肝付兼重伝
年月日未詳 / 冊子 661頁
肝付兼重方の軍勢と足利尊氏方の戦いを記す伝。牛屎彦太郎兼隆が兵を率いて加世田城を攻め、公師兵を入れて肝付勢を隔て、条原孫六・大隅助三郎・冨光九郎らを派遣して加世田城・姫木城等を攻略した経過と、軍勢催促・恩賞を述べる。
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年月日未詳 / 冊子 661頁
肝付兼重方の軍勢と足利尊氏方の戦いを記す伝。牛屎彦太郎兼隆が兵を率いて加世田城を攻め、公師兵を入れて肝付勢を隔て、条原孫六・大隅助三郎・冨光九郎らを派遣して加世田城・姫木城等を攻略した経過と、軍勢催促・恩賞を述べる。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
建武三年三月廿九日以降、尊氏方が牛屎彦太郎兼隆らを加世田城へ向け、四月十四日に島津貞久が重久篤兼へ薩摩・大隅の警固と悪党鎮圧を命じた経過を記す重久篤兼譜。篤兼が軍勢を派遣し、尊氏から恩賞・感状を受けたことを述べる。
建武三年五月廿七日 / 冊子 666頁
大隅国肝付郡加世田城の水手を夜討ちで先駆けて攻め落とした軍功を賞し、野上田伊与房を百引村地頭代官職に補任して、先例どおり沙汰するよう命じた島津道鑑宛行状。
建武三年六月日 / 冊子 667頁
大隅式部諸三郎忠能が御教書を受けて下国し、島津左京進入道道恵を大手大将として加世田城を攻めた軍忠状。五月六日から六月十日まで日夜合戦し、捨身命で戦ったことを述べ、注進・披露と恩賞を求める。
建武三年六月日 / 冊子 668頁
薩摩国牛屎院の篠原孫六国道が、肝付兼重以下の凶徒追討で五月六日から六月十日まで加世田城に馳向し、日夜合戦・軍忠を尽くしたことを述べ、注進・披露と恩賞を求めた軍忠状。
建武三年六月日 / 冊子 668頁
薩摩国御家人和泉杉三郎入道道悟が、五月七日の大隅国肝付郡加世田城大手城戸口合戦で相具した子息らと先懸し、子息弥三郎保有が射疵を負うなどの軍忠を報告した軍忠状。注進・披露と恩賞を求める。
建武三年六月日 / 冊子 669頁
新田宮権執印良遍の子息三郎次郎俊正が、肝付兼重与党追討で五月六日から六月十日まで前野頭・加世田城等に参陣し、焼払・合戦・追撃に軍忠を尽くしたことを述べ、注進・披露と恩賞を求めた軍忠状。
建武四年四月日 / 冊子 686~687頁
和泉杉三郎入道道悟が、大隅国加世田城・野崎城の合戦で軍忠を尽くしたことを申告した軍忠状。二月二日の野崎合戦で旗差・子息が射傷を負い、三月二日の大手攻めで弟が射られ、同十四日の夜襲、同十五日の城内突入にも参加したとして、証人・負傷者を挙げて見知と披露を求める。
天文七年霜月二十八日条ほか / 冊子 263~265頁/原整理番号 24の13
『貴久公御軍記』から天文七年霜月二十八日の加世田城攻撃を抄出し、猿渡筑前守らの戦功を記す。軍記・旧記・寺社記録と村山自伯家の伝承を照合し、猿渡宗阿弥の所領・奉公と、自伯家が宗阿弥流に当たるという系譜を考証する。
建武三年六月日 / 冊子 667頁
肝付兼重以下の凶徒追討に関する、延時法仏の軍忠状。財部延時氏所蔵の正文として掲げられるが、本文は省略される。
建武三年六月日 / 冊子 668~669頁
大隅国祢寝弥次郎清種が、祢寝内見和村名主職の安堵を求めた申状。見和村は養父佐多孫四郎親政の重代相伝地で、譲与・手継状と島津判官忠久の施行を根拠に知行してきたと述べる。越尾張左近大夫代肥後次郎入道浄心らによる関東権威を背景とした押領を訴え、所領回復と厳密な裁許を求める。
建武三年六月十八日 / 冊子 670頁
No.1865と同文であるため本文を省略した、小根占池端氏所蔵の祢寝清忠軍忠状。
巻一/冊子 6~7頁
天文五年、忠良父子が伊集院攻略を進め、伊集院大和守を将として大田原の塁を襲い、神殿・石谷・竹山などの拠点を相次いで服属させた。雨中の進軍時に火光のような瑞兆が現れ、稲荷大明神の加護と解釈されたことも記す。実久勢は鹿児島・谷山から川辺方面へ退き、忠良は実久と会見して、伊集院・鹿児島・谷山と加世田・川辺の交換による和睦を提案したが、実久は応じず、祁答院らと再び謀略を構えた。天文七年、忠良父子は蜘蛛の瑞を得て加世田へ出陣し、本城を急攻して落とし、新城も激戦の末に攻略した。富松左京亮・大山宮内少輔・阿多飛騨守ら実久方の戦死者と、市来備前守ら忠良方の戦死者を列挙し、忠良の祖父久逸が戦死した地で宿怨を晴らした戦いとして位置づける。
年月日未詳 / 冊子 663~664頁
肝付兼重方と尊氏・島津方の建武三年五月以降の戦闘を記す伝。加世田城・姫木城・岩戸原・石城等で、島津貞久、条原孫六国道、莫祢次郎太郎政長、伊集院・平田・祢寝・石河内氏らが攻城・救援・追撃を重ね、被疵・戦死・城郭奪取に至った経過を日付順に述べる。
年月日未詳 / 冊子 805-806頁
肝付秋兼について、足利直冬の九州下向と畠山直顕らの動向を背景に、秋兼・兼重、祢寝清種・清増らが大姶良城・加世田城・高熊城などで戦った経過を詳記する。各城の攻防、討死・負傷、領地回復、一族の軍忠を月日順に記した系譜記事。
観応二年八月日 / 冊子 810-811頁
祢寝清種が、建武三年以来、大隅・日向・薩摩で御方に属して戦った軍忠を月日順に詳記する。肝付郡加世田城、大姶良城、鹿屋院高熊城、庄内・日州方面の攻防、同行した一族・従者、落城・退治、負傷・討死者を列挙し、証判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 484~485頁
文明八年以後の薩摩・大隅・日向三州の軍事情勢を記す。清水・曽於郡勢による宮内・東郷攻撃に対して島津久逸・伯耆守豊久・新納忠続・北郷敏久らが反撃し、加世田城・都城をめぐって出陣・攻城・退却を重ねた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 576~577頁
明応九年、後土御門天皇崩御と後柏原天皇践祚の年に起きた島津一族の争いを記す。島津忠興が加世田城の忠福を攻め、伊作久逸が救援に向かったが敗北し、園田新左衛門に討たれた。中央の皇位継承と加世田をめぐる軍事衝突を同年記事として収録する。
年月日未詳 / 冊子 577頁
明応九年十一月十一日の加世田城攻防で、伊作河内守久逸が島津忠福を救援して戦死し、枕崎右衛門祐能・松元左近将監久賢らも同時に討死したことを記す殉国記事。
年月日未詳 / 冊子 578頁
島津久逸が島津忠興と島津忠福の加世田城争いで忠福方に加勢し、明応九年十一月十一日に六十一歳で戦死し、善勝寺殿徳瑠輝公と追号されたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 578~579頁
大田氏系図により、忠福が加世田城で島津忠興の攻撃を受け、伊作河内守久逸の来援を得て抗戦したものの、久逸の戦死後に窮地へ陥った経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
日新斎が実久領の加世田城を攻めた際、忠将が将帥として指揮し、自ら大敵へ馬を進めて奮戦したため敵兵が敗走し城が陥落したこと、追撃と味方の戦死者を記す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
島津勝久の鹿児島帰還後の政情と家臣処罰を背景に、忠良方が加世田城を攻めた経過を記す覚書。島津貴久・忠将、鎌田加賀守らが城内へ攻め込み、敵兵を追撃した一方、味方武士も戦死した。攻城の進路、城内戦、追撃までを当事者の記憶に基づいて伝える。
年月日未詳 / 冊子 324頁
伊集院氏支流飛松氏の系図抄。久友(富松左京亮)以下の系譜を掲げ、島津忠良から富松左京亮・野村兵部少輔へ与えられた契状を収める。また加世田城攻めに先立ち久友が島津実久方の大山宮内少輔と刺し違えて戦死したこと、落城時にも猿渡氏と市来氏が刺し違え、両者の墓が城門左右に「富松猿渡墓」として残ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 633~634頁
新納友義以下の加世田・市来系譜。忠澄が伊作久逸に従い、幼い島津忠良の後見として田布施へ移ったこと、康久が田尻荒兵衛の案内で加世田城攻略に功を立て地頭職を得たこと、市来で渋谷氏勢力と戦ったこと、久韓以下の家系を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 125~136頁/原整理番号 26
『吉富氏系図写』の中表紙に続き、頴娃三郎忠長の六男・薩摩六郎忠直を祖として、薩摩氏吉富流の諸家を近世後期まで展開する系図。薩摩郡本地頭、串木野若松・吉富名・羽島などの知行、加世田城・日州飯野・関ヶ原・目白坂等での軍役と戦死、朝鮮出兵・琉球渡海、加治木・帖佐・平松・蒲生・高岡への移住と奉公を記す。各代の通称・官途・入道名、妻の出自、養子・分家・家督相続、出生没年・法名・墓所のほか、御右筆、糺明奉行、物奉行、山奉行、高奉行、小番、進物番、横目、勘定方小頭、代官など近世の役歴を詳載する。本文は冊子p136で終わり、後続2頁の『諸家系図 三』表紙・収録氏名一覧は本系図に含まれない。
年月日未詳 / 冊子 137~145頁/原整理番号 27
『税所氏系図 大隅曽於郡系図』と題し、光孝天皇―宇多法皇―敦実親王―篤房以下を祖系として税所氏諸流を展開する系図。篤房流が天暦九年に藤原姓を給わったとの伝承、治安元年の大隅国曽於への配流、曽於御館・坂上御館を起点とする家系を記す。税所職、押領使職、大隅国大介・国大専当、曽於郡司、止上大宮司、惣検校、厚智山座主等の職掌と、曽於郡重富・重枝・重武・中津川・松永・栗野院恒次、薩摩国満家院、牛屎郡金波多村、山門院菓成河などの所領を列記する。源平争乱・和田合戦での忠節と戦傷、加世田城・横川での戦死、琉球地頭、大坂出陣などの軍歴、婚姻・養子・出家・法名・家督相続も収め、篤元ら近世の子孫へ至る。
建武3年6月 / 冊子 252頁/原整理番号 88
建武三年六月、薩摩国御家人の和泉杉三郎入道道悟が、軍忠の注進と恩賞を求めた軍忠状。五月七日の大隅国肝付郡加世田城大手城戸口合戦では子息らを率いて一番に先懸けし、堀口へ攻め寄せて逆迎えを切り払い、子息弥三郎保右が左股を射抜かれた。翌八日の合戦では旗差六郎丸が左小肘を射られ、島津六郎、山野彦四郎入道道井、伊作田兵部丞が軍忠を見知し、二十三日の野崎懸合戦でも奮戦したとして、島津貞久が「承了」の判を据える。
建武4年4月 / 冊子 252~253頁/原整理番号 90
建武四年四月、薩摩国の和泉杉三郎入道道悟が、大隅国加世田城・野崎城合戦で重ねた軍忠に対する恩賞を求めた軍忠状。前年三月、将軍家の鎮西下向に際して大宰府へ馳参し、肝付八郎兼重以下の凶徒誅伐を命じる御教書を受けて島津上総入道道鑑に属し、五月六日に加世田城へ押し寄せ、七日には子息らを率いて大手城戸口へ最前に攻め、逆迎えの敵を切り払った。この時、子息弥三郎保右が左股を射抜かれ、翌八日には旗差六郎丸が左小肘を射られ、二十三日の野崎懸合戦でも戦って両城を追い落としたと述べる。軍忠は島津六郎・山野彦四郎入道・伊作田兵部丞が見知し、道鑑の一見状でも明白であるとして、建武三年三月二十八日の将軍家御教書と同年六月の道鑑一見状を副進し、度々の軍忠に任せて恩賞に浴し弓箭の面目を施したいと訴える。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
至徳2年12月15日、暦応4年7月27日・8月14日、文安3年、宝徳3年9月8日、嘉吉元年12月12日、寛正3年、天文17年、永禄10年、天正8年、寛永元年、寛延3年1月12日、貞享5年 / 冊子 320~324頁/原整理番号 122
市来小四郎家と次左衛門・千左衛門・左中・勘左衛門などの諸流を、慶頼王の後裔とする祖系から近世まで示す長大な系図。広言が晩年に島津忠久へ従い、その子友成が大蔵家房の娘を妻として市来郡司家へ入り、政家が父家と祖母から市来院郡司職を受けて惟宗・大蔵の二姓を兼ねた経緯を記す。氏家は歌道と蹴鞠に優れ、忠家は至徳二年の犬追物で射手を務めた。久家は幼少時に島津久豊の葬送へ従い、嘉吉元年には薩摩守持久らと島津忠国に供奉したが、後に守護島津立久へ背き、寛正三年に市来城を攻められて没落した。後代では、家保が加世田で戦死し、家永が永禄十年に市山で戦死したこと、家政が天文十七年の日新公による加世田城攻撃で御剣を持ったこと、別家の家政が竹内兵部少輔を称して竹内隠岐守の養子となったのち市来氏を再興したことなど、各流の軍功・戦死・養子・役職・法名を列記する。忠家の一支については次左衛門家系図に見えず、本宗にも忠家がいないとの異説を付記する。
元弘3年~正徳5年(系中) / 冊子 532~546頁/原整理番号 29-1
惟宗姓市来氏について、政家・家房から近世の政香・政武らへ至る系譜と家伝を収めた長大な記録。冒頭で市来院郡司・郡司職、母方の大蔵氏、国分・河上・橋口・角・河俣など諸流との関係を示す一方、政家の出自や市来院郡司職の伝承は諸家系図・注進文書だけでは確証できないとして異説を検討する。元弘3年には家親が渋谷・相良両家と結んで植松城を拠点に戦い、伊作大隅守勝久らとの市来院争奪では射戦・城攻め・訴訟・所領処分を重ねたとする。至徳2年には氏久が久豊へ追物射を命じた際、市来右京亮が射手を務め、のち筑前博多へ派遣された記事がある。家清は文明7年に大明神社を再興し、家保は天文7年12月29日に加世田城を守って今泉川で戦死、家利も加世田城防衛で大軍と戦い、西原川窪の奮戦で味方を退かせたと記す。文太郎忠辰は文禄元年から朝鮮へ従軍し、家尚は弓馬・飛弾・連歌・書画に通じ、久豊以来の家伝や国老衆の譜牒を調査して著述を残した。近世部分は家幸・家通・家親らの御目付・小姓・地頭職、知行・扶持、江戸・国元奉公、寺院葬送、改名・家督、複数の妻子・養子・分家を詳細に記し、記録館・史館勤務や文書編纂に携わった政香、家督と家名を継いだ政武までを載せる。
観応二年八月日 / 冊子 87~88頁/原整理番号 355
祢寝弥次郎清種が、建武三年以来、大隅・日向・薩摩各地で戦い負傷した軍忠を列挙した軍忠状。大姶良城、鷹栖城、加世田城などで敵勢と合戦し、島津田三位房・饗庭九郎らの軍勢とともに攻城した経過や、志布志への発向を述べ、一見状と恩賞を求める。観応二年八月日付。
建武三年三月二十九日・四月十四日 / 冊子 326頁/原整理番号 3の9
建武三年三月二十九日、足利尊氏が島津貞久に教書を与えて大隅・薩摩の警固を命じたことを記す。四月、肝付兼隆らが加世田城に拠って新田義貞方に属したため、十四日に島津貞久が重久篤兼へ速やかな出兵と討伐を命じた。
現行年紀:觀應貳年五月廿三日 / 冊子 54頁/原整理番号 73/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0073
加世田城が没落の時期を迎えたところ、敵が後攻のため陣を取ったとの報告を伝える。 合戦と「以助藤所被仰合也」に触れ、武略を尽くして静謐をもたらすよう求める。 祢寢孫二郎殿に軍忠を求める催促状。
発給/言上年紀:觀應貳年八月 日 / 冊子 457頁/原整理番号 七〇三/整理ID TMP-P03-IKEHATA-GOSHOHAN-D0703
建武三年以来、御方として隅州・日州・薩州の合戦で度々被疵したと申す。 頼仲らに対する大姶良城・加世田城・高熊城などの合戦を列挙する。 夜襲・攻落・始良庄での合戦・志布志御発向への供奉を記す。 連続した軍忠を御披露するよう求め、承了の証判を伴う。
年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
年月日未詳 / 冊子 762~763頁
天文七年十二月晦日、日新公が軍勢を招集して加世田攻めを告げ、父子三人と選抜した兵が夜襲を敢行したことを記す。狐火を頼りに城壁へ密進し、激戦の末に新城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 767~769頁
天文八年の加世田・新城をめぐる攻防を諸譜から集成した国史記事。本丸への進攻、城兵の反撃、救援と追撃、双方の戦死者を記し、新納康久・鎌田政真らの動向を追う。さらに伊集院忠朗方の蜂起と忠良・貴久方の反攻へ続き、城の奪回をめぐる連続戦を示す。
目録年月日記載なし / 冊子 521~522頁/原整理番号 64
元亀二年六月二十三日付の祭文を記し、三州太守・守護や加世田城を挙げてその事績をたたえる。
目録年月日記載なし / 冊子 522~523頁/原整理番号 65
福昌寺・悟性寺の寺領、住持と旧記、修造・御位牌・石塔の由緒を長文で照合する。加世田城や鹿児島の社寺、諸家の書出・御記録を引き、寺社方の取扱いを考える。
本文日付:觀應二年八月 日 / 冊子 321~322頁/原整理番号 四六六/整理ID TMP-P02-NENE4-D0466
冒頭では祢寝五郎入道と息又五郎清増が、建武三年以降御方として御手に属し隅州・日州・薩州各所で合戦した旨を申告する。 三月廿七日の大始良城、四月四日の同城攻略、十日の加世田城、七月十一日の鹿屋院高隈等の軍忠を挙げる。 今月三日以降の始良庄等の合戦・討取を述べ、「親類六郎次郎被疵訖」とも記す。 各所の軍忠について一見状を求め、末尾には建部清増とある。