島津久基譜
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津久基の譜記事。久基は忠清の弟・忠栄の子で、初名を久盛、幼名を鎌菊、通称を弥市郎、官途を美作守・民部少輔といい、実父は入来院伯耆守重国であったと記す。伊集院源助久朝とともに六番組の与頭を務め、隅州牛根・薩州高尾野などの地頭を歴任し、延宝八年正月十二日に没した。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 225頁
島津久基の譜記事。久基は忠清の弟・忠栄の子で、初名を久盛、幼名を鎌菊、通称を弥市郎、官途を美作守・民部少輔といい、実父は入来院伯耆守重国であったと記す。伊集院源助久朝とともに六番組の与頭を務め、隅州牛根・薩州高尾野などの地頭を歴任し、延宝八年正月十二日に没した。
年月日未詳 / 冊子 49頁
久基が若年であるため、本田讃岐入道が諸事の下知に心を尽くしていることを島津義久が評価し、境目の重要案件では一層賢慮と才覚を働かせるよう求めた書状案。若年当主を補佐する現地有力者に、境界地域の実務と判断を託したことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 386頁
薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。
年月日未詳 / 冊子 378頁
島津忠清一流の系図。忠清の弟忠栄の子孫として久基・鎌菊・弥市郎・美作守・民部少輔らの名と出生・母・養子関係を記す。
正徳二年六月廿八日 / 冊子 14頁/整理ID 39
島津吉貴が種子島弾正久基に「久」の一字を与えた書出。正徳二年六月二十八日付で、末尾に吉貴の花押番号注記がある。
建武三年九月日 / 冊子 672頁
薩摩国満家院上原三郎久基が、国守護代官としての職務と所領沙汰を述べた申状。狼渡新左衛門尉秀雄の子大丸らが久基所領の神隠村へ乱入し苅田狼藉を行ったとして、関係者の証文・公事勤仕を根拠に、狼藉停止、身柄拘束、代官職・所領の保全を求める。
正徳四年九月十五日 / 冊子 156頁/整理ID 383
島津久基・久貫・久明が、薩州伊集院の来迎院について、南泉院を本寺とする旨や寄帳の別冊を確認し、従来どおり寺領を寄附することを連署で認める。
享保二年二月 / 冊子 300頁/整理ID 790
国許へ御判物と肝要な書付を送るにあたり、途中の秘密保持、経路や宿泊・荷物の取扱い、水路と陸路の判断、急ぎの送達に注意するよう種子島久基に申し渡した文書。
享保二年三月廿五日 / 冊子 310~311頁/整理ID 802
島津吉貴が三月十一日の両殿の登城と御条目の披露を踏まえ、座配図の差出し、条目・年寄役などに関する連絡と今後の伝達を、種子島久基・比志島範房らに命じた書付。三月二十五日付。
享保三年五月十八日 / 冊子 350頁/整理ID 927
種子島久基が南泉院僧正智周へ、釈尊涅槃画像一幅を寄進し、寺院に納めるよう願う副状。五月十八日付。
享保三年十月十五日 / 冊子 361~362頁/整理ID 966
種子島久基・島津久当・久武が豊見城王子と三司官へ、琉球国王の書状を拝見し、清国封王使への進物や謝恩使、武具贈答の件を伝える連署書状。
享保四年二月十八日 / 冊子 405頁/整理ID 1042
種子島久基が、琉球近海の抜荷・密貿易を禁じ、唐物の買い受けを慎み、疑いのある船と商人を取り調べて届け出るよう申渡す。
享保五年正月 / 冊子 429頁/整理ID 1125
種子島久基が、出水の賀志久利大明神を従来の薩州の宗廟から今後は薩州の総社と称するよう申し渡す文書。
享保六年七月廿一日 / 冊子 483頁/整理ID 1294
種子嶋久基が、比志嶋隼人を隠居方へ付けることや、加判・書付の伝達を家老らで相談し処置するよう申し渡す。
享保二年五月十日 / 冊子 457~458頁/原整理番号 46-1
享保二年五月十日、種子島久基と比志島範房が、豊前・長門沖を漂う唐船は抜荷を企てている疑いがあるとして、漂着時には武装した番船・追船を増やし厳しく追い払うよう伝える。唐船から発砲された場合は応戦も許されるが、長崎奉行への届出と、藩船が唐船に近づいて密売品を買わないよう沿岸での監督を求める。
享保八年二月 / 冊子 133頁/原整理番号 45
種子島久基が大御支配に際し、作人の多い外城から人手の足りない土地へ百姓を移す命令について、桜島からの免除願いを退ける。一方、桜島では近隣より夫仕が少ないことから、移住を免じる代わりに現用夫一人につき月二日を近名や御普請方の仕事へ出し、御普請では一人赤米五合を給すると定める。
享保九年九月 / 冊子 675~676頁/整理ID 1703
琉球の領内検地に際し、農民の負担と徴納を踏まえて急な改定を避け、検使への指示を慎重に行うよう申し渡す。
享保三年十一月~享保四年二月十八日 / 冊子 404~405頁/整理ID 1042
幕府の抜荷取締りの触状二通と、琉球近海の密貿易を禁じる種子島久基の申渡書を収める集合資料。
正徳三年九月九日 / 冊子 114頁/整理ID 266
島津久貫ら家老四名が、琉球から唐への渡航に要する銀位の悪化、進貢・接貢料の調達難、元禄・宝永の新銀との交換、江戸への取次ぎを報告し、今後も必要に応じて申し付けるよう伝える。
正徳三年九月九日 / 冊子 114頁/整理ID 267
島津久貫ら家老四名が、琉球から唐へ渡す銀の銀位が悪く調達に難儀しているため、元禄銀への吹替えを仰ぎ、早急に中山王へ伝える方針と幕府への働きかけを報告する。
正徳三年九月九日 / 冊子 114~115頁/整理ID 268
島津久貫ら家老四名が、琉球から唐へ渡す銀の吹替えについて子細を申し立てた結果、江戸の家老から承知の書付が届き、中山王へ伝えるよう命じられたことを報告する。
享保三年七月三日 / 冊子 350~352頁/整理ID 931
南泉院へ寄附した五百石の領地について、鹿児島郡伊敷村・増田村・大隅国始羅郡の村々と各門の高を列挙し、替地と収納の扱いを四名の連署で示した目録。七月三日付。
享保三年十二月廿五日 / 冊子 382頁/整理ID 1025
吉貴が本地院の寺領二十石に五石を加増し、合計二十五石とする知行目録。薩州郡山の地を挙げ、家臣三名が判を据える。
享保三年十二月廿五日 / 冊子 382~383頁/整理ID 1026
吉貴が先年寄附した寺領に五石を加増し、薩州郡山の地について普賢院に渡す知行目録。家臣三名の判を付す。
享保三年十二月廿五日 / 冊子 383頁/整理ID 1027
吉貴が寺領に五石を加増し、薩州吉田の地について曼荼羅寺に渡す知行目録。家臣三名の判を付す。
享保五年二月十一日 / 冊子 430~431頁/整理ID 1132
島津久貫ら四名が豊見城王子・三司官へ、越来王子の江戸での拝謁、贈答・儀礼に関する手続きを伝える連署状。
享保五年二月十一日 / 冊子 431頁/整理ID 1133
島津久貫ら四名が豊見城王子・三司官へ、謝恩使の宮城親方が江戸へ赴き献上物を届けたことと、贈答への返書を伝える連署状。
享保十二年九月十八日 / 冊子 756頁/整理ID 1987
南泉院に鹿児島小野村の高五石八斗余を寄付する件につき、鹿児島小野村浮免に替えて野菜地から同量を取分け、南泉院へ付けることを証する三名連署状。
宝永六年九月九日~正徳元年十一月廿二日〈系譜前歴を含む〉 / 冊子 875–876頁/整理ID 2868
薩州家備前守忠清後嗣久基の記事。久基は新納市正久珍の二男として生まれ、元禄十四年に元服した。宝永六年九月九日、吉貴に側小姓比志島範房から伝えられて出仕する。忠清家が無後断絶した事情とその先祖・家格を述べ、忠清の玄孫久基に三男家ではなく二男家の格で継承させ、家老直触とする。十月十六日家紋衣服拝領、十一月十三日六郎次郎命名、十五日太刀・馬代銀一枚・二種両樽献上を記す。正徳元年十一月二十二日には二男以下の称号を改め栗川とする証帖を賜った。
正徳五年四月廿三日 / 冊子 220頁/整理ID 508
神殿を火災で失った西霧島権現の再興に際し、幡三十二流を寄進する旨を記す連署状。幡の一部を社壇に掛け、残りを社庭に立てる。
正徳五年十一月十一日 / 冊子 240頁/整理ID 586
永泰寺に大中様の御位牌を安置して三箇国の守護を祈るに当たり、仏餉料として八木四俵を毎年寄附することを四名が連署で証する文書。
享保三年七月廿六日 / 冊子 352~353頁/整理ID 935
吉祥院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・串木野、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 353頁/整理ID 936
実相院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・市来、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 353~354頁/整理ID 937
観樹院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・串木野、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保六年閏七月六日 / 冊子 485頁/整理ID 1298
家老三名が継豊へ、太神宮の当家代々の祈祷料として銀子十枚を毎年奉納する件につき、家督交代後もこれを怠らぬよう求める。
享保七年七月廿八日 / 冊子 567頁/整理ID 1437
家久の江戸参府時に後水尾院から拝領した二管と、別の火災で焼失した一管について、後代の由緒伝承を記す。
享保八年四月十六日 / 冊子 612頁/整理ID 1541
吉田宮之浦村と郡山村のうち高二十五石の土地を挙げ、花尾権現再興に伴う寄附知行として示す。
享保八年四月十六日 / 冊子 612~613頁/整理ID 1542
花尾権現の再興をめぐり、高の買入れと寄附がなされたことを証し、以後の勤行と相続を求める。
享保八年五月三日 / 冊子 615頁/整理ID 1549
彌勒院の不断護摩料として銀を表方へ預け、利銀を年ごとに受け渡す手順と、後年の納入額を定める。
享保十二年十月廿六日 / 冊子 761~762頁/整理ID 1996
墓石塔の高さと代銀、寄合の取扱い、井垣や棺等の葬礼用具の寸法・代銀を定める。石切・棺屋など関係者に規格と手順を申し渡し、定めと異なる取扱いをしないよう指示する。
享保十二年丁未十二月十五日 / 冊子 766頁/整理ID 2012
島津継豊が彌勒院へ紺紙金字の普門品一帖と雪舟筆の観音画像一幅を寄付したことを、六名連署で伝える。国家安寧・武運長久などを願い、書籍・画像を永く寺宝とするよう申し渡す。
享保十五年九月朔日 / 冊子 92頁/整理ID 144
山口五郎太夫に飯野末永村内の高五百五拾石を与える知行目録。
享保十六年七月十一日 / 冊子 137~138頁/整理ID 278
鉄牛禅師の手書一軸と語録内外全集十九冊を壽國寺に納置し、寺宝として永く伝えることを認めた連署証状。
享保十九年四月四日 / 冊子 251頁/整理ID 629
寿国寺へ薩摩・大隅・日向の七村から合計高百石を付与し、寺領として安堵する。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 305~307頁/原整理番号 143
久豊譜が、松尾城を守る酒匂紀伊守が変心し、知覧七木場へ来た長門守の知らせで守備と援兵を整えたと記す。頼久も三百余を率いて来て城は堅く、諸地域から集まる救援軍は平川などに分かれて陣を張り、兵糧を運び渡海して近づいた。城中は兵糧と水路が絶え、脱出・和睦を相談したが頼久は戦場の勝敗は時の運だと答えた。九月十一日、渡河して垣を越えた戦いでは先発隊が敗れ、隈江・上井・安楽・川野土佐らの戦死、平田重宗が近江守を救い敵中へ切り込んだ奮戦、双方の多くの死傷を詳記する。吉田・蒲生が頼久と解囲を相談し、鹿児島・谷山・給黎をめぐる領有を条件として松尾方が城を明けて帰った。久豊は戦死者を悼み親類に報恩を求め、頼久の降伏後は谷山・給黎・石谷・雪松尾などを領したという。
年月日未詳 / 冊子 414~416頁/原整理番号 158
義久への奉公を申し出た隈本の城親賢父子と道観の交渉を述べる。諸島の協力者を結び、出水の兵船と三百余騎を用いて高橋へ上陸した。筑前諸氏の働きも報告し、十月十五日、矢崎を陸海から攻めて火矢・放火・討取りにより落城させた。城主らの敗走と死を記し、翌日青田へ進み、三日間宇都に留まって負傷者を養生させ、戦死者を弔った。十月十九日の諸軍の陣替えと、上原・黒木・貴島・宮原らの戦死にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 416~417頁/原整理番号 159
道観の報告を受け、肥後進出を評定して佐多常陸守を大将とし、川上・上原・宮原らを添えた。天正八年六月中旬に出水米の津から出船し、高橋へ上陸して城親政父子や鑑高・鑑弘らと内談した。阿蘇方の宗連が矢崎城主らを味方につけたため進出は難航したが、筑前諸氏は忠節を申し出た。忠元・伊集院・道観らが矢崎攻めを決めると、城側が通路を塞いでいたことを理由に親政父子も協力する意向を示した。
享保七年十月 / 冊子 591頁/整理ID 1482
琉球で十年ぶりの検地を行うため、土地と戸口の確認、役人の配置、検地手続の申し渡しを伝える。
享保七年十月十八日 / 冊子 592~593頁/整理ID 1484
琉球で検地を実施する理由と、国司・役人への指示を記し、国王にも申達するよう命じる。