徳川家康書状
九月廿四日 / 冊子 584頁
徳川家康が垣見和泉守・熊谷内蔵丞へ、薩摩を往来する者については島津殿の申出どおり、異議なく通行・護送させるよう命じる。
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九月廿四日 / 冊子 584頁
徳川家康が垣見和泉守・熊谷内蔵丞へ、薩摩を往来する者については島津殿の申出どおり、異議なく通行・護送させるよう命じる。
寛永四年正月十八日 / 冊子 29頁
押川内蔵丞・坂元清左衛門が依頼を受け、小林の南西方村にある私領の谷村門・今村門内の田畠を検分し、仕明地の高を二十七石七升三合と確認して差し出した証明書。
寛永十二年三月十四日 / 冊子 514~521頁
谷山衆について、平山内蔵丞以下の人物名と各人の知行高を高百七石から一石単位まで列記し、総計三千二百七十石二斗とした高究帳。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
慶長十八年十二月廿日 / 冊子 524頁
七分出銀として銀四十三匁二分八厘を受け取り、別に九匁一分二厘七毛八忽が未進であることを記した三名連署の銀子請取状。
慶長十九年三月十一日 / 冊子 524頁
七分出銀として銀九匁一分二厘七毛八忽を受け取ったことを記した三名連署の銀子請取状。
年月日未詳 / 冊子 633頁
九月十四日夜、西軍諸大名が大垣を発って関ヶ原へ向かった。大垣城には福原右馬助をはじめ、相良左兵衛・長井和泉・秋月長門・高橋左近・熊谷内蔵丞の六名を守備として残し、夜のうちに関ヶ原へ到着して陣を取った。
年月日未詳 / 冊子 116頁/原整理番号 185-1
伊地知季安の記事。十一日、上津浦番手の島津久賀らには武功があり軍議のできる者がいなかったため、島原の島津久元らへ報せ、讃良善助貞賢と蒲川内蔵丞を上津浦に置くことを相談した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 131頁/原整理番号 214-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知杢右衛門重政が島原の陣屋で、鹿児島の士である土持平左衛門綱辰・田中善兵衛・吉田次郎兵衛康清・中上内蔵丞を饗応したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 132頁/原整理番号 214-2
伊地知重政付衆・小原織部の取払留。二月十四日の振舞方として上白米一斗五升を土持平左衛門尉・田中善兵衛・中上内蔵丞へ渡したこと、同日、買物方として真米八升四合八勺を記す。瀬戸山主左衛門へ渡した天草栖本から出水米之津までの船賃以下は十五日条に載せると注記する。
年月日未詳 / 冊子 176頁/原整理番号 296
蒲生の松下源五左衛門書留。地頭市来宗友が二十一日に出船し、二十二日に有馬へ着いたこと、同夜に敵が切り出して二百七十人を討ったことを記す。また、有馬で福崎内蔵丞・赤塚源太左衛門が十日分の飯米を新納佐左衛門尉から受け取ったが送手形が出ず、指出して江津浦で決済するよう命じられたとする。
(寛文十二年)二月十七日 / 冊子 590頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1433
江戸から琉球へ預けられた公儀流人の扱いについて、命令なく召し寄せたり移したりしないこと、役目違反や逃亡時には速やかに報告・処罰すること、流人をかくまい又は助ける者も処罰し、留守居を通じて江戸へ報告することなどを定めた覚書の抜粋。
延宝2年8月10日 / 冊子 253頁/原整理番号 201
大久保右京亮・杉浦内蔵丞らから家来判形や親類縁者改帳について差し出された書付の扱いを記す連署書付。先規の三家の儀や屋敷での相談を述べ、延宝二年八月十日、伊勢平右衛門・相良仁右衛門の連署で結ぶ。
11月23日 / 冊子 403~404頁/原整理番号 368の1
十一月二十三日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎左衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を掲げる。小浦・片浦から出水へ向かう人衆乗船の上乗として、加世田衆中に同日以後三十日分の飯米を片浦で渡したことを記し、到着後も算用して支給するよう是枝喜右衛門へ伝える。
11月24日 / 冊子 413頁/原整理番号 376の3
十一月二十四日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎右衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を記す。加世田衆中の上乗に十一月二十三日以後三十日分の飯米を渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。天草一乱に伴い小浦・片浦から出水へ遣わす乗船のための支給である。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 37
佐近・頼安以下の相良氏系図と、清兵衛頼兄・喜平次父子を中心とする家伝。清兵衛は永禄十一年に球磨で生まれ、相良の本姓へ復した。慶長五年、福原右馬助が主取となる濃州大垣城に熊谷内蔵之助・木村宗右衛門・垣見和泉守・相良宮内頼房・高橋右近・秋月長門守らと籠城したが、秋月・高橋・相良は関東方へ赦免時の返忠を申し入れ、城内で五将を討って降参した。この策が清兵衛の謀によるとして徳川家康から感状を受け、近習に取り立てられ、肥後葦北郡を与えるとの申し渡しを辞退した後も御目見・近習同前とされた。球磨城主相良壱岐守の仕置を清兵衛が担った際の専横をめぐり江戸へ召され、清兵衛・喜平次の不仕合の風聞から一揆・内乱が起こり、清兵衛は津軽へ預けられた。頼安の妻を島津中書家久の娘とし、その子喜平次(内蔵丞)は元和三年に加治木へ赴き島津義弘の加冠を受けた。寛永十七年の球磨仕置処分時には薩摩屋敷へ遣わされ、その後公儀の構いを解かれ、薩州の臣として二千石を与えられたと記す。
延宝二年十一月二十五日 / 冊子 641頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1593
光久が杉浦内蔵丞へ、領内の転び切支丹の親類・縁者改帳を家来の判形で差し上げるよう定まり、久世大和守から渡辺大隅守・青木遠江守へ伝えられたことを承知したと述べる。杉浦の取り持ちに謝意を申し入れる。
(貞享三年)七月廿五日 / 冊子 764頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2001
浅山高重・宇宿久運・椛山久孝が相良主税・村田為左衛門・中神内蔵丞へ、御用のため今日こちらへ来るとの知らせを承知し、式部少輔・右京と自分たちへ命令を伝える件を受けたと返答する。遠所の右京のためにもこちらへ来て念を入れる意向を承知し、右京へ伝えたと述べ、対面時の相談を期す。
11月22日 / 冊子 401頁/原整理番号 363
片浦から出す五枚帆二艘・四枚帆二艘(各水手八人)の主取・加世田衆中上乗を記す。続いて小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手八人・八人・七人・八人)の主取と上乗を列記する。さらに船頭太兵衛尉の八端帆一艘(船頭・水手十一人、上乗なし)を小松原から出すよう命じ、この船は肥前商人から借り、積んだ「しやうのう」を下ろして出水へ向かわせると付記する。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
年月日未詳 / 冊子 465~468頁/原整理番号 458の1
『平塞録』十日の記事。細川光利が河尻を出船して晩に柳浦へ着岸し、諸隊を整えて原城へ進んだ経過を記す。上使衆・細川勢・松倉勢・鍋島勢らの配置、城内への鉄炮射撃、白旗、浮足立った敵への押し寄せ、死傷者、船手と陣小屋の整備までを詳述し、末尾で熊本家老中から松倉長門守への書通を導入する。
年月日未詳 / 冊子 537頁/原整理番号 545
『天草説書』の記事。正月元日、板倉内膳正のもとへ諸勢が集まり登城を企てたところ、石谷方から立花手への使番の行き違いが生じ、各城を乗り抜けた後に敵陣へ落ちた経過を記す。板倉・石谷方の討死・手負、立花勢、附使者らの死傷と退却を述べる。
(寛永15年)正月6日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 586
島原出陣に伴う乗馬・中間・兵具持の割付帳。町田・浦川・山城・甲斐ら諸給人および寺社ごとに人数と馬匹を列挙し、正月九日までに手配するよう定める。寛永十五年正月六日付。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
(貞享三年)七月廿八日 / 冊子 775頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2016
新納久了が相良長清ら三使者へ、村上三太夫らが松木三郎五郎宅に籠居したとの報告と、三人を討ち果たしたとの続報を受領したこと、大久保忠朝への既往の伺いも踏まえ、光久への報告と今後の処置について詳しい返答を求めた書状。
三月十九日 / 冊子 349~350頁/原整理番号 384
蒲生士松下氏書留に収める覚。冒頭で刀による鑓合の者を列挙し、続いて首取・切捨・手負などの軍功者を記す。さらに二月二十七日の城への放火と二の丸陥落、二十八日の本丸攻撃、二十九日晩の落城という原記載を掲げ、二月十六日の出立から有馬・米之津・江津浦間の乗船、悪風による滞留、帰着までを記録する。三月十九日には有馬で福崎内蔵丞・赤塚源太左衛門尉が新納佐左衛門尉から十日分の飯米を受け取り、送手形が出ないため江津浦で差出により処理するとした。
(貞享三年)七月廿四日 / 冊子 763~764頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2000
中神内蔵丞・村田為左衛門経景・相良主税長清が椛山主馬らへ、御用を命じられ翌二十五日に赴くと伝える。式部少輔と島津右京が同座して各人に命令を申し伝えるよう指示されたが、右京は当分遠所にいるので、こちらから参るよう望まれた場合には面会できると知らせる。
延宝2年11月25日 / 冊子 255頁/原整理番号 207
切支丹宗門者の親類縁者改帳と家来判形の件につき、杉浦内蔵丞の取持ちを謝する島津光久書状。久世大和守・渡辺大隅守・青木遠江守への取次ぎを了承した旨を述べ、延宝二年十一月二十五日付で結ぶ。