調所敦恒伝
年月日未詳 / 冊子 838頁
調所敦恒について、大隅国代・惣検校入道尊西らのため所職・田畠を失った申立てを受け、守護代承旨の請状が出された経緯を記す伝記事。
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年月日未詳 / 冊子 838頁
調所敦恒について、大隅国代・惣検校入道尊西らのため所職・田畠を失った申立てを受け、守護代承旨の請状が出された経緯を記す伝記事。
寛政元年酉四月吉日 / 冊子 1035頁/原整理番号 2797/整理ID 2797
重豪が天明七年九月朔日に薩府を発ち、同四日に出水郷米津村の仮館へ入った際、村の長吏から、昨夜の激しい風雨と雷鳴の中で東北から光が飛来し、階に天満天神の銘を持つ鏡が現れたと聞いた由来を記す。太宰府の方角からの降臨とされ、その鏡の形状・裏文を写して新たに二鏡を鋳造し、延寿王院に頼んで飛梅の枝から尊像三体を刻ませた。飛来した鏡と像一体は家に蔵め、翌年の未の月に鏡の留まった所へ新宮を建てて新鏡一面・像一体を安置し、米津天神と称した。府城内にも一社を建て、残る新鏡と像を奉った。太宰府から天神直筆の古帖の写を求め、神剣も模製して当宮へ納めたとし、米津村の鎮守にとどまらず三国の文明の吉祥として来由を後世へ伝える。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):守邦親王治世 / 冊子 559頁/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-A029
守邦親王治世に関する、短い無番号の家譜記事。 太宰府小目代成宗の判文書一通を挙げる。 正文が家に蔵されていると記す。 「記于左」と後続掲載を予告し、記事自体には文書本文・年月日・署名を記さない。
寛政元年酉六月朔日 / 冊子 1037・1038頁/原整理番号 2804/整理ID 2804
中将が米津天満宮へ奉納する天満宮御神刀の模製一柄、御真蹟の臨写二幅、米津天満宮由来記一通、神号一通を、袋・包み・箱とともに列記する。参詣の時だけ箱から出して飾り、内宮で真蹟を掛けることが難しければそのままとし、神刀も同様に扱うよう指示する。社司が保管し、後年に粗末な扱いをしないよう入念に護ることを命じる。六月朔日付、小林中太兵衛政央・二階堂源太夫・高橋縫殿種央の三名連署。
正嘉三年二月三日 / 冊子 234頁
渋谷家譜中の記事として、幕府が九州の陸海防備を厳重にし、九州の守護・御家人らへ警固を命じたことを記す。大隅国の同国役や太宰府との関係に触れ、蒙古襲来後の防備体制を伝える。
年月日未詳 / 冊子 209~211頁
長谷場越前の回想。七月十四日に武蔵方面へ陣を移し、天拝山を経て岩屋城へ迫った島津軍の配置と、二十七日の総攻撃を詳述する。鉄砲・石火矢・弓・長刀が飛び交い、城戸口や岸壁で敵味方が入り乱れ、長谷場配下も多数の死傷者を出した。高橋紹運方の頑強な抗戦、城内突入と落城、戦後の戦功・死傷確認に加え、安楽寺・太宰府天満宮などへの参詣や筑前での行動までを載せる、攻城参加者側の具体的な戦場記録である。
天明八年季冬(十二月、末尾) / 冊子 1025頁/原整理番号 2773/整理ID 2773
天明丁未の秋、東都へ向かう前太守中将が九月三日に出水郷へ宿泊した夜、郷吏が訪れて米津村での鏡拾得を報告したという由来を記す。郷吏によれば、風雨で暗い中、東北数十里の方から一条の光が飛来して地に落ち、その鏡の背に「南無天満大自在天神」の銘があったという。村の旧天満宮は久しく荒廃し、東北には筑前太宰府があるため、神の降臨と考えて社の再建を願い、中将が許したとする。翌戊申正月に着工、十一月に完成して米津天神と称した。神像は太宰府の飛梅の枝で作り、飛来鏡の周囲・形状を模した鏡を別に鋳て神座に懸け、飛来の鏡は藩主家の宝として公宮へ収めたという。命を受けた山本正誼がこの由来を記し、天神の霊験を称えて辺境と民の安寧を祈る。末尾は天明八年季冬。
7月29日五藩留守居連名(年不記) / 冊子 407頁/原整理番号 582の1/整理ID 581-1
筑前太宰府に在留する五卿の帰京は当春の公達で命じられたが、三條實美の体調により遅れていたと届ける。今は快復していつでも帰京できるものの、長防を寛大に扱う命令が出たため、長防の処置後に帰京する順序について大隅守の意見を受け、薩邸で各藩が会合し重役も登京して協議したという。在国の藩への連絡を経なければ決め難く、各藩の急飛で連絡し、最終決定は国元で行うと申し合わせたが、海陸を隔て反復に時間を要するため、取りあえず届ける旨。末尾は七月廿九日五藩留守居連名。快復や協議の経過は届書の報告として読み、五卿の帰京が完了したとしない。
年月日未詳 / 冊子 832-834頁
文和二年を中心に九州の軍事・政治動向を日付順に詳記する島津国史記事。一色道猷の九州探題としての動向、島津氏・伊地知氏・肝付氏らの合戦と恩賞、足利尊氏・義詮の御教書、薩摩・大隅・日向の凶徒追討、太宰府・鹿児島・各城での攻防を収める。軍勢催促、注進状、感状、所領沙汰を相互に引き、諸将の進退と幕府方・宮方の勢力関係を追える編年記事。
文和二年三月五日 / 冊子 836頁
島津師久が、薩摩国で凶徒が蜂起し、太宰府・浦城合戦で味方軍勢が退いた状況を報告する。師久は城郭を守りながら戦難儀に耐え、幕府方の軍勢が帰国して兵力不足となったため、急速に御教書を下して諸勢力を催し、合力させるよう要請した請文。
年月日未詳 / 冊子 18頁
『太平記』の記事として、延文五年八月十六日夜の味坂庄周辺の合戦を記す。宮方の菊池勢が将軍方へ夜討ちをかけ、西征将軍宮も負傷し、双方に多数の戦死者を出したのち、小弐勢は太宰府、菊池勢は肥後国へ退いた。