季安の記事。薩摩藩家老三原重庸に従った大野内記以下の騎馬衆、家来・小兵衛らを列挙し、伊集院士四本源右衛門らを含む一行が島原へ到着した経過を記す。計四、五十人を率い、上使板倉重昌・石谷貞清らの指示で城近くへ移り、大江村北岡天神森に在陣したとする。
年月日未詳 / 冊子 489~490頁/原整理番号 490
三原重庸家臣元立院の覚書。三原家の御同心・御与力・伊集院衆・御家来など、島原へ供奉した者を役組とともに列挙する。十二月末に国元から使者として新納仁右衛門尉が派遣されたこと、遠方から来た者は元日の記事に載せることを付記する。
建武三年五月~六月 / 冊子 326~327頁/原整理番号 3の11
建武三年五月、島津貞久が背後からの肝付兼重勢の攻撃を警戒し、忠能を大将として守護代森行重らを王子城へ派遣したことを記す。重久篤兼もこれに従い、六月には島津資忠・本田久兼らと加瀬田城を攻め、肝付兼隆の退城後、その軍功が貞久へ報告された。
延宝六年五月十四日 / 冊子 168~169頁/原整理番号 125
延宝六年五月十四日の稽古犬追物「一番闌次第」。犬十五疋を放つ手組で、島津内匠一疋、島津大學三疋、種子島藏人二疋などを記し、検見を川上十郎左衛門、喚次を平山兵部左衛門とする。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。
元徳二年十一月日 / 冊子 586頁
薩摩郡延時名に属する者を列記した交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時又三郎入道、東郷入道、東郷六郎入道、同妹中左、同大夫房、在国司入道、白浜五郎入道、山田九郎入道などを掲げる。