島津氏久書下
正平十四年十一月十日 / 冊子 17頁
島津氏久が得丸六郎五郎に、さらに忠節を尽くせば現在知行する土地に相違がないことを保証した書下。
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正平十四年十一月十日 / 冊子 17頁
島津氏久が得丸六郎五郎に、さらに忠節を尽くせば現在知行する土地に相違がないことを保証した書下。
貞治六年十月一日 / 冊子 49頁
覚阿が長谷場内の所領を阿弥陀仏へ寄せたうえで、その後は六郎に与えることを定め、異乱を申し立てる者を不孝とするとした譲状。仮名書きの地名細部には判読留保がある。
貞治七年五月十八日 / 冊子 51頁
長谷場久武が、弥六跡の水田・屋敷について覚阿の取り計らいに従い、六郎を養子として譲与し、末代まで異乱しないと定めた譲状。
建徳二年五月廿七日 / 冊子 57頁
島津道壱(親忠)が、伊作庄花熟里名内の水田二町五段・薗三か所と今田名内野崎田五段などを六郎へ譲与した譲状。
応安八年二月廿五日 / 冊子 75頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、野辺盛久が相伝知行する日向国櫛間院・大隅国深河院北方について、安堵の御教書が得られるよう取り成しを求めた書状。
応安八年三月十一日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方北郷宮丸名内の富永・成清について、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年三月廿三日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方中郷の富山・安久名・和里木名・秋永などについて、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年五月十日 / 冊子 79~80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、山田加賀守忠経が譜代相伝する薩摩国谷山郡内の山田・上別府について、京都への吹挙と沙汰を求めた挙状。
応安八年六月七日 / 冊子 80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道へ、島津安芸入道明見(樺山資久)の所領回復を依頼した書状。肥後国山鹿庄内の筑後守頼尚跡、同国尻無村、日向国宮崎郡内の戸次丹後守跡地頭職を対象に挙げる。京都へ吹挙して正式な沙汰を得るよう求め、遠隔所領の権利確認を働き掛ける。
応永三年十一月廿七日 / 冊子 167頁
宮里信正が、薩摩国宮里郷内ひろつぼ三反大坪の所領を、はきの六郎太郎入道へ永代に譲り、子孫まで知行するよう定めた譲状。
文安四年十月吉日 / 冊子 417頁
道性が六郎衛門へ、へき雲寺代官職の給分足、田畠、前田一鶴の上下、各所の田地・島・屋敷などを列挙して永代相続させ、光兼とともに署判した所領注文。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191~192頁
川上忠智・有川貞則が、日向国真幸院内の大河平所について皆越六郎左衛門尉に示した連署の知行目録。
十月十三日 / 冊子 299~300頁
十月十三日、山口直友が河上六郎兵衛に、佐土原をめぐる訴訟は本多上野介らの取り成しでほぼ決着し、翌春に右馬頭が領地を受け取る予定だと報じた書状。それまで在城衆と地下人の争いを防ぎ、又四郎に治安維持を命じるよう求める。
四月廿七日 / 冊子 110-111頁
近衛尚通が島津又六郎に、家門間の由緒を踏まえて消息を送り、公方の祝言と三月の若公誕生を祝した書状。都鄙の乱逆で家領が押領され家の断絶さえ危ぶまれるとして、旧好に基づく扶助・奔走を依頼する。
四月廿七日 / 冊子 111頁
近衛尚通が島津又六郎に、久しく書状を送らなかったことを詫び、乱世のため処理できない事柄が多いと述べた書状。今後は力を合わせて諸事を進めたいとし、九澤軒から伝える用件への助力を求める。
六月廿七日 / 冊子 340頁
島津貴久が又六郎殿へ、入用の品があると聞いたため金一枚を進呈し、御用に立てば満足であると伝えた短い書状。
年月日未詳 / 冊子 366~367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、心経、犬の具合、山神の祭祀、平田への祈念、狩猟や周辺への問い合わせなど、身辺の諸事について相談・依頼した書状。
三月四日 / 冊子 367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)の体調を尋ね、境目の情勢、番衆が小勢となること、仕役の相談、典厩と同様の上申、清水への連絡について分別を求めた書状。
二月廿五日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、大屋形様の仰せを受けて諸所へ軍勢の手配を命じたことを知らせ、歳久にも引き続き準備するよう求め、自身も明後日までに出立すると伝えた書状。
八月四日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、火箭の口薬に用いる品を送り、細工を依頼した書状。弓竹などの材料を真幸方面で調達することや、念佛寺からの使僧についても問い合わせている。
神無月三日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、祝意を述べ、自身は一色表への行動を心掛けているものの機会がなく、何日もむなしく過ごしていることを残念がった書状。
貞治六年十月一日 / 冊子 49頁
前掲No.181と同日同標題の覚阿譲状。本文欄は『全』との表示のみで、独立番号として保持する。
六月五日 / 冊子 884頁
島津貴久が月初の報告と祈念の状況について述べ、相手方の知らせを喜び、引き続き祈祷するよう求めた書状。左衛門督歳久譜中に収める。
文安二年四月三日 / 冊子 413~414頁
伊東六郎四郎が樺山殿と、以前の約定を守り、弓箭の義理や争いは互いに相談して独断せず、双方の所領を企てに用いず、世上が変転しても無二の結束を保つと神々に誓った重契約。
慶長三年十月十八日 / 冊子 265~266頁
長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従が略取しなかったこと、辻助兵の死去なども伝える。
8月26日但馬(末尾申渡) / 冊子 380頁/原整理番号 542の3/整理ID 542-3
長州征討に付いて、先陣惣督嶋津又六郎へ諸隊を指揮し機先を察して勝利と威武を保つよう命じ、先陣副惣督嶋津主殿へ惣督と相談して軍謀を誤らず指揮するよう命じる。続いて一陣惣物主島津隼人に伊集院一組の人数を召し付けて出軍させる指示を向々へ伝え、地頭・用達にも知らせる八月廿六日但馬の申渡。命令内容と組の召集を記録し、戦闘の結果や出軍人数はここから確定しない。
年月日未詳 / 冊子 78頁
永和元年(南朝天授元年)三月十一日・二十三日、島津氏久が富山彦五郎義弘の相伝地について、斎藤六郎左衛門入道を介して将軍家の沙汰を求めたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 125頁
『島津国史』の至徳元年(南朝元中元年)の記事。二月二十七日の改元を記し、今川了俊が宮内大輔三雄を肥後二見へ派遣し、秋にも諸将が二見へ向かったこと、久哲公が前年に子守久を派遣していたことを述べる。続いて今川了俊の執事人である六郎左衛門尉や、至徳元年十二月九日付の薩摩・大隅・日向地頭御家人宛文書を検討し、相国寺領三俣院の守護・忠節命令と発給者を斯波義将に比定する。末尾では、父氏久以来の居所である志布志から鹿児島へ移るため、清水に川・谷を利用した城郭を築き、妻子を移住させた経緯を記す。
十二月十三日 / 冊子 584頁
新納家文書に伝わる島津忠治書状。本文はNo.1793と同文であるため省略され、餅原駿河守・吉田六郎三郎の名のみ掲げられる。
年月日未詳 / 冊子 640頁
大永二年四月二十六日、北郷六郎久家が梶山で討死したことを記す記事。
「天文廿三年」九月十五日 / 冊子 928頁
島津日新斎が又三郎に、陣取りを喜びつつ長く用心するよう戒め、文六郎の件などへの対応を伝えた書状。
永禄十一年八月九日 / 冊子 200頁
永禄十一年八月、伊東氏が相良氏と結び桶比良に陣を置いたため、島津義弘が飯野の守備を固めた。皆越六郎左衛門から伊東・相良両氏の加久藤・飯野攻略計画が遠矢下総守へ密告され、島津方は大明司へ虚報を流して対抗した。貴久は長雨のため桶比良攻撃を断念し、義弘は皆越夫妻を河原口で迎えて大川平を与え、九郎の後嗣として左近将監と改名させた。
年月日未詳 / 冊子 303頁
島津家久譜が、慶長三年十二月六日に対馬を出帆して壱岐勝本へ着き、翌日迫門で松浦法印刑部卿の盛大な饗応を受けた帰航経路を記す。あわせて、朝鮮で前代未聞の怯弱を示した深野掃部兵衛・長崎六郎左衛門を軍勢の前で処刑し、鮫島筑右衛門尉が深野の首を斬ったこと、深野の息子二人は死罪を免じて帰国させたことを記す。
(慶長十八年)九月八日 / 冊子 412頁
慶長十八年九月八日、近衛信尹が島津家久へ、泉坊に関する書状と贈答に謝し、高崎弥六郎の来訪、家久妹の江戸下向などを気遣った書状。
寛永五年四月廿四日 / 冊子 34~35頁
新納忠清が、平野六郎左衛門主従四人と美代主殿助主従三人の国元帰還に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、二十三日までの飯米を当地で渡したことを報告し、以後の海道飯米代銀の処理を依頼する。
(寛永五年)四月廿四日 / 冊子 68頁
新納忠清が、平野六郎左衛門尉主従四人と美代主殿主従三人の国元下向に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、前日までの飯米を当地で渡したと報告する。今後の海道飯米代銀は受取側で手配するよう求め、同日出立した旨を知らせる。
年月日未詳 / 冊子 319頁
『日新記』の記事。田布施在住の中間孫七が父を殺した事件を取り上げ、不孝の罪として処罰し、宮原六郎らの供述や高橋の土豪をめぐる事情を調べて、所帯・所領の処置を下したことを記す。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
永正十二年二月七日の犬追物について、初日二番の射手と射数を列記した手組。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
No.1856と同日の犬追物について、別の初日二番の射手と射数を列記した手組。
永正十二年四月一日 / 冊子 607頁
永正十二年四月一日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 875頁
天文十八年に伊東氏との戦いなどで戦死した豊州島津忠親・北郷忠相方の武士を、日付と戦況を添えて列記する。
年月日未詳 / 冊子 877~878頁
天文十八年四月五日、飫肥をめぐる伊東方との戦いで豊州島津忠広・北郷方が応戦し、敵方に損害を与えた経過を記す。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納忠元が与えた加増坪付。複数の田地について所在地、面積、分米と旧担当者を列記し、新納利兵衛尉に宛てる。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁
船が到着したことを知らせ、先方にある遠借りの琴を袋へ入れてよく燻蒸し、箱に納めて保管するよう頼み、自身の体調がかなり良くなったと報告した島津家久書状。
建武元年(1334)6月26日 / 冊子 378頁/原整理番号 188-17
建武元年六月二十六日、観忍が仰せを受けて千竈六郎左衛門入道へ、薩摩国河辺郡内黒島の郡司職を円覚に旧来どおり返付したので、その旨を承知するよう執達した奉書。本文は四行と注記され、冒頭に花押を掲げる。
本文:文安2年10月吉日/巻末目録:文安4年10月吉日(異同) / 冊子 654~655頁/原整理番号 124
道性が六郎衛門の志を理由に、先祖以来の相続地を永代に相続させると記した状。へき雲寺代官職の給分に関わる田島・前田をはじめ、おひ田、たぬき穴、梅のさこ、たにの口、松のさこ、池上の畠など、田地・畠・屋敷を列挙し、子孫まで知行できるよう定める。本文の署名は『文安二稔十月吉日 道性(花押)』だが、巻末目録は文安四年としており、年次に異同がある。
正平元年3月28日 / 冊子 661頁/原整理番号 142
正平元年三月二十八日、平家高が山門六郎に薩摩国山門院三百五十丁を永代に譲り、相違なく知行させると記した譲状。末代までの譲与とし、山門六郎の子孫の地であると定める。家高が花押を据える。
貞治六年十月一日 / 冊子 111頁/原整理番号 423
覚阿が、長谷場内井尻四杖を孝行の助けとして覚阿弥陀仏へ寄進し、その後は六郎に与えること、後々まで違乱を申し立てないことを定めた譲状。貞治六年十月一日付。
貞治六年十月一日 / 冊子 111頁/原整理番号 424
覚阿が、子のない弥六の跡の水田について、長谷場内の田地や甘子木村内西牟田五段などを正弟六郎に譲った譲状。六郎に弥五郎を親と思って仕え、互いに水魚の思いで知行するよう定める。貞治六年十月一日付。
貞治七年五月十八日 / 冊子 111~112頁/原整理番号 425
長谷場久武が、覚阿の裁量に従い、弥六跡の水田・屋敷について六郎を養子とし、後世まで妨げや違乱をしないことを約した譲状。久武に子がないため、互いに協調するよう求める。貞治七年五月十八日付。