池田貞安覚書
年月日未詳 / 冊子 410~411頁
池田貞安が、軍代の平田太郎左衛門が七月十三日に山口へ向かった際の戦闘を記す。池田・山口大蔵・大井五兵衛・青山利兵衛の四人が案内役を命じられたが、志和地・野々美谷・安永・高城などの敵が城から出撃したため苦戦して山田へ退き、その遠目塚で旗差を庄内方に奪われたという。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 410~411頁
池田貞安が、軍代の平田太郎左衛門が七月十三日に山口へ向かった際の戦闘を記す。池田・山口大蔵・大井五兵衛・青山利兵衛の四人が案内役を命じられたが、志和地・野々美谷・安永・高城などの敵が城から出撃したため苦戦して山田へ退き、その遠目塚で旗差を庄内方に奪われたという。
(慶長十年)九月十六日・十月二十八日 / 冊子 33頁
島津常久譜の記事。九月十六日、右松安右衛門尉が惟新の使者として上着し、伊集院肥前守を常久の代役とする旨の書状をもたらし、翌日返書を託された。十月二十八日には寅連房・伊地知利兵衛尉が使者として上着し、島津忠恒の書状により長旅の労をねぎらうとともに、伊集院肥前入道を常久の代役とする旨が伝えられたことを記す。
享保九年閏四月廿五日 / 冊子 428頁/原整理番号 176
丸田利兵衛が祖父休右衛門からの口伝を届ける。慶長十四年、忠元の指示で菱刈などの勢と中宿町の人々を集め、佐敷城攻めを用意したという。津奈木の銭亀ヶ尾に籠城した敵に対し、休右衛門が筑後へ遣わされ事情を探った。小川内で忠元が首尾を聞き、百間ヶ尾への備えが敵を惑わせたこと、馬場走左衛門の助言で銭亀ヶ尾の勢が落着したことを記す。文書はなく、口伝だけだと明記する。
年月日未詳 / 冊子 296頁
川上久辰の自作文。十一月十五日を期限とする帰陣命令後、小西行長が順天で明・朝鮮水軍に港口を封鎖されたため、島津義弘・立花宗茂らが救援へ向かったと記す。十七・十八日の戦闘で、久辰・久首は小舟から敵船へ攻めかかるが、大船へ乗り移れず矢石・火器を浴び、川上源太左衛門らが戦死、桑波田五郎兵衛らが負傷し、弾薬が尽きて退いたという自身の部隊の戦いと被害を具体的に述べる。
八月廿三日 / 冊子 568~569頁
福崎重親が、八月十四日に細島を出船し、同月二十一日に大坂へ着いたことを知らせる。島津義弘(惟新)は美濃の城を攻めるため大坂から奥へ進み、自分たちも二十四日に後を追う予定とする。京都・伏見・大坂の無事、先着・後船の薩摩衆や大坂残留者を報告し、伏見城が八月一日に陥落して福永弓左衛門・井尻甚六が戦死し、抜水与兵衛が負傷したことも伝える書状。
正保四年七月七日 / 冊子 460頁/原整理番号 580
長崎への黒船着岸により蒲生衆士161人を派遣し、谷口助右衛門ら5人を主取とする。軍役は5人と相談して滞りなく整え、その指示に難渋する者は日記に記して地頭帰任時に報告すること、宿をなるべく一所にまとめ、従者の狼藉を主人から厳禁することを定める。
文化8年7月願・許可。9月15日江府発、10月有馬・京都、11月4日高輪帰着 / 冊子 372頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1164
重豪は近年江府で宿疾を患い、今茲秋7月、斉興が重豪のため摂州有馬温泉での湯治を願い、大家が許した。9月15日江府を発ち、21日信州善光寺に詣でる。10月7日大坂着、4日滞坂し、10日大坂を発って有馬に至り温泉に浴したが僅か5日と記す。14日有馬を去り翌日伏見、16日宇治萬福寺で拝礼、17日京都着、中馬利兵衛宅に主して憩い、19日近衛内大臣基前公を訪ねた。20日微行で綾小路前中納言俊資卿・堤三位廣長卿の家へ行く。21日京師を去り、大津石場から船で松湖を渡り、江州膳所城主本多下総守康禎の邸を過ぎ、東海道の各駅を経て11月4日江府高輪邸へ戻る。康禎の邸には瓦第・近侍に関する割書注がある。許可・出発・入湯・各参詣訪問・帰府を別々に記し、1161/1162の三廻御暇と本件僅五日入湯を黙って一致させない。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納忠元が与えた加増坪付。複数の田地について所在地、面積、分米と旧担当者を列記し、新納利兵衛尉に宛てる。
〈寛延四年〉九月十九日 / 冊子 329~330頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0974
九月十九日、家重が重年の襲封後初の帰国を祝い、安否を問うため佳肴一種、鮭十尺を賜った記事。老中本多伯耆守正珍が江戸留守居山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、老中宿次奉書と驛路證印を渡した。比志島孫左衛門國泰・谷山孫右衛門通音、歩士三人・軽卒六人が警衛して同日芝邸を発ち、東海・山陽・西海路を昼夜休まず進み、十月十五日に薩府城へ着いて重年が拝戴した。同日、山本利兵衛秀命・調所八左衛門恒堅が重年の謝書と驛路證印を携えて執政へ赴き、軽卒六人も従った。重年は一門島津周防忠紀を謝恩使とし、継豊も物頭中江九衛門員張を同行させた。秀命・恒堅らは西海・山陽・東海道を経て十一月十一日に江戸へ着き、山澤盛福の案内で武元へ重年の報翰を呈し、正珍の證印を返納した。忠紀は九州の駅路から豊前小倉、大坂、東海道を経て十八日に芝邸へ着き、二十一日に酒井忠寄へ家重宛の連署、秋元凉朝へ家治宛の連署を届け、西尾忠尚へ両公宛の格書と書状を渡した。十二月朔日、忠紀は白書院で重年の献物二種・雙樽を家重へ献じ、家治にも謝恩を伝え、松平周防守康福が奏達した。忠紀自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じた。続いて西城で朽木土佐守玄綱を奏者とし、重年の献物一種・雙樽と、忠紀自身の太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。十二日に召されて登城し、檜之間で武元から回翰を手渡され、紗綾三巻を拝領した。青山因幡守忠知が奏達し、十三日には西城で武元から、十八日には西尾忠尚の邸で回翰を受けた。二十九日に芝邸を発ち、東海道を経て翌三月二十五日に薩府へ帰り復命した。
明和三年十二月十三日 / 冊子 149~150~151~152頁/原整理番号 346/整理ID 346
高橋此面が、太守の側に女中を召し置く相談と甘露寺前大納言の娘綾姫の取次を詳しく報じる。去年までの思召で一度取り止めた後も希望はあったが、言い出す遠慮があったと内々に承知し、瀬川・川井を介して淨岸院へ申し上げた。淨岸院は喜び太守・御前へ伝えたが、御前の世話による人の話には差支があり、太守の思召に叶わず急な召抱えが難しいため、国元の人を含め候補を探す。去年京都で瀬尾治兵衛・中嶋利兵衛が町田幸太郎・伊集院覺左衛門へ内談照会し、横山權右衛門にも知らせた。綾姫の器量、京都での取廻しの評判、禁裏内侍所の見合について聞き、御守殿へ報告した。太守の意に入らなければ御守殿上臈として召抱え、旗本との縁付けや帰京の望みがあれば本人の望みに従わせるという条件を記す。瀬尾・中嶋を通じた国元差越し・来春差越しの予定を甘露寺家へ知らせ、御前・八重崎・中奥御年寄への伝達、淨岸院と御守殿の承知や意向を述べる。白石探隱の差越し、權右衛門・覺左衛門の見分、瀬尾・中嶋の調整に触れ、太守へ直接見せる人数等を相談する。甘露寺家が既に治定とする一方、途中の変更が難しいという話もあり、御守殿上臈、蘭橋由緒の部屋の客人分、国元女中、帰京という複数の扱いを検討する。表向きは客人分と称するが堂上方に先例がないとの説明もあり、到着後の思召に従う書付返答、従前の話との異同を細かく伝える。綾姫を来春長く当地に置くのは都合が悪く、妾としての召仕い・国元差立てを急ぐ意向と家老中の希望を記す。京都で軽い藝子を拾った等の雑説があるというが、高橋は実情と違うとして、瀬尾・中嶋が綾姫の姉で田鶴宮様御上臈の方と長く対面し由緒を確かめたことを報じ、別冊の親類付を送る。女中方へ内々に申し上げるかは判断次第と結ぶ。明和三年十二月十三日、高橋此面署、五名宛。扣正文は家老座にあるとする。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の1
『平田宗直加子立曳付』所収、十一月二十二日の浦水手送状。茂兵衛尉・喜左衛門・利兵衛尉・孫左衛門を船頭として掲げ、作左衛門以下の水手を列記する。小浦から立てた合計三十一人の浦水手を受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
11月23日 / 冊子 406~407頁/原整理番号 370の1
『平田宗直銀米払方留帳』に対応する十一月二十三日の送状。主取茂右衛門尉・喜左衛門・利兵衛尉の三艘は各水手八人・赤米一石二斗、孫左衛門の四枚帆は水手七人・赤米一石五升と記す。小浦から出水へ遣わす人衆乗船の飯米として、同日以後二十日分を一人一日七合五勺の算用で渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
「安永五年」七月二日 / 冊子 428~429頁/原整理番号 176-1
小川内の関狩の起源に関する丸田利兵衛の伝聞を写して保管していると、竹村喜之助へ知らせる。丸田の慶長十四年説に対し、差出人は天正年間に始まったと考えるが、ほかには聞いていないとする。役所も探したものの、寛永十一年の火災で焼失したため確認できないと報告する。
11月22日 / 冊子 401頁/原整理番号 363
片浦から出す五枚帆二艘・四枚帆二艘(各水手八人)の主取・加世田衆中上乗を記す。続いて小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手八人・八人・七人・八人)の主取と上乗を列記する。さらに船頭太兵衛尉の八端帆一艘(船頭・水手十一人、上乗なし)を小松原から出すよう命じ、この船は肥前商人から借り、積んだ「しやうのう」を下ろして出水へ向かわせると付記する。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
宝暦十年(日付不記) / 冊子 765頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2343
継豊は五月二十二日、家治の将軍職承継を祝う品として、家重へ太刀一腰・馬代黄金一枚を献じた。使者山元利兵衛郷命を西城へ登らせ、蘇鉄間で納めさせた。郷命には、目付役から仮に留守居役を務めるとの注記がある。