島津忠恒寄進状
慶長四年十月廿八日 / 冊子 465頁
島津忠恒が執印吉左衛門尉に対し、薩州郡隈城西手村の屋敷一か所と、高七十石一斗六升八合五夕のうち五十石を寄進する。当家繁栄・武運長久のため、神前で祈祷するよう命じる。
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慶長四年十月廿八日 / 冊子 465頁
島津忠恒が執印吉左衛門尉に対し、薩州郡隈城西手村の屋敷一か所と、高七十石一斗六升八合五夕のうち五十石を寄進する。当家繁栄・武運長久のため、神前で祈祷するよう命じる。
慶長六年正月廿四日 / 冊子 744頁
八幡新田宮執印吉左衛門尉の知行二百石について、各田地の坪付を列記した文書。このうち百石は京都・高麗で忠節を尽くした功による恩賞として与えられたことを記す。
閏四月廿九日 / 冊子 115頁
閏四月二十九日、新納忠元が寺沢氏との会合、馬追、招待客や随行者、宿泊・馬の手配などを岩城吉左衛門尉に相談した書状。関係者への連絡と準備を求める。
(文禄元年)正月26日 / 冊子 531頁
度重なる唐入り準備の命令を受けながら、遠島からの渡海で馬・武者などの仕立てが整わず、十分な軍備が難しい事情を記す。義久は不調法ながら義弘を出立させ、二郎夫婦を上洛させ、自身も秀吉の名護屋着座前に参着すると述べ、安宅・麻生両名に治部少輔・幽斎との取り成しを頼む。
年月日未詳 / 冊子 527頁
慶長十九年五月、広津下総守常久の家臣岩元孫兵衛が、木下藤吉左衛門と同じく主君に殉死したことを記す殉国者の記事。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津常久が慶長十九年五月二十九日、広島上山城で疱瘡により二十八歳で死去したことを記す譜。法号とともに、瀬戸口兵右衛門・岩本孫兵衛・木下藤吉左衛門が殉死したことを載せる。
「寛永十八年」十二月廿六日 / 冊子 181~183頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、九州巡回上使の松田善右衛門・蒔田数馬・曽川喜左衛門を迎えるため、国絵図を持参して経路や宿所を協議した結果を報告した連署書状。上使は江戸を正月二十三日に出立し、細島・佐土原・飫肥・志布志・肝付・根占・佐多・種子島・屋久島・永良部島・山川などを巡る見込みで、渡海船・水主・供人数・宿所・賄い・案内人を整え、天候や海上事情に応じた代替経路を準備するよう指示している。追記には、十二月二十六日付の書状が翌年正月十八日に御道具衆によって届けられ、飛脚が立山吉左衛門・末原甚左衛門であったことを記す。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
嘉永四年十二月廿八日 / 冊子 510頁
長州から肥後熊本の商人入場定之丞の家に伝わった島津義弘筆の豊臣秀頼宛返書を鮫島吉左衛門が取り次ぎ、島津家の用に供した経緯を記す。掛物として表装したまま御記録所で厳重に保存するよう命じた達書。
(天正16年)6月6日 / 冊子 395~397頁
義弘が上洛航海を又八郎へ詳しく報告する。日向出帆後、豊後佐伯・蒲江付近から瀬戸内海にかけて暴風雨に遭い、島陰や港で幾度も待避した。 船頭・水先案内の判断、潮待ち、塩飽島・家島・坂越・堺への航路に加え、船中の恐怖、神仏への祈り、各地の見聞まで生々しく記す。戦国武将の海上旅行と航海信仰を知る長文の私信。
慶長五年十二月十八日 / 冊子 724頁
入来院恒吉(弓市)が、慶長四年十二月から慶長五年十一月までの使者往来と魚塩荷物の通過を条々に記した覚書。大童仁兵衛らの使者、魚塩七十荷・七荷の輸送、加久藤衆などの動きを記し、鹿児島へ提出したうえ湯尾に控えを置いた。
慶長十二年閏四月廿九日 / 冊子 225~226頁/原整理番号 164
新納家に伝わる四月十九日付の書状。馬追の見物客や同行者の参会、馬の借用・調達をめぐる相談を記す。取駒のうち良い馬を与えることや、客の接待・座次にも触れる。
正保三年四月二日 / 冊子 250頁/原整理番号 186
四月二日付の書状抄。寺沢殿への応対と御馬追に触れ、馬の用立てを相談する。大月毛の馬を借りたいという依頼を伝える。
(慶応二年)三月廿九日 / 冊子 7頁/原整理番号 8-2
伊作の奥頭重信吉左衛門が伊地知小十郎へ、大汝八幡社の宝殿内に龍伯進納の母衣一掛と赤地・青地の二重の錦袋が保管されていることを改めて確かめたと届ける。近く役人が出府する際に持参して差し出す予定を述べる三月二十九日付の返答で、四月一日夕刻の到着記録が付く。
年月日未詳 / 冊子 920頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2496
使者が近藤吉左衛門宅で、光久が十一月二十九日に死去したこと、太守からの書状を届けたこと、幕府への届出について指図を求めることなどを申し述べた口上覚。
十二月(上包は安永元年辰十二月十九日・目録は明和九年) / 冊子 338頁/原整理番号 955/整理ID 955
嶋津加賀守の妾腹の男子直江が新家に取り立てられ、知行百石を与えられたことを記す。番頭格を望んだことは認められ、家号・実名の見合い、紋所絵形の使用についても淡路守から願いが出され、江府で伝えられて別紙のとおりに命じられたと御記録奉行へ知らせる。先月十三日、彼方の家老名代伊集院吉左衛門を呼び、佐久間九右衛門を介して渡し、紋所絵形・願書等を返却し、淡路守へは左中から書状で知らせたという。別紙の写を渡すので、後年の見合いのため記録しておくよう求める。本文は十二月付、帯刀の名に小松清香との注がある。上包には安永元年辰十二月十九日、帯刀から御記録奉行へ渡した旨があるという。
現地届五月26・18日、転送届はいずれも七月2日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 737/整理ID 737
太政官日誌中の薩州藩届写二件を収める。五月二十六日の届は、昨二十五日に二番・四番半隊と大垣・長州各二十人を大田川宿へ探索に出し、仙台側約百人を撃退して再屯集を防ぐため焼き払い、夕七時に白川へ引き取ったと報じる。二番隊東郷助之丞の戦死、四番隊堅山荘八の深手を記し、七月二日に新納嘉藤二が現地からの別紙を転送する。もう一件は五月十八日、島津式部の届で、昨十七日三字頃から大谷地村方面で二番・四番・足軽隊と大垣・土州が攻め、五字過ぎに相手が退き六字過ぎに引き揚げたとする。白川の要所を焼き払い、大谷地村の戦で十五六人位の死骸、ほかの山中の戦で四斤半大砲一挺と弾薬を分捕り、敵千人ほどがいたとの報を記す。浅手の西吉左衛門・美坂彦八、深手の松崎寛次を掲げ、これも七月二日に新納が届ける。戦況・死傷・概数は各届の報告として示す。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
元禄十三年十月十日 / 冊子 241頁/整理ID 822
喜入久亮・種子島久時・肝付久兼が延岡の戸村惣右衛門・久見崎吉左衛門へ、諸国絵図改訂に伴い、中川因幡守方から江戸の薩摩藩留守居へ届いた日向・豊後国境絵図と添付書類を使者に持参させたと通知した連署書状。詳しくは使者の口上で伝えるとする。
元禄十三年十月二十四日 / 冊子 245–246頁/整理ID 833
種子島久時・肝付久兼が延岡の戸村惣右衛門・久見崎吉左衛門・伴浅右衛門へ、日向・豊後国境絵図に関する返書を江戸留守居へ送ると答えた連署書状。指宿郡の船頭が難風で破船した際、延岡領尾末村の番人や村人が世話をしたことについて、関係者への礼を取り次いだ相手方の配慮にも謝意を述べる。
元禄十五年十一月二十三日 / 冊子 394–395頁/整理ID 1334
島津久明・久輝・久珍・久重が連署して戸村惣右衛門・九津見吉左衛門へ、江戸で調製を終えた日向国絵図の控を各担当者へ書き写して渡すと伝えた達書。領内分の絵図が広く年内に調わない場合は、翌春まで引き延ばして渡してよいと指示する。
(貞享三年)八月廿一日 / 冊子 780頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2032
伊勢貞以が、大久保加賀守からの返事として、島津久寿家来の出入について使者の口上を承知したこと、大隅守からの使者を待つので直ちに重ねて報告する必要はなく、詳報到着後に改めて届ける旨を記した覚書。
(貞享三年)十月廿六日 / 冊子 784頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2049
伊勢貞以が、大久保忠朝から松木左門と二男・三男の処置について直接相談を受け、三郎五郎・村上三太夫の佐土原での逆意を踏まえ切腹を命じる内意を承知し、当面は三人を従来どおり拘置して中将へ伝えるよう求められた経過を記した口上覚書。
(元禄二年)十月十日 / 冊子 843頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2238
赤松則茂が、中将の帰国御礼使に関し、老中への献上物・目録・口上書・先例書付の提出、連署衆への書状、使者の礼服・時服・献上品、登城と御目見の手順を記した覚書。
(元禄九年)三月九日 / 冊子 952頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2616
禰寝清賢が、島津中務久輝の御目見願について大久保忠朝方へ書付を提出した経過、由緒書・先例・参府付上使との関係をめぐる幕府側の吟味と書付調整、差図書の扱いを記した覚書。
元禄十五年十二月二日 / 冊子 396–397頁/整理ID 1339
戸村愛忠と九津見定春が連署して島津大蔵ら四名へ、江戸で調製を終えた日向国絵図の控を各担当者に書写させ、翌春にこちらへ渡すとの通知を了承した書状。その内容を関係者へ伝えたと報告する。
正保四年七月四日 / 冊子 459頁/原整理番号 577
以前に異国の漂流船が来たのを披露せず留め置いたことはないかとの尋ねに対し、浦中の者へ繰り返し申し聞かせたが、津浦はもちろん海上でも見かけた事実はないと証言する。申告に相違があれば処罰を受けるとして後証のため提出する。
年月日未詳 / 冊子 581~582頁/原整理番号 613
久永吉左衛門らが家僕を率いて船で小湊へ回り、加世田・谷山・鹿籠など各地の従軍者を乗せて米之津へ向かった経過を記す。各船の人数と指揮者を列挙し、十一日の到着までを追う。
寛永十八年十一月四日 / 冊子 169~170頁
佐多門弥ら十二名が、召し出された際には命令に従い、内密の事柄を漏らさず、徒党や企てに与せず、不正を知れば申し上げ、親類・縁者をえこひいきしないことなどを誓った連署起請文。違背した場合には梵天・帝釈、国内諸神、熊野権現ほか多数の神仏の罰を受けるとする。
元禄十六年二月十一日 / 冊子 413–414頁/整理ID 1402
伴良錦・九津見定春・戸村愛忠が嶋津大蔵ら六名へ、三浦壱岐守領分の控絵図を渡すとの先の命令について、今回絵図方役人へ使者をもって申し入れたので、適切に引き渡すよう命じてほしいと頼む。二月十一日付。
文政5年12月15日(末尾年は朱注) / 冊子 642~643頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1897
十二月十五日、吹上御庭拝見が滞りなく済んだ内祝として、亀之甲舞台で能を催し、有馬玄蕃・水野甲斐(忠実注)・有馬臺作を招いた記録。能組には岩船・俊成忠度・綾鼓・船弁慶・海士・乱を挙げ、虎之助・又三郎・玄蕃頭・桃次郎・甲斐守・豊後守などの名を各曲の下に配列し、狂言・間として末廣・宗八・福の神および船弁慶間の幸之助を記す。「乱」の欄には溪山の名がある。囃子方や地謡等に当たる名列もあり、曲ごとに出演者の名列を添える。夕暮れまで無事に済み、赤羽からの供頭へ初めて見せ、装束所に二、三人が来たため甲斐の仕なども一緒に見せたと結ぶ。名列の役割の細分と、卯太郎・覺次郎と読める二名の第一字は未確定。この記録の十二月十五日と、次の贈答覚書の十月十五日とは月が異なる。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁/原整理番号 371
『平田宗直船賦留』所収の出船指示。十三端帆三艘・十一端帆二艘・十端帆一艘・六端帆一艘の船頭・水手数と上乗を列記する。鹿児島町太兵衛尉の六端帆船は大坂への商買帰りに片浦へ来ており、他の運賃船も上米の積込を終えながら順風がなく滞在していると説明する。天草出兵の人衆乗船として米を積んだまま出水へ出すこと、残る運賃船にも同様に出船を命ずることを記す。
年月日未詳 / 冊子 703~704頁/原整理番号 733
国分士杢田十左衛門家蔵の島原出陣人数賦。町田甲斐守以下、各人の主従人数と鉄砲・鑓・弓・具足、鍬・斧などの携行品を列記する。末尾に合85人(うち18人自身立)、合134人披官と記し、杢田十左衛門景親に請うて採録したと結ぶ。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
寛文3年6月19日、寛文3年1月18日、延宝6年2月15日、元禄2年3月6日、享保3年9月、享保17年閏5月23日、元禄5年4月20日、享保3年11月24日、享保8年11月8日、元文3年8月20日、宝暦13年4月25日、明和元年8月、安永7年7月8日、延享3年4月16日、宝暦10年8月28日、安永8年10月14日、寛政3年8月、寛政12年12月10日、明和7年7月1日、天明3年12月13日、享和元年4月24日・12月1日、文化3年9月4日、寛政5年11月16日、文化3年6月28日 / 冊子 314~317頁/原整理番号 119-37
寛文三年六月十九日、新田社家の権執印・大検校・千儀が肝付伴兵衛兼屋へ連署して提出した請文。執印休左衛門との相論で、休左衛門は新田社家の主取を前々から一人で務めてきたと主張し、三名は休左衛門と同役で諸事を勤めてきたと主張したが、双方の口上と古来所持する証文が吟味され、休左衛門に理があると裁許されたため、以後はその下知に従い難渋しないと請け合い、この旨をしかるべく上申するよう求める。付随系譜は第十八代友幸から友賢までを掲げ、友幸の島津綱貴への御目見・継目御礼・新番参勤供奉、友為・友中・友宗がそれぞれ太守へ太刀一腰・馬一疋を献じて御目見または祭祀継承の恩を受けたこと、友為・友中・友宗が指付新番として琉人を江戸へ護送したことなどを記す。
(慶応二年)四月朔日 / 冊子 7~8頁/原整理番号 8-3
伊作の寺社方掛・組頭が、龍伯進納の母衣一掛を赤地・青地の錦袋とその外側のなめし皮袋に入れ、郷役出府の便で伊地知小十郎の宅へ届けたと報告する。四月朔日付で、同月二日に伊地知が受け取り、請取書を置いた旨の付記がある。
元禄十四年七月六日 / 冊子 318–319頁/整理ID 1041
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美・宇宿久明が嶋主計(忠雄傍注)と与力衆へ、嶋津式部少輔(久寿傍注)・同氏主税(久武傍注)が分知後に判物や知行書出などを受けたかとの照会に答える。自分たちは承知せず、念のため主税役人の和田吉左衛門を呼んで尋ねると、式部少輔・主税方でその種の文書を受けたことはなく、近頃のことは知らないとの回答だったと報告する。
年月日未詳 / 冊子 17頁
島津光久が家督後初めて帰国を許された際、北郷久加が礼使として江戸城へ赴き、単衣四領を拝領して帰国したことを記す譜記事。久加は江戸滞在中に伊集院地頭職へ補任され、北郷吉左衛門忠盈が随行した。
正保二年十一月 / 冊子 30~31頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0049
北郷久加が暇を賜って帰国し、御物奉行として諸役を総括する命と御条書を受け、北郷吉左衛門忠郷を伴って下向した記事。