佐多氏義譜
年月日未詳 / 冊子 122頁
佐多氏義譜として、永徳元年六月一日に禰寝氏が佐多城を奪取したことを記す記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 122頁
佐多氏義譜として、永徳元年六月一日に禰寝氏が佐多城を奪取したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 308~309頁
『島津国史』が、応永二十六年正月十一日の永利城攻撃を中心に記す。山田方の城兵に対し、島津久豊方が陣を分けて攻め、佐多氏・川邊氏ら諸勢が援軍として加わった布陣、城周辺での攻防、双方の軍勢が進退を重ねた戦況を追う。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
(天正17年)4月6日 / 冊子 442~444頁
島津義弘が伊地知伯耆入道へ、佐多方から訴えられた渡唐船をめぐる争いについて、船・帆・積荷の押収や分配、門之浦・和泉での取扱い、使僧による訴えの経過を詳しく報告する。 公儀の法度と当事者双方の言い分を突き合わせ、没収物の返還・船の処置・責任者の処罰を慎重に決め、結果を京都へ知らせるよう求める。薩摩沿岸の海上交易と領主権、寺社・地域勢力の利害が交錯する事件を伝える。
六月三日 / 冊子 275~276頁
島津忠治の代に入来院氏が鹿児島へ参仕した際の座敷・座次を、忠治、左馬助、国衆親類、北郷・樺山・新納・佐多氏らの位置関係とともに記した座配書立。
年月日未詳 / 冊子 247頁
島津義天譜が、清敷陣中で発病した元久の死去と葬送、伊集院頼久の子初犬丸と久豊の後継争いを記す。久豊が元久の位牌を執って主導権を得たのち、自ら守護となったが国中で反乱が相次いだとする。
年月日未詳 / 冊子 261~263頁
応永十九年、比志島久範に旧領油須木村を領させた記事を起点に、比志島範平以来の系譜と所領を考証する。続いて伊東氏の侵攻に対する鹿屋城・高城・穆佐方面の攻防を記し、肝付・佐多・高城・山田諸氏ら島津方武将の戦功を列挙する。戦後の恩賞と所領確認までを収録する国史記事。
年月日未詳 / 冊子 266~267頁
薩摩・大隅二州で凶徒が蜂起し、伊東氏が山東方面へ侵攻した際の合戦を記す島津久豊譜。北郷・樺山・和田・高木・佐多・肝付・蒲生諸氏が各城で戦い、多数の死傷者を出した。久豊方は救援軍を送り、退却する伊東軍を追撃して拠点を回復した。国人連合の防衛と反攻を示す記事。
「大永六年」十一月廿一日 / 冊子 670頁
隈江匡久が山田安藝守に冬毛の皮を求め、初千代方の蒲生・邊川・佐多らの動向、北郷・北原方の和融が未成立であることを報じ、番城の用心と三夜留の準備を命じた書状。
寛永六年九月廿一日 / 冊子 111~113頁
樺山久高が、かつて差し出して蔵入となった所領や、その後の上地・返地・加増・移封の経緯を述べ、他家と同様の旧領返還を求めた申状。出水への召移し、二百石・八百石の加増、鹿児島への移住なども説明する。
建仁三年七月二十三日 / 冊子 80~92頁/原整理番号 19
建仁三年七月二十三日、遠江守が大隅国禰寝郡司入道の御下文を島津左衛門尉に送った旨を伝える書状。後続の長篇考証は建部清重・禰寝氏の出自を平維盛後裔説などと比較し、田代・佐多・菱刈・北原・栗野等の諸氏の婚姻、系譜、所領、合戦と所伝を検討する。
年月日未詳 / 冊子 16~17頁
佐多氏の譜として、忠直が延文四年十月五日に島津氏久に従って日向南郷国合で戦死したこと、弟の彦四郎・三郎四郎も同時または知らせを聞いて敵陣へ馳せ入り戦死したことを記す。家の重宝・爪切丸大刀が敵に奪われたとも伝える。
年月日未詳 / 冊子 175頁
佐多氏譜の記事として、武義が文和四年に生まれ、父忠直の戦死後に叔父備前守の養育で家督を継いだこと、禰寝氏に奪われた佐多城について応永四年に渋川満頼から安堵を受けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 630頁
佐多忠和について、文明九年丁酉の誕生、又太郎・伯耆守の称号などを記した佐多氏の系譜資料。
年月日未詳 / 冊子 81頁/原整理番号 338
建部清綱から清親・清治・清保・清成へ続く祢寝氏系統と、頼綱・親綱・親政らの佐多氏系統を示す系図。大和寺、佐多内の田地・屋敷、水田、南俣の領知や、親から子女への所領譲与、『古佐多系』の分流を記す。日付欠。
年月日未詳 / 冊子 313頁/原整理番号 152
山田聖栄自記が、総州山城守は隈城に住み、軍勢に囲まれて城戸で太刀打ちした後、残る兵も少なくなったと記す。山城守は自害して城を譲り他国を巡ることを相談したが、家と近臣の立場が危ぶまれ、近所に屋敷を預ける案も出た。平田重宗が伊集院方へ事情を披露して調整し、山城守は佐多氏の近くにある鹿児島和泉崎へ移り、道聖と称して子彦三郎と住んだ。その後の御屋形や伊集院方とのやり取りを聖栄自身の奉公体験として語る。
年月日未詳 / 冊子 314頁/原整理番号 156
久豊譜が、上総山城守忠朝は隈城の状況を不快として自害を望み、応永二十八年八月廿日に貴久を将とする軍が山北へ来て隈城を攻めたと記す。忠朝は城門で防戦したが少勢で退き、自害の期限を延ばして鹿児島に家を得、浮世の事を絶って念仏しながら死期を待つと訴えた。存忠の遅参兵が伊集院に居り、平田重宗が忠朝の訴えを御屋形へ伝えた。御屋形が訴えを受け入れると忠朝は下城して道世と称し、鹿児島和泉崎へ移り、子彦三郎と同居した。佐多氏の近隣に住み扶助を受けたという。
年月日未詳 / 冊子 631頁
佐多忠和が大永元年四月八日に四十五歳で没し、法号を俊翁道英居士としたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 780頁
佐多忠成の名乗り・系譜と、明応七年の出生、天文八年秋に薩摩国市来で挙げた戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 151
山田聖栄自記が、川野辺・知覧を重大な地とし、長門守は伊集院と親類で、南方の弓矢の柱として多年仕えてきたと記す。その働きで南方・阿多の処置が進み、大太郎から城の件を御屋形へ任せることとなった。御屋形は薩広郡・山門を受け取ったのち、長門守を知覧の七木場へ住まわせ、城を山田鮫島方へ明け渡させたという。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 336
内大臣平重盛から維盛・維清を経て、佐多氏の清重・清忠・清親・清治らへ続く系譜抄。大隅国祢寝郷との関係、佐多家の分流、御鹿倉・西方屋敷の由緒、光久からの褒賞、西方屋敷の氏神を山川から勧請したことなどを記す。日付欠。
元亨四年四月十八日 / 冊子 518頁
中津河湯原での狩に備え、祢寝院・郡司・佐多弥四郎・同九郎・田代大掾・伊佐敷らへ各五~十一人、計数十人の歩兵・狩夫を割り当てた沙弥円也の支配状。
年月日未詳 / 冊子 16頁
延文四年十月五日、島津氏久方が日向南郷へ進軍中に敗北した経過を記す譜記事。国合の戦いで佐多左馬助忠直・彦四郎・三郎四郎ら兄弟が戦死し、氏久は岩川・蓬原・救仁郷へ移動した。各地で援軍を求めながら安全な退路を探り、敗軍を収拾しようとした状況を伝える。
永禄十一年十二月十九日 / 冊子 204頁
日新没後の十二月十九日寅刻に葬列を整え始め、未刻に荼毘場へ赴いた葬儀を記す。荘厳は美麗で、佐多殿・北郷殿らが諸役を勤め、導師俊安雄和尚が松明を掲げて法語を唱え、読経・念誦ののち火葬を執行した。
年月日未詳 / 冊子 440頁
佐多氏譜から、忠成が又太郎・太郎左衛門尉・下野守と称し、嘉吉元年辛酉に生まれたことを記す短い系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 291頁
佐多氏の譜中に、久政に続く「忠常・又太郎・常陸介」の名乗りを列記した極短い記事。人物関係や通称を確認するための系譜的注記で、戦闘経過を記した文書ではない。
年月日未詳 / 冊子 494頁
佐多久慶の母が島津左兵衛尉久の娘であったこと、永禄年間の出生、天正十九年に三州の所領改替を受けて旧領知覧から河辺へ移ったことを記す。久慶が同年六月二十一日に没したことも載せ、佐多氏の婚姻と所領移動を簡潔に伝える譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 207頁/原整理番号 73
平清盛―重盛―資盛を祖系とし、実盛・国盛、時盛、存盛・兼盛以下へ続く古佐多氏の系図。時盛は伊豆守・野上田・伊予坊と記され、百引知行のため初めて当国へ下向して建部へ改姓したとする。存盛は父から佐多を譲られて佐多を号し、成盛は田代を譲られて田代二郎、さらに祢寝三郎を号して祢寝院を領した。久秀は宇治川で戦死して後継がなく、兼盛ら兄弟はそろって鎌倉へ上り各々定紋を賜り、兼盛は五梅鉢に上二引の紋を拝領したと記す。
正応二年八月廿一日 / 冊子 160~161頁/原整理番号 51
正応二年八月二十一日付、守護の御狩で左手馬・右手馬を担当する者の書分。左手には惣検校の税所介、河俣大掾、祢寝郡司、佐多氏らを、右手には加治木郡司、木田大掾、小河郡司、東郷郡司らを配する。守護代僧唯道は先例に従って怠りなく勤仕するよう命じる。季安は行間注で、これを御関狩の根拠となる先例とみる。
元亨四年正月廿七日 / 冊子 164頁/原整理番号 56
元亨二年正月二十七日付、来る二月五日の守護御狩における歩兵狩人の人数割当。惣検校・税所介をはじめ、曽郡司、河俣氏、祢寝郡司、佐多氏、加治木郡司ら多数の担当者について、それぞれの人数を列記する。