隈江匡久書状
九月七日 / 冊子 868頁
隈江匡久が贈物への謝意を述べ、因州が長く滞留している件について、詳細な知らせと今後の取り計らいを求めた書状。
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九月七日 / 冊子 868頁
隈江匡久が贈物への謝意を述べ、因州が長く滞留している件について、詳細な知らせと今後の取り計らいを求めた書状。
軍令慶応4辰五月16日、薩摩藩届も五月16日(去る朔日の戦を報告) / 冊子 565頁/原整理番号 735/整理ID 735
慶応四年辰五月十六日の軍令として、薩州・長州・因州・佐土原に府内の潜伏する残賊を警戒して市街を巡邏するよう命じる。みだりな捕縛・打捨を禁じ、見つけた場合は取締って申し出れば指揮する旨を伝える。人数は五十員から二十員までとし、それ以下の少人数を禁じる。続く五月十六日の薩摩藩届は、去る朔日の白川城攻略で討ち取った敵兵死骸を順次調べたところ合計六百八十二人になったと、現地出張の同藩からの報に基づいて届ける。人数と戦果は届書の報告として記す。
正文年月日不記 / 冊子 379~380頁/原整理番号 542の2/整理ID 542-2
長州討手を山陰道・山陽道・四国・九州の四道に分ける配置書。因州・石州・雲州の山陰勢を石見へ集め、山陽勢は安藝へ集め、後備・遊軍も列記する。四国は伊予・阿州・讃州等の諸藩を記し、九州は筑前福岡・豊前小倉中津・肥前佐賀等に、松平修理太夫・有馬・立花や他国の援軍を加える。四道の惣軍惣督は尾張中納言で、後備として加賀中納言の家老長大隅守を記す。九州は筑前国への集会と豊前国小倉へ人数を揃えて指図を待つ記載を持つ。正文年月日はなく、配置と集合指示を実際の出兵・参陣人数とは区別する。
戦闘記事五月15日、届書七月2日薩摩少将内新納嘉藤二 / 冊子 563頁/原整理番号 729/整理ID 729
太政官日誌中にある薩州藩届書写。五月十五日未明に大下馬へ集まり、西郷吉之助の指揮で命を待ち、六ツ時過ぎに湯島へ進んだと記す。小倉壮九郎の一番遊撃半隊・川路正之進らの足軽隊八十人ほどが上野正面へ、飯牟禮喜之助の大砲隊が砲五門で黒門口御徒町へ進み、鈴木武五郎・篠原冬一郎らの小銃隊等も戦ったと報じる。黒門の台場は堅く、本郷側の長州・肥前・肥後・久留米の戦闘と火箭・町家の火災を述べ、不忍池の堤側から突入した藤堂・因州勢と薩藩鈴木隊の山内戦を記す。本郷側の長州・大村・佐土原等は根岸辺でも戦い、朝六字頃から五字頃まで続き、戦死・負傷も相応あったとの江戸からの報を受けたとして、七月二日に新納嘉藤二が届ける。戦況・火災原因・死傷は届書の報告に帰属させる。
明治元辰10月3日備後の周知、先月20日辰刻出発、所収達9月11・13日等 / 冊子 608~609頁/原整理番号 783/整理ID 783
通達留。明治元辰十月三日の備後の達は、主上東幸が命じられ先月二十日辰刻に出発したと伝え、別紙八通の通り向々へ周知するよう求める。所収の行政官九月の達は、毎月十五日に辨事一人が東京で天機を伺うこと、在京諸侯は六・十六・二十六日、在国在邑の諸侯は十五日に重臣名代を禁中仮建所へ出すことを定める。在京諸侯には二十日卯刻の見立参朝と出発後十五日以内の大宮伺候、東京着輦後の禁中・大宮への伺候を求め、病気等は重臣名代を許す。公議人は一国一人を海陸の都合で東京へ送り、九月十一日の但書は十五日に飛鳥井家へ出頭するよう告げる。後続の九月十三日辨事役所の達は各国や既に東京へ出した者の取扱い、来る十四日の飛鳥井家出頭等を記す。同日の有川十右衛門の附札は、因州様衆から回状が届き、写一通と附札を差し上げるとする。各頻度・人数と予定を保持し、伺候・移動完了とはしない。
辰正月12日沙汰・参内、正月13日留守居報の付記 / 冊子 457頁/原整理番号 626/整理ID 626
薩摩少将へ積年の勤王と朝議の実行・周旋、三日以降の伏見防禦・連戦追撃を賞し、慶喜が浪華城を去ったとの報を受けた感激を述べ、剣を賜う沙汰を収める。続けて藩士の殉国戦死を憐れみ、忠魂を九原の下に慰め、遺族を厚く遇して葬礼を整えるよう命じ、金五百両を藩主へ賜って忠魂の祭祀に充てるとする。辰正月十二日の太守の参内、剣拝領・再拝・戦死人に関する再拝と夜九ツの帰殿を記す。十三日の留守居御用の報として朝廷から松平の称号を止める件、大坂鎮臺を命じられた趣、長州以下の恩賞関係の藩名を付記する。沙汰の評価、賜金目的、参内記事と取伝の付記を区別する。
寛政13年正月許可(本文) / 冊子 189~190頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0611
先に松平相摸守斉邦の妹弥姫と虎寿丸の婚約を幕府に願い、この正月に許されたと記す。相摸守には池田・因州鳥取城主、虎寿丸には島津斉興の注がある。出典は斉興公御譜中。年内改元の注を伴うが、正月の本文年次は寛政13年のまま保持し、許婚の許可を婚礼実施へ読み替えない。
辰正月8日賜物、続く委任・任命は辰正月(日不記) / 冊子 454頁/原整理番号 623/整理ID 623
連日の交戦で勝利を得たとの報告により、軍営を慰めるため酒十六挺・鰑五十束を賜う旨を辰正月八日に藝州・長州・土州・藤堂・因州・薩州の六藩へ伝える。後日の扱いも考えているので、死傷者の詳細を記しておくよう命じる。続いて追討の軍事を惣督四條前侍従へ委任し、諸藩で申し合わせ臨機の処置をすることを示す。辰正月には四国・中国の追討惣督に四條前侍従を任じる文言を二品親王嘉彰の名で収める。賜物、死傷記録、委任・任命は別の条として保持する。
第一通知三月19日、第二は辰三月(日不記)、第二は去る3月9日の戦勝を叙述 / 冊子 538~539頁/原整理番号 697/整理ID 697
第一通知は、甲州勝沼駅と武州羽丹生村で賊徒が砲銃をもって要地に拠り官軍に抗したが掃撃され、初戦が軍の気鋒を高め、その事情が天聴に達して満足されたと述べる。因州・土州・薩州・長州・大垣の名書を掲げ、さらに忠誠を尽くして早く平定するよう戦士に伝えることを求める。三月十九日、薩藩下候隊川村與十郎その他兵士への表示があり、羽丹生には羽生の注がある。第二通知は、去る三月九日に武州梁田駅で官軍が勝利し征東初度の戦で諸士が尽力したとして、さらに忠勤を励むよう一同へ伝える。武州には野州カの注があり、辰三月の東山道惣督府参謀の表示で結ぶ。戦況・賊徒の評価と褒賞は各通知の叙述として記す。
三月19日、御感状四通の内の所収一通 / 冊子 546頁/原整理番号 706/整理ID 706
「御感状四通ノ内」として一通を収める。因州・土州・薩州・長州・大垣を掲げ、甲州勝沼駅と武州羽丹生村で賊徒が砲銃をもって要地に拠り官軍に抗したが掃撃され、初戦が軍の気鋒を高めたことが天聴に達して満足されたと述べる。なお忠誠を尽くし早く賊巣を平定して御心を安んじるよう戦士に伝えることを求める。末は三月十九日。戦況・賊徒と褒賞の評価は感状の叙述として記す。
系図記事:明治元年戊辰正月3~29日 / 冊子 455~456頁/原整理番号 625/整理ID 625
忠義公系図の記事として、明治元年戊辰正月三日の鳥羽・伏見での戦闘に至る慶喜の辞職、会津・桑名等の下坂と奉行所滞在、諸藩警衛を記す。当藩の小隊・大砲隊・遊撃隊について鳥羽と伏見の配置、増援、四日の進撃、五・六日の追撃と淀・橋本方面の動き、七日の楠葉進出と諸隊の大坂下り・京都帰還を日ごとに列挙する。慶喜の江戸逃走、九日の大坂城火災、十日の仁和寺宮入坂を続ける。十二日に茂久が召されて参朝し、引用勅書で軍功を賞され、剣一口と陣亡者への金五百圓などを賜ったと記す。十五日の天皇元服とその翌日の茂久の参賀、太刀一腰・御馬代銀二十枚の献上、十八日の海陸軍務惣督任命と辞任、十九日の姫路征伐・二十一日の明石到着と姫路降伏、二十二日の帰還、二十五日の金二万両、二十九日の松平姓から本氏島津への復姓と忠義への改名を収める。評価と勝利叙述は記事に帰属し、隊番号・隊数・賜物の対象と原単位を分ける。
四月(布達伝達規則、月番表は四~十月・閏四月を含む) / 冊子 554~555頁/原整理番号 717の2/整理ID 717-2
太政官から仰せ出す布告書類の伝達規則を定める。触頭二十四藩が申し合わせ、三藩ずつ順に毎月当番を務め、布達の際は月番三藩を呼び出して書付三通を渡す。月番から触頭中へ伝え、触下へは従来どおり触頭が伝達する。毎月末に翌月の当番藩名を届けることも定める。四月の藤堂・眞田・筑前から、閏四月を含め十月までの各三藩の月番表を付す。十月の中央枠は「御」と表示する。
明治元年六月2日起頭、六月・七月の詔・帰国・援兵戦況記事 / 冊子 577~579頁/原整理番号 750/整理ID 750
御系図・忠義公から、明治元年六月二日の東海道探索・裁断委任、五日の軍装参朝・軍列叡覧と賜品を記す。親征を衆議で猶予する宸翰と先鋒への依頼、衣二領・金三万両の賜与を収め、急報により本人を見合わせ兵を仙台近海へ送る指示、八日の帰国率兵海路東行命を続ける。翌九日京都発・十一日大坂乗艦・十五日鹿児島帰着とする。援兵の十二番・私領一二番小隊等が六月十六日に常州平潟へ着いたこと、二十四日棚倉攻略、二十八日の十二番等の泉城方面進撃を部隊別に記す。七月の平潟集合、新庄・庄内方面の四番遊撃隊と長州の戦闘、秋田等の帰順で官軍勢が強まったとの記事、二十四日長岡方面の攻防、二十五日の長岡回復と新発田降伏、二十六日の三春方面進撃、二十九日の長岡・若松方面進出と二本松城攻略を収める。各部隊番号、私領・外城の別を保ち、戦況と地域政治評価は系図の叙述として記す。
八月4日~九月27日、帰還の回顧は十月初旬・6日も含む / 冊子 595~597頁/原整理番号 778/整理ID 778
忠義公の御系図。八月四日の村松城攻略、十日の忠義急上京召命、十一日の村上城攻略を記す。二十日から会津攻撃の軍議・玉井村等への進出を掲げ、二十一日の母成嶺、二十二日の猪苗代、二十三日の若松城攻撃、二十四日の外郭への退兵と持久攻撃を叙述する。羽州方面の戦況も記し、二十八日に忠義が上京の詔を受け、この時に主上東幸中の京都留守・参政・警衛を命じられたとする。同日の米沢藩降伏と上杉斉憲、二十九日の春日艦久保田港到着と庄内攻撃を記す。九月は五日の若松方面応援、十二日の関川寨、十五日の刈和野・十六日の羽州戦闘等、十八日の容保請降と二十二日の父子出降・九番小隊半隊護送を述べる。二十四日の各隊の凱旋を記し、一部の十月六日帰還や十月初旬の動きにも触れる。九月二十七日の庄内藩主酒井忠篤降伏、薩州諸隊の入城と凱旋で終わる。戦果・降伏経過と敵対語は系図側の叙述として示し、他報告との重複集計はしない。
文化6年己巳4月28日成婚・5月15日謝礼登城(系譜記事) / 冊子 311~312頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0986
斉宣公御譜中。斉宣が幕府に請い、松平相模守斉邦の妹を豊後守斉興の妻に迎えることを許されたと記す。斉邦には因州鳥取城主、妹には弥姫と称すとの注を付す。文化6年己巳夏4月28日に成婚し、5月15日、九鬼和泉守隆國が斉宣の代わりに登城して謝婚した。大家家斉へ巻物10、世子家慶へ白銀10枚、御臺所へ白銀5枚を献じて婚姻の謝意を示した。父公および斉興も使者をもって贈幣し謝したと続く。幕府の許可、婚礼日、代理登城による謝礼日、各人の贈幣を分け、巻物の単位を本文にない形で補わない。
文化7年庚午3月28日(本文生年月日)。実前年9月28日との注 / 冊子 350~351頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1088
近秘野呂中、斉彬公。世子、名斉彬、初名忠方、小字邦丸、又三郎と称し、さらに兵庫頭と改めたと記す。上段の名乗りを次頁の豊後守へ連結する。文化7年庚午3月28日、芝邸で生まれたとする本文に、実は前年9月28日との分注を付し、母は因州鳥取の松平相模守治道の女、名は弥姫と記す。本件の対外日付は3月28日で、1040・1045の2月28日とは異なる。1042の3月注とは符合するが、本件の3月を2月へ黙って変えず、本文日付と実生日注を併記する。
卯12月28日西郷吉之助署、追啓あり / 冊子 440~442頁/原整理番号 616の1/整理ID 616-1
中将の快方を喜び、徳川氏が鎮撫のため下坂した後も淀・伏見へ人数を出して不平を示すようだと述べる。尾越両侯の仲介と朝廷への弁解、辞職・領地の政務用途分に関する沙汰、正月元日を返答期限とする取扱いを伝え、朝廷の処置と後藤の議論には不同意を示す。五卿の着京、紀州側の勤王・藩内の誅戮と擯斥や政治主張、彦根や因州、肥後側の動向、議定・参与の任命を報告し、差出人の見方を交えて論じる。桂・小松両大夫も召され、国元の事情を調整して早く上京するよう望む。国の気力と朝廷への協力を保つ必要を述べ、昼夜の会議で暇がないので詳しい事情は大久保から伝えるとして、卯十二月二十八日に西郷吉之助が蓑田傳兵衛へ送る。追啓は前日の土藝長薩四藩の調練を伝える。
2月27日(申渡・拝見);去11日二条城の伝達に言及 / 冊子 347~348頁/原整理番号 496の1/整理ID 496-1
松平修理大夫への通知。松平大膳太夫父子へ詰問し、万一承服しなければ征伐するため、討手の人数を出す準備をするよう内意を伝える。阿波徳島、因州鳥取、芸州広島、肥後熊本、豊後小倉、備後福山、播州龍野、備前岡山、出羽松江の諸侯と石高を列記し、紀州和歌山の紀伊中納言を御名代、奥州会津を副将と記す。松平肥後守と有馬遠江守には諸事を受けて尽力する役割を示す。続いて、去十一日二条城に留まるよう召された太守が、老中水野和泉守・酒井雅楽頭・有馬遠江守・土井備中守らの列座する場で、長州詰問と不服時の征伐を伝えられたとの報告を収める。別紙と準備指示を承知するよう命じ、二月廿七日七ツ後の夜に、諸士一統が御対面所で拝聞した注を持つ。条件付きの計画で、各諸侯の石高を出兵数・実支出に換算しない。豊後小倉は本文表記とする。
12月28日大久保一藏署(卯12月12日後の京師事情大略) / 冊子 443~448頁/原整理番号 616の3/整理ID 616-3
卯十二月十二日後の京師事情を詳しく報告する。尾州の二条城での面談、慶喜・会桑の下坂と諸藩を離間する策との見方、武力で決する案と尾越の仲介を許す案の朝議、十三日以降の太守・岩倉・後藤らの協議を記す。慶喜への辞職と政務用途分の領地収納、公議による処置の沙汰について文言の調整を掲げ、元日から五日・七日へと変わる返答期限を伝える。外国への布令、議定・参与の追加交名、調練と御門警衛、徳川側の伏見配置や諸藩の銃兵・歩兵・大砲の聞取りも記す。紀州の国論変化や三浦久太郎・津田某の暗殺、彦根・因州・備前などの動向、加州の上京・下坂、九門内の解兵と別の守衛・巡邏、長州・徳山の参朝を報告する。朝命受容への懸念、討伐や鎮撫の見込みを差出人の立場から論じ、十二月二十八日に大久保一藏が蓑田へ送る。兵力・期日・名書の範囲を別記し、交渉案や風聞を確定した実績として扱わない。
医官派遣通知五月2日、慰労書付は五月(日不記) / 冊子 561~562頁/原整理番号 726/整理ID 726
五月二日、戦闘で負傷し病を患う者の苦痛を慰労する趣旨で、医官前田杏齋と軍曹山縣小太郎を東山道で戦う藩々へ向けて出立させる通知を収める。続く五月の戦士慰労書付は、東山道先鋒の薩州・長州・因州・彦根・土州・大垣と、東海道先鋒の薩州・長州・大村を名書する。慶喜降伏後も抵抗する者があると述べ、小山・宇都宮等の苦戦や進撃、東海道での勇戦を褒め、さらに忠勤を尽くして平定の功を奏し戦士に伝えるよう求める。海軍薩州への書付は総州姉ヶ崎辺の戦闘を記した後、以下前同文として略す。他藩への各通も略し、穗波三位殿が勅使として東海・東山道総督府の本陣へ向かい書付を渡すと末に記す。戦況と褒賞評価は通知の叙述として記す。