新納忠元勲功記
年月日未詳 / 冊子 765頁
天文七年、十三歳の忠元が籠城中の志布志で領主北郷忠相らと攻防し、城を退くに際して父祖以来の家臣とともに戦った若年時の勲功を記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 765頁
天文七年、十三歳の忠元が籠城中の志布志で領主北郷忠相らと攻防し、城を退くに際して父祖以来の家臣とともに戦った若年時の勲功を記す。
天文12年3月27日 / 冊子 674~678頁/原整理番号 157-7
天文十二年三月二十七日、牛屎平次郎実元が『大平家覚書系図一通』として家の由緒を記した覚書を起点とする最終の系図記事。永禄五年に貞幸院司北原兼隆が早世した後、当家一族が忠平公へ奉公し、栗野へ移ったことを記す。後続の元秋・重綱らの条には、天正六年の日州高城での大友軍との合戦、肥前・筑州などへの出陣、義弘公の供奉、栗野・飯野・帖佐・加治木等への居住地の移動が記される。さらに元貞ら子孫の軍役や恩賞、嫁入り・養子・改名、子女の出生・没年を正徳年間まで書き継ぎ、末尾には系図の人名上の丸印と罫線が朱書であると注記する。天文十二年の実元覚書と後代の追記を一つの同時成立文書とみなさず、系図の記述として扱う。
年月日未詳 / 冊子 729頁
天文元年二月から同三年十二月までの北郷忠相方の行動を日付順に記した日記。北郷信濃守父子、山内豊前守、北原・新納・島津諸氏との使者往来・会合・饗応、神事への参列、軍勢移動、城郭の攻略・守備を連続して記し、軍事と日常政務の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 738~741頁
天文四年の政変と合戦を、新納忠勝が聞書形式で日を追って記録する。島津勝久・実久、新納・伊集院・北郷諸氏の帰属、各城の攻防、使者往来を列挙し、梅久・忠栄ら家臣の戦死と恩賞、城・所領の処置までをまとめて家中対立の実態を伝える。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):天文四年乙未五月五日 / 冊子 141頁/整理ID KW1-G000111
天文四年乙未五月五日に、島津家十四代太守勝久公が清年へ鹿児島の仮屋地と仮屋付十町を賜ったと記し、証帖を左方に載せる。
年月日未詳 / 冊子 869~873頁
北郷忠相方の天文十一年から十九年までの動きを日付順に記した長編日記。島津貴久・志和池衆・豊州島津氏・新納氏らとの使者往来、伊東方への出陣、城攻めと合戦、停戦・和議の交渉を連続して記し、庄内・日向方面の軍事外交を具体的に示す。
天文五年十二月七日 / 冊子 751頁
町田忠親の通称・系譜を掲げ、天文五年十二月七日に薩州石谷で戦死し、享年六十一であったことを記す。
天文十二年正月十八日 / 冊子 813頁
勝岡諏訪大明神について、野々三谷の知行と本所への還着、伊東代の造立、本地の奉安を記し、天文十二年正月十八日に還宮した旨を記す棟札。
天文21年正月朔日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 100
天文21年正月朔日の社参、老中による酒の持参、春山の狩、妙善寺参候などを記す古日記。伊地知越右衛門家に正本があることと、大中様御代の古日記である旨を付記する。
元弘・建武年間、天文2年(頭注:天文3年8月14日なるべし)、天文23年9月晦日 / 冊子 173~175頁/原整理番号 54
三原氏の系図。大職冠流の遠江守経重の男・経義から経俊へ続け、経義を三原兵部太夫とする一方、菊池領主将監則隆の三男または太郎経隆の四男とする異説も掲げる。後醍醐天皇から三原城を与えられた経俊が筑後国三原城に居住して氏としたと記すが、元弘・建武期の人物とすれば世代数が長すぎるとの考証注を付す。経重・為重・直重、正重・延重、朝重・正重・経由、重尭・重武・重国など多数の系線と官途を列挙する。後代の直重は藤八郎・左衛門督・入道泰安を称し、その代に初めて薩州へ下り、子孫は伊作家に仕えた。各系には枝岸・桜岸・渭釣・閑林・即心・無塵・雪領・青山などの道号・法名を付す。重秀は天文二年に永吉で戦死したとするが、頭注は天文三年甲午八月十四日であろうと訂正する。重益は日新・貴久・義久の加判に列し、法名昌安。末尾の重次は天文二十三年九月晦日に帖佐岩剣で戦死した。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
天文7年3月 / 冊子 199~201頁/原整理番号 67
巻末目録では『莫根氏系図』、本文見出しでは『莫根系図』とする系図。平良文(村岡五郎・従五位下)から忠朝・孝輔・貞道へ続き、貞道を伊作平三、源頼光四天王の一人と記す。貞言・貞元・季基・為賢、兼輔・兼重・季兼・良忠、成道・兼時、成兼以下の諸系線を展開し、河崎・神崎・山口・浜田・樋脇などの名字・居所、官途・位階・法名を添える。成綱―成友の系では鎌倉の長崎圓浄阿闍梨との関係を記し、成友以下から成行・成長・貞友、貞勝・伊成らへ分岐する。貞勝は兵部少輔で筑後にて討死、成政の子成郡は兵部少輔で隈城にて討死とする。成義は山崎八郎左衛門尉・法名浄圓、成智は豊前守で薩州から百次地頭と所領三十町を給わったと記し、成通・成清へ続く。末尾は丹波守成清が天文七年三月に百次で討死した記事で終わる。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
至徳2年12月15日、暦応4年7月27日・8月14日、文安3年、宝徳3年9月8日、嘉吉元年12月12日、寛正3年、天文17年、永禄10年、天正8年、寛永元年、寛延3年1月12日、貞享5年 / 冊子 320~324頁/原整理番号 122
市来小四郎家と次左衛門・千左衛門・左中・勘左衛門などの諸流を、慶頼王の後裔とする祖系から近世まで示す長大な系図。広言が晩年に島津忠久へ従い、その子友成が大蔵家房の娘を妻として市来郡司家へ入り、政家が父家と祖母から市来院郡司職を受けて惟宗・大蔵の二姓を兼ねた経緯を記す。氏家は歌道と蹴鞠に優れ、忠家は至徳二年の犬追物で射手を務めた。久家は幼少時に島津久豊の葬送へ従い、嘉吉元年には薩摩守持久らと島津忠国に供奉したが、後に守護島津立久へ背き、寛正三年に市来城を攻められて没落した。後代では、家保が加世田で戦死し、家永が永禄十年に市山で戦死したこと、家政が天文十七年の日新公による加世田城攻撃で御剣を持ったこと、別家の家政が竹内兵部少輔を称して竹内隠岐守の養子となったのち市来氏を再興したことなど、各流の軍功・戦死・養子・役職・法名を列記する。忠家の一支については次左衛門家系図に見えず、本宗にも忠家がいないとの異説を付記する。
12月27日(年未詳); 天文3年9月14日(傍注) / 冊子 338頁/原整理番号 130-23
十二月二十七日、薩摩国市来院伊作田名一町七反の坪付について、個々の坪付本文を「末略」として総面積だけを掲げ、池袋越後守宗政・村田越前守経定・平田右馬助清宗が連署して河上山城守へ渡した抄録。傍注は、天文三年九月十四日に大将として南郷を攻め、勝てずに討死した人物を家林かと推定する。付随系譜は平左衛門尉と二人の女子を掲げ、一人を河上越前守妻、もう一人を町田伊賀守妻とする。
天文8年霜月吉日; 永正元年・大永年間(付随系譜) / 冊子 341頁/原整理番号 130-28
天文八年霜月吉日、薩摩国市来院内伊作田名一町七反三十歩の坪付を河上次郎左衛門尉へ示した文書。忠元・本田親信・伊集院大和守忠朗を記し、忠元については「光」異本および正本では忠光との校異を付す。付随系譜は十一代河上年家が平次郎・次郎左衛門尉を称し、入道舟伴斎、法名高山道慶居士であったこと、永正元年に河上信濃守女を母として生まれ、大永年間に清水の本田某が敵対した際、年家の領する重久名を本田某が襲取したことを記す。
天文3年4月3日(系中の久礼橋討死記事) / 冊子 528~529頁/原整理番号 28
惟宗氏の宗大納言・紀中納言から忠方(若狭守)・知国へ続き、友兼・国光(筑前介)・成光(山城介)・国広(筑前介)の諸流へ分かれる執印家の古系図。国広系は忠友(民部大夫)―忠康(橋口右衛門尉)―忠久(豊後守)―忠時(大隅前司)へ続き、忠広(上総前司)・忠秀(兵衛尉)も掲げる。友兼系からは友広・友家・友久・康弘・康郷・重兼・友成・師久・光久らを出し、国分家元祖や佐包・新田宮執印などの注記を伴う。別に忠継―忠実、小嶋右衛門入道、久時―宗忠―貞久―宗久―氏久―元久―久豊―忠国―立久―武久―忠昌へ至る系線、重友(宮内允)から友郷・友雄・友弟・友令・康令・康秀・康貴らへ続く系統、政家・友氏から友繁・友豊・友俊・友孝へ分かれる市来・国分系の関係を図示する。末尾には興国寺殿玄鑑が天文3年4月3日に久礼橋で29歳にて討死した記事や、政家を市来政家とし、執印家が惟宗姓を名乗る由緒を記す。
年月日不記(系譜記事に文明19年・天文2年・永禄5・9年など) / 冊子 593~598頁/原整理番号 101
前田茂右衛門の所蔵と記す伴家系図で、天智天皇・大友皇子から伴善男らを経て、肝付と号した兼後以下の諸流をつなぎ、家族関係・官職・法名・所領・軍功を併記する。兼藤の相模国鎌倉住、兼久の鹿屋・肝付殿番代、兼光の越前守、兼続の加治木城主・高山城落城後の入部、兼勝らの山城守・左右衛門尉などの系統をたどる。後半には、兼洪が天文二年に逆心露見により誅伐された記事と遺児の記述、兼続が永禄期に松山・志布志を知行し同九年に没した記録を載せる。系線だけでなく、女子の婚姻、養子、出家、戦死や相続の経緯まで書き込む点が特徴で、前項の宝永四年御記録所提出の近代肝属氏正統系図とは別の系図である。
年月日不記(時述の天文十二年事件などを系図内に記す) / 冊子 625~626頁/原整理番号 111
種子島氏十二代武蔵守忠時の四男・出雲守時述から始まる系図。時述が天文十二年に逆意を企てて誅せられると、天文十年生まれの幼い時連は乳母に抱かれて種子島を出て国分辺に隠れ、のち島津家に仕えたと記す。後代には家久・光久への奉公、江戸での長年の勤仕と功労による三百石拝領、南郷家などとの婚姻・養子関係を載せる。時寿の跡をめぐっては、養子時定が家を辞し、寛文九年に光久の庶子松寿君を迎えたが、時寿の死後に松寿君も辞したため時章が継いだと記す。祖の処刑・幼児の避難と、後代の複数回の養子交代が家系継承の中心となっている。
年月日不記(天文九年・天正十四年・文明十七年は系図内記事) / 冊子 653頁/原整理番号 120-2
鎌田氏政年流の系図で、政年から子の政広へ続く。同三男家と注記し、政広は天文九年生まれ、山田蔵人有親の娘を母とすると記す。天正十四年の九州合戦時には和睦の使いとして上洛し、太刀と衣服を拝領したという。末尾では、鎌田氏正統に文明十七年、日州櫛間の牟田迫で戦死した尾張守政年がいるものの、その人物は政広の父・政年ではないと、同名の二人を明確に区別する。
天文十三年十一月五日 / 冊子 105頁/原整理番号 403
沙弥清本が孫又七に、大隅国祢寝院南俣内の池縁薗、馬門田・樋渡田、畠田三段、河原小薗などの重代相伝地を、本証文を添えて永代譲与した譲状。嫡子清住とその嫡子清尚の戦死を記し、次男にあたる孫又七へ譲る。天文十三年十一月五日付。
天文十三年十二月 / 冊子 105頁/原整理番号 404
沙弥清本が、軍忠を尽くした忠時の嫡子清住と、その嫡子清尚が戦死したため、嫡家伝来の文書数通を二男孫又七へ譲り、後代の異議を禁じた譲状。天文十三年十二月付。
天文十七年十一月二十一日 / 冊子 262頁/原整理番号 24の11
羽月山之門の山之神棟札写。大檀那として藤原氏猿渡備後入道実明と同兵部少輔実昌を記し、両人の子孫繁昌と諸人快楽を祈る。天文十七年十一月二十一日の年紀と、番匠為安・鍛冶家正の名を伝える。
天文七年霜月二十八日条ほか / 冊子 263~265頁/原整理番号 24の13
『貴久公御軍記』から天文七年霜月二十八日の加世田城攻撃を抄出し、猿渡筑前守らの戦功を記す。軍記・旧記・寺社記録と村山自伯家の伝承を照合し、猿渡宗阿弥の所領・奉公と、自伯家が宗阿弥流に当たるという系譜を考証する。
天文二年八月十五日 / 冊子 140~141頁/原整理番号 71
天文二年八月十五日の百手射手交名。笠岩・島津近江・島津四郎・島津孫四郎ら射手を横に並べ、丸印と十字の組合せで百手射の記録を表にする。末尾には「百」「十」の表示があり、書状ではない。
天文二年十月廿八日 / 冊子 141頁/原整理番号 72
天文二年十月二十八日の笠懸射手交名。近江守殿・四郎殿・安芸丸・本田紀伊守・島津又五郎らの射手別に黒丸と白丸を配し、欄下に数を記した図式である。
天文三年正月十六日 / 冊子 141頁/原整理番号 73
天文三年正月十六日の大的日記。島津近江守殿・島津孫四郎・島津駿河守ら射手ごとに黒丸・白丸の記号と数を示す。末尾に三度弓のときの日記である旨の記述を伴う。
天文九年十月廿一日 / 冊子 143頁/原整理番号 75
天文九年十月二十一日、伊集院での犬追物手組。三郎左衛門尉殿十二疋、相模守入道殿九疋、島津右馬守四疋などの犬数を記し、検見を島津武蔵守、喚次を本田民部少輔とする。
天文四年四月廿九日 / 冊子 289頁/原整理番号 20
天文四年卯月二十九日の神柱宮御宝殿棟札。島津御荘惣鎮守の造営・勧進を記し、藤原朝臣忠重・忠勝・久如や社頭関係者、大工・小工を列記する。
天文二年三月吉日 / 冊子 328頁/原整理番号 87
稲荷大明神の木面に記された寄進銘を収める。惣持院に関わる者の祈念と奉寄進の文言を伴い、天文二年三月吉日と記す。
天文十四年十一月二日 / 冊子 328~329頁/原整理番号 88
日州島津御庄郡本稲荷九社大明神の宝殿を再造した際の棟札を記録する。神威と氏子の安泰を祈り、天文十四年十一月二日の年月日と修造に関わる島津家の人名を記す。
(天文五年)四月廿七日 / 冊子 338~339頁/原整理番号 118
近衛尚通が島津近江守に、従来の由緒を踏まえた交誼と協力を求める。使者と書状の往復を述べ、天下の動向に触れた四月二十七日付の書状。天文五年との年次は伝来注記による。
(天文廿一年)六月廿七日 / 冊子 341頁/原整理番号 123
近衛植家が島津方との旧来の交誼に触れ、家門の事での尽力を求める。色紙三十枚を送り、返答と書状の取り次ぎを期待する天文二十一年六月二十七日付とされる書状。
(天文廿一年)六月廿七日 / 冊子 341頁/原整理番号 124
近衛植家が樺山安藝守に、前年の上洛と家門の由緒を述べ、色紙二十枚を進上して書状の取り次ぎを頼む。天文二十一年六月二十七日付とされる書状。
〔天文廿一年〕六月廿七日 / 冊子 341頁/原整理番号 125
近衛植家が嶋津又三郎に、武家の御字をめぐる相談と家門の由緒に触れ、祝儀として太刀一腰を贈る。天文二十一年六月二十七日付とされる書状。
天文11年(壬寅)12月15日 / 冊子 194頁/原整理番号 14
社家の焼失と再興に関する書付。先祖兼親の代に社家が攻められ、神宝や文書を失ったとの事情を述べ、天文十一年十二月十五日付の藤原安千代丸の名を記す。
年月日未詳 / 冊子 710頁
天文元年前後の高城をめぐる島津忠朝・忠相方と伊東・北原・祁答院・本田諸氏の争いをまとめた国史記事。各氏の系譜を参照しながら、城の守備、援軍の派遣、攻撃と退却を追い、日向・大隅境界で複数勢力が結び付きと対立を変えた経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁
天文元年、世情が不穏となるなか、島津忠良・貴久方と伊東・北原方が高城をめぐって対立した経過を記す。樺山信久・北郷忠相・島津忠朝らが城郭と交通路を確保し、敵方の進出を防ぎながら攻防を進めた。高城支配が諸勢力の同盟関係を左右したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 712頁
天文元年十月、吉利忠将とその弟大野忠友が薩州中郷松嶋で戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
島津義久の通称・官位と、天文二年二月九日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 715~716頁
天文二年三月二十九日、忠良が伊集院内南郷城を攻めた際、十四歳の忠将が従軍し、山左近を自ら討ち取ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 716頁
天文二年、遊行の他阿弥陀仏が志布志に滞在した際、新納忠勝らが和歌会を催し、その日の興趣を伝える懐紙を残した由来を記す。
年月日未詳 / 冊子 719頁
宮里孫九郎正勝が天文二年七月三日の薩摩百次合戦で太刀初めをし、その時は彦六左衛門尉と称したことを記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、勝久が日新父子を討とうとする計画を園田五藤兵衛尉が告げたため、日新が永吉で兵を集め、敵路を防いで樺山右衛門・平田左馬助らを斬った戦闘を記す。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、忠将が南郷城を守るなか、桑畑孫六・末弘伯耆守ら三百余騎が来攻したため、忠良方と討ち合って敵兵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 722頁
天文二年十二月、前非を改めた山田式部少輔が旧領復帰を請うた際、処罰を唱える意見に対して日新が漢高祖と丁公の故事を引き、後悔した者を許して領地へ戻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 723頁
伊東方の落合兼佳が高城に在城しながら北郷忠相へ内通し、天文三年正月十六日に忠相軍を潜かに招き入れたため高城を容易に奪取した。翌日、梶山・勝岡・山之口の諸城も放棄され、忠相が高城へ移った経緯を記す。