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HP-1646巻之三43~44頁注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

北郷三久

異名・検索語:北郷三久/北郷加賀守三久/忠尭/忠堯/千代鶴丸/宗次郎/作左衛門/佐渡守/加賀守/義山忠孝庵主

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:再渡海段落は本文で慶長元年と記す。南原・泗川等の年次を本文外の通説で補訂せず、説明では再渡海年を断定しない。/忠虎病没を文禄3年とする本条と、忠虎条の慶長3年の没記事が一致しない。家督代記事の年次と合わせて留保する。/引用書状は長千代丸17歳までの附属を命じ、後段は慶長4年10歳で家督譲渡と記す。双方を保持し家督代の終期を補正しない。/明軍人数・首級数は本文の軍記的記数であり、確定した実数として説明へ採らない。高城に先行する旧領名の字形同定は留保。

DESCRIPTION

本文内容説明

時久の三男。母は北郷左馬介忠孝の娘。天正元年3月10日生、初名忠尭、幼名千代鶴丸、宗次郎・加賀守などと称した。竜伯の上洛、久保の小田原・奥州行きに随行。文禄2年に朝鮮へ渡り、翌年帰った。兄忠虎の死後、幼い長千代丸(忠能)の家督代を命じられた。文禄4年には高城などの領地を召し上げられ、平佐など7か所・1万1540石余へ所替えとなった。再渡海して南原・泗川で戦い、本文は泗川で明兵と馬上の組み討ちから落馬し、忠恒に救われたと記す。帰国途上の海戦では部下に多数の死傷者が出た。慶長4年の庄内一乱では長千代丸の後見として祁答院宮之城の兵を率い、同年に家督を譲った。元和元年、大坂御陣に268名を召し連れた。同6年4月19日没、48歳。法名義山忠孝庵主、墓は平佐梁月寺。

系譜・人物関係

時久入道一雲の三男、母北郷左馬介忠孝女。兄忠虎の嫡子長千代丸(忠能)の家督代・後見。母小注は初め忠平に召し仕えた後時久妻となったと記す。北郷勝右衛門久兼ほか海戦戦死者は部下で本人と区別。

奉公・役職

天正16年竜伯初上洛に兄弟随行。18年久保小田原陣の騎馬16騎の内、奥州まで随行。9月7日久保上京、8日竜伯の招きで随行者へ酒。文禄2年10月渡海、翌年11月帰朝、兄忠虎より高城を付与。本文は同3年忠虎病没、翌7月三久へ家督代と記す。文禄4年7月5日義弘・竜伯連署書状を引用し、讃岐守直の子は若年のため宗次郎を名代、長千代17歳まで附属とする。10月7日高城等召上げ、平佐・天辰・宮里・高江・隈之城・久富木・川上7か所11540石余へ所替え。

軍役・事績

再渡海段落は慶長元年、義弘随行・加徳島在番、南原城攻め、騎馬武者射撃、海南城・忠清道進出、洪水の大河で先陣渡河を記す。続く3年4月帰帆催促に種子島久時と返答、10月朔日泗川で明兵と組み討ち落馬、忠恒が救援し東野又兵衛に首を持たせる。11月18日帰国途上海戦、部下久兼・竹下喜平等が戦死、ほか手負多数。21日唐島、22日昌原、24日釜山浦出帆し牧島、12月10日博多帰陣。慶長4年庄内で長千代丸後見、祁答院宮之城兵を召連れ、同年10歳となり家督譲渡。元和元年大坂御陣人数268名。

生没・法名等

天正元年3月10日生。元和6年4月19日卒48歳。義山忠孝庵主、墓平佐梁月寺。没地は本文に明示しない。平佐を墓所から没地へ転用しない。

統合人物ID
HP-1646
原人物ID群
03-043-01
氏・分類
北郷
掲載巻頁
巻之三43~44頁
主題・活動
竜伯久保随行・忠能家督代・平佐所替え・南原泗川海戦・庄内後見・大坂御陣
人物関係要約
時久入道一雲の三男、母北郷左馬介忠孝女。兄忠虎の嫡子長千代丸(忠能)の家督代・後見。母小注は初め忠平に召し仕えた後時久妻となったと記す。北郷勝右衛門久兼ほか海戦戦死者は部下で本人と区別。
検索キーワード
北郷三久/忠尭/忠堯/千代鶴丸/宗次郎/作左衛門/佐渡守/加賀守/時久/忠孝女/忠虎/忠能/長千代丸/竜伯/久保/小田原/奥州/家督代/高城/平佐/11540石余/義弘/南原/泗川/忠恒/東野又兵衛/海戦/久兼/竹下喜平/庄内/祁答院宮之城/大坂御陣/268名/元和六年四月十九日/48歳/義山忠孝庵主/梁月寺
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
AI・通常全3頁と原冊照合済み。大坂268名に訂正、渡海・家督代の年次留保。
公開判定根拠
家督代と軍歴、元和6年没・墓所を確認。大坂人数を原冊で訂正、本文の年次不整合を注記して公開。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
本文境界判定
AI・通常各全3頁と原冊冊子43~44頁/第1分冊PDF55上下・56上を照合。見出しから引用書状、軍歴、没年法名・平佐梁月寺墓まで同人。第2頁末の部下戦死記事は第3頁冒頭へ続き、別伝ではない。次の北郷佐渡守久加は別条。本文・傍注の欠落混入を認めずPDF変更・新IDなし。HP-1646/03-043-01維持。
判読保留
再渡海段落は本文で慶長元年と記す。南原・泗川等の年次を本文外の通説で補訂せず、説明では再渡海年を断定しない。/忠虎病没を文禄3年とする本条と、忠虎条の慶長3年の没記事が一致しない。家督代記事の年次と合わせて留保する。/引用書状は長千代丸17歳までの附属を命じ、後段は慶長4年10歳で家督譲渡と記す。双方を保持し家督代の終期を補正しない。/明軍人数・首級数は本文の軍記的記数であり、確定した実数として説明へ採らない。高城に先行する旧領名の字形同定は留保。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』