犬追物手組
元和七年十二月四日 / 冊子 774~775頁
元和七年十二月四日に行われた犬追物について、各番の騎射手と馬数を配した手組。島津家久を検見とし、喜入島津大炊助らが喚次を務める編成を記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
35 件 (全巻)/ 1–35件を表示
ページ 1 / 1
元和七年十二月四日 / 冊子 774~775頁
元和七年十二月四日に行われた犬追物について、各番の騎射手と馬数を配した手組。島津家久を検見とし、喜入島津大炊助らが喚次を務める編成を記す。
元和七年十二月五日 / 冊子 775頁
元和七年十二月五日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、島津家久が検見し、嶋津大炊助らが喚次を務める手組を記す。
元和七年十二月七日 / 冊子 775頁
元和七年十二月七日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、川上嶋津十郎左衛門尉らが検見・喚次を務める手組を記す。
元和七年十二月四日 / 冊子 150頁/原整理番号 95
元和七年十二月四日の犬追物手組。宰相殿七疋、仁礼信濃守三疋、三原左衛門佐四疋などの犬数を記し、検見を島津志摩守、喚次を本田弥六とする。
元和七年十二月四日 / 冊子 150頁/原整理番号 96
元和七年十二月四日の「四日二番」犬追物手組。岩松殿三疋、島津豊後守一疋、伊勢美濃守二疋などの犬数を記し、検見を辛相殿、喚次を島津大炊助とする。
元和七年十二月五日 / 冊子 150~151頁/原整理番号 97
元和七年十二月五日の「三日三番矢闌次第」。下手論犬追物手組として八文字掃部助一疋、島津又十郎五疋、相良丹後守一疋などを記し、検見を伊勢美濃守、喚次を渋谷周防守とする。
元和七年十二月六日 / 冊子 151頁/原整理番号 98
元和七年十二月六日の「六日二番一」犬追物手組。虎寿殿三疋、伊勢大隅守一疋、八文字掃部助一疋などの犬数を記し、検見を辛相殿、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
元和七年十二月六日 / 冊子 151頁/原整理番号 100
元和七年十二月六日の「六日二番三」犬追物手組。虎寿殿一疋、八文字掃部介二疋、島津又太郎一疋などの犬数を記し、検見を辛相殿、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
元和七年十二月六日 / 冊子 151~152頁/原整理番号 101
元和七年十二月六日の「六日二番二」犬追物手組。虎寿殿一疋、島津又太郎一疋、三原彦千代丸二疋などの配当を記し、検見を辛相殿、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
元和七年十二月七日 / 冊子 152頁/原整理番号 102
元和七年十二月七日の「五日二番矢闌次第」。次手論犬追物手組として島津長十郎四疋、仁礼小吉四疋、伊勢大隅守二疋などを記し、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を蒲池左八郎とする。
元和七年十二月七日 / 冊子 154頁/原整理番号 107
目録は元和七年十二月七日付「犬追物手組」とするが、本文は別紙とのみ掲げ、一〇一号とほぼ同一のため省略したと注記する。独立の射手・犬数はここには載らない。
年月日未詳 / 冊子 763頁
元和七年正月十四日に島津家久の江戸屋敷で火災が起き、家久が佐土原島津家の屋敷へ移った際に忠朗も従い、将軍家から忠朗へ褒衣十領・道服三領が贈られたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 764頁
島津光久譜中、光久の男子で初め忠共・梅千代丸と称した忠尚が元和七年二月二日に江戸で生まれ、宮原吉兵衛の長女を母とし、町田久幸の養子となり、延宝四年九月三日に没したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 764頁
元和七年二月四日、徳川秀忠が本多正純・土井利勝を通じて島津家久へ告示し、家久が登城して謝意を表したこと、江戸にいた喜入忠政・伊勢貞昌が国元へ報じたことを記す系譜記事。
年未詳4月7日 / 冊子 271~273頁/原整理番号 107-14
卯月七日、昌州(傍注では連歌師昌叱か)が某人へ、先日その地へ参上して宿所を訪ねたが留守だったと伝え、京都連歌の『御かし』を平田与進のもとへ送る件について、料紙をまだ用意できないため、まず自分の愚作を差し上げるので書写して返してほしいと頼んだ書状。付属記事は、慶長十六年正月に龍伯が没した後、上原尚氏が鹿府に居住し、食禄百五十一石(国分高帳では百五十三石)で府籍に登ったこと、慶長十八年十二月に大坂事への備えとして老齢のため夫三人を出したこと、元和六年二月の百石以上四分一収公に応じ、残る百五石を食んだことを記す。さらに分家の尚演が家久の御納戸役となり、元和七年の犬追物で四疋を射、寛永九年には食禄七十九石を登録したこと、横川・清水郷・伏見・南林寺等に関わる尚演以下の分家・養子・還俗・御用人・近習役などを系図で示す。連歌書状に上原氏の近世初頭の知行縮減、軍役負担、役職、分家系譜を連ねた構成が特徴である。
(元和七年)二月五日 / 冊子 764頁
喜入忠政・伊勢貞昌が島津家久へ、江戸で大火が起こり、強風で家久邸にも延焼が迫ったため家財の搬出・避難を行ったこと、火災後に銀子五百貫目の拝領があったことなどを報告した連署状。
元和七年二月六日 / 冊子 765頁
細川忠利が、公方への二心なき忠節、今後も隔意なく万事相談すること、義久・忠朗・家久と細川幽斎家との代々の懇意を保ち、依頼に疎意なく応じることを神仏に誓った起請文。
(元和七年)二月廿六日 / 冊子 765頁
島津家久が、江戸での用務を終えて上洛し、追って帰国する予定であるため、海路安全の祈祷として大神楽三座分の銀子を送り、伊勢貞昌から詳しく伝えるとした書状。
(元和七年)三月十二日 / 冊子 766頁
島津久元・町田久幸が国元重臣へ、島津家久の子息が息災であること、上州老から贈物が届いているので後便で礼を述べること、御道具衆を早く差し上せることなどを追って伝えた連署状。
(元和七年)三月十三日 / 冊子 766~767頁
山崎正信が島津家久へ、井上筑後・馬場三郎左衛門のもとへ遣わされた者が五日に大坂へ着き、日和次第で出船する予定であること、家久が東目筋を下ると承知したこと、現地に変事がないことを報告した書状。
(元和七年)三月十九日 / 冊子 767頁
島津久元・町田久幸が国元重臣へ、上州老の使者寺田将監が来て、島津家久は上洛を延ばさず五月朔日頃に出立するのが肝要との意向を伝えたこと、女御入内の予定にも変更がないことを報じ、準備を促した連署状。
(元和七年)四月十一日 / 冊子 767頁
島津家久が中山王へ、王位相続を祝し、中城王子が後見として国政を担うことを了承して国民安泰の政道を求め、太刀一腰・馬代銀子五十枚などの祝物を贈った書状。
元和七年四月吉日 / 冊子 768頁
諏訪兼安が町田駿河守へ、御荷内役を命じられたことを受け、別心なく奉公すること、御前で承った隠密を他言しないこと、親子兄弟・縁者でも不忠の者には同心せず上聞に達することを神仏に誓った起請文。
(元和七年)五月五日 / 冊子 768頁
徳川家光が島津家久へ、重五の礼として帷子・単物数十を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井雅楽頭が述べるとした直書。
元和七年八月廿五日 / 冊子 768頁
島津久元ら四名が大根占・小根占・川内・高城・出水・清敷の担当者へ、熊嶽勤について家中各所では毎年二度ずつ家衆を回しているのに当地では勤めがなかったため、今後は同様に勤めるよう下々へ申し渡すことを命じた連署書下。
(元和七年)六月十三日 / 冊子 771頁
細川忠興が島津家久へ、山田民部を介した書状・使者に答え、徳川和子の入内と供奉衆、入内進物の扱い、板倉父子への相談、琉球酒・塩硝・竹への礼を述べた。また大坂普請の巨石運搬と費用、家久から進上された材木、江戸にいる忠利への用命などを伝えた書状。
(元和七年) / 冊子 772頁
島津家久が比志島国貞の一周忌に霊前へ手向けた六首の追悼和歌。各首を六字名号に対応させ、国貞への哀惜、死別から一年を迎えた悲しみ、面影と極楽往生への願いを詠む。
(元和七年)六月廿八日 / 冊子 772~773頁
伊勢貞昌が喜入忠政・三原重種へ、島津家久が六月二十七日に大坂へ着き、相次ぐ注進を受けて翌朝江戸へ急行したことを報告した。また和子入内の供奉、大坂普請での巨石運搬と費用、家久進上材木の利用などを伝えた書状。
元和七年十月十二日 / 冊子 774頁
島津家久が明彩西堂へ、日向国大慈寺の住持職について先例どおり執務するよう命じた書下。
(元和七年)十月十七日 / 冊子 774頁
島津家久が菊もじへ、思いがけず暇を許され、大御所から銀子二百枚・織物百端・脇差、将軍から銀子千枚・小袖百領・駒三匹を拝領したことを喜び、ほどなく帰国すると伝えた書状。
(元和七年)十二月廿五日 / 冊子 776頁
徳川家光が島津家久へ、歳暮の祝儀として小袖十領を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井雅楽頭が述べるとした直書。
年月日未詳 / 冊子 765頁
島津家久譜中、細川内記忠利が家久へ盟書を贈ったことを記し、続く起請文本文を導入する系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 776頁
島津久元が弓術を本郷義則・東郷重尚、犬追物を川上久慶、馬術を島津義弘と荒木元満に学び、免状・馬書・手綱秘奥・印可を受けたことを記す。さらに鷹術を義弘に、茶を景活火から老湯の法まで学び、武芸と茶道に通じた経歴を述べる系譜記事。
記載なし / 冊子 988–989頁/整理ID 3188
薩摩守家が大坂川筋を船で通る際に他船を除ける由緒を述べ、松平肥前守・松平陸奥守らとの比較や、船手への御下知、町奉行所への申上げを記す。元和六・七年の扱い、江戸へ呼び寄せた妻子の船路などを挙げ、今回も旧例に沿った船除を求める。添えられた覚には船年寄から町奉行所へ差し出す書類と引渡しの手続きを記す。
年月日未詳 / 冊子 720頁
島津義弘の娘が元和五年冬に江戸から薩摩へ戻り、多年の功労により加増地二千石を与えられ、元和七年に島津久元へ嫁ぎ、慶安二年に死去したことを記す系譜記事。