北郷三久譜
年月日未詳 / 冊子 840頁
北郷三久譜は、関ヶ原合戦後、島津忠恒が初めて山城国伏見へ上洛した際、北郷三久が供奉の列に加わっていたことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 840頁
北郷三久譜は、関ヶ原合戦後、島津忠恒が初めて山城国伏見へ上洛した際、北郷三久が供奉の列に加わっていたことを記す。
慶長六年正月廿八日 / 冊子 744-745頁
日向国諸県郡の志和知・水流村など各地の知行を列記し、合計千石を北郷三久へ加増する目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
年月日未詳 / 冊子 237~238頁
北郷三久は祖兄の忠虎と十月十日に庄内を発ち、肥後で島津義弘の軍に加わって豊後南郡へ進攻した。鳥嶽城攻めでは北郷勢が先陣を務め、兄弟が城内の屋上へ登って軍を指揮し、敵兵を討ち取った戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 339~340頁
島津義久が泰平寺で秀吉に降伏した一方、北郷一雲・忠虎らが荘内でなお服属しなかったため、北郷三久が交渉と上洛を担った経過を記す。北郷側は追加の人質を出し、三久は上方で奉公した後、筑前箱崎で秀吉に拝謁して道服を賜り、約束どおり日向三俣院千町の朱印を受けた。北郷氏の抵抗から服属・知行安堵までを示す。
年月日未詳 / 冊子 543頁
文禄元年春、北郷三久が秀吉の朝鮮出兵命令を受けた島津義弘・久保父子に従い、朝鮮の陣に加わったことを記す。従軍中に数多くの城郭攻略へ参加して戦功を挙げたとする、三久の軍歴記事。
年月日未詳 / 冊子 614頁
文禄元年冬、島津義弘・久保父子が諸将の評議に応じ、永平城や江原道金化方面の警備・移動に従ったことを記す。 北郷三久が両公に従軍した事績として、朝鮮出兵初年の島津勢の配置と行動を家譜に残した記事。
年月日未詳 / 冊子 687頁
文禄二年初夏、沈惟敬の講和提案に三奉行が同意したため、島津義弘・久保父子が金化から釜山浦へ退いたことを記す。 同年七月、秀吉の命で義弘が巨済城へ移ると北郷三久も従い、その後三年間にわたって同城の警衛を務めたという、三久の朝鮮在陣経歴を伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 899頁
北郷三久の幼名・通称・官途と、天正元年三月十日の出生、母が北郷左馬助忠孝の娘であることを記す。 北郷家の系譜上の位置と、後続する家督補佐・相続関係を理解するための基礎となる譜記事。
年月日未詳 / 冊子 900頁
本文は「二五五五号文書と同文」として省略され、この箇所には北郷三久譜の具体的記事が転記されていない。 内容の確定には参照先文書との照合が必要なため、推測せず同文関係のみを記録する。
年月日未詳 / 冊子 918頁
北郷三久は所領替えにより日向国三俣千町から、薩摩国平佐・天辰・高江など高一万一千五百四十余石へ移された。 平佐を居城と定めたことを記し、続く返地目録の背景となる北郷氏庶流の移封経緯を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 133頁
『北郷三久譜』から、秀吉の朝鮮出兵命令により北郷三久が軍代として兵を率い、義弘・忠恒らと南原城攻略に参加した記事。八月十五日夜の攻城で戦功を挙げたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 145頁
『北郷三久譜』から、義弘が全羅道海南から忠清道へ向かった際、幅六、七町ほどの大河が満潮で渡りにくかったため、北郷三久が衆に先んじて渡河した記事。これを見た諸軍も後に続き、忠清道へ入ったとする先陣の戦功を記す。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『北郷三久譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新寨攻防で北郷三久が危地を脱した経過を記す記事。三久は明兵と組み合って両者の馬の間に落ち、死にかけたところへ島津忠恒が駆けつけ、相手の明兵を斬って救った。その後、三久は忠恒とともに明兵を追撃して多くを討ち、名誉を得たとする。
年月日未詳 / 冊子 282頁
『北郷三久譜』の記事。慶長三年十一月、明・朝鮮水軍が日本軍の帰路を遮り、順天の小西・大村・五島・有馬・松浦の五家が撤退できなくなったため、島津義弘が立花・高橋・寺沢らと相談して救援に向かったとする。十一月十八日の南海海上で、矢と火壺を受けながら三度敵船へ攻めかかり、勝利した経過を簡潔に記す。
九月十五日 / 冊子 436頁
北郷三久が、島津忠恒から野々三谷での軍功を賞する書状を受け取り、面目に存じて拝領したと述べる。今後も忠勤に励むので、その旨を忠恒へ披露してほしいと頼む。本文はNo.882と同文のため原資料では省略されている。
(慶長四年)九月十五日 / 冊子 437頁
北郷三久が、島津忠恒から野々三谷での軍功を賞する書状を受け取り、面目に存じて拝領したと述べる。今後も忠勤に励むので、その旨を忠恒へ披露してほしいと頼む。
年月日未詳 / 冊子 539~540頁
慶長五年五月四日、北郷三久の七年間にわたる軍功を賞し、采地千石を加増したことを記す。
慶長六年正月二十八日 / 冊子 744頁
北郷三久譜に、慶長六年正月二十八日に采地千石を加増され、その詳細は国老連判の証書にあると記す記事。証書本文は後掲されるが、三久譜本文には見えず疑義があるとの史料注記も付く。
八月廿日 / 冊子 68頁
北郷三久が、普請関係の藤右衛門に相談したところ三日以前に諸所へ出たと聞いたため、呼び寄せて普請・地頭所の件を相談するよう依頼する。割付を受けた場所に呉儀があるとも述べ、現地での処置を求める。
年月日未詳 / 冊子 339頁
島津義久が娘を人質として差し出し鹿児島へ帰った後も、北郷一雲・忠虎らが都城・安永・末吉・財部の砦を守って秀吉の命令に従わなかった経過を記す。秀吉は出頭しなければ征伐すると迫り、本知安堵の代わりに別の人質と在京奉公を要求した。北郷三久らの上洛と、北郷氏が服属条件を受け入れる過程を伝える。
年月日未詳 / 冊子 898~899頁
川上忠高が人質として上方へ赴く島津忠清に随行し、伏見で忠清の病没に立ち会った経過を記す。 さらに川上忠虎の朝鮮病没後、幼い長千代丸が成長するまで北郷三久が家督を補佐し、のちに家を返した支流の成立事情を伝える。
文禄4年7月5日 / 冊子 899頁
北郷忠虎の実子が幼少のため、宗次郎こと北郷三久を名代として諸職を勤めさせ、長千代丸が十七歳になるまで家督を補佐するよう認める。 若年相続人を保護しつつ家の継続を保証した、竜伯・義弘連署の家督証状。
年月日未詳 / 冊子 144~145頁
『島津義弘譜』から、明将李如梅による星州方面への攻撃と日本軍の交戦、南原・全州落城後の諸軍の分進を記す。義弘・忠恒父子が全州から海南を経て忠清道へ向かい、渡舟の少ない大河で北郷三久を先陣、伊集院忠員を後陣として渡河し、関山・箭川を経て全羅道へ戻った経過を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 145頁
『島津家久譜』から、南原落城を知った全州住民が倉庫を焼いて逃散し、明将陳愚衷も城を捨てたことを記す。日本軍が全州から海南へ進み、義弘・忠恒父子が大河を北郷三久・伊集院忠員の前後陣で渡って忠清道へ入り、箭川を経て十月二十八日に慶尚道泗川古城へ退いた経過を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁
北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七月十三日の志和池・野之三谷の戦いでは味方が敗走したが、長千代丸の兵が三王門を支えて追撃する敵を退けたとする。
年月日未詳 / 冊子 830頁
某自記は、慶長七年八月一日に島津忠恒が鹿児島を出立し、北郷三久らを従えて日向野尻に滞在した経緯を記す。十七日に伊集院忠真とその兄弟・母らを各地で誅殺し、上洛へ向かった。
年月日未詳 / 冊子 875-876頁
島津家久譜は、徳川家康から帰国の暇を得た忠恒が伏見から大坂へ向かう前、宇喜多秀家の処遇について山口直友へ密かに相談した経緯を記す。忠恒は島津忠仍と北郷三久を伏見に残し、関ヶ原後に薩摩へ逃れた秀家の助命・取成しを図った。
年月日未詳 / 冊子 8頁
北郷三久が島津忠恒を平佐の館へ招いて盛膳を献じた際、二歳の北郷久加が初めて忠恒に拝謁したことを記す譜記事。奏者は鎌田出雲守政近であった。
年月日未詳 / 冊子 741~742頁
島津歳久一流の系図。忠隣室となった娘、忠隣戦死後に入来院重時へ再嫁した女性、北郷三久室から離別後に伊集院久洪へ再嫁した女性など、歳久の娘たちの婚姻・再婚と母方を記す。
年月日未詳 / 冊子 351頁
長千代丸が幼少であったため、叔父の作左衛門尉三久が文禄三年冬から軍代を勤め、慶長四年に長千代丸が十歳で家督を継いだことを記す。
慶長五年五月四日 / 冊子 540頁
島津忠長と平田増宗が連署し、加増高二千七百三十石のうち、庄内下川路有水の高千石を北郷作左衛門尉に与えることを示した加増目録。
年月日未詳 / 冊子 731頁
北郷忠虎以下の系図。外城を称した女子の比志島義智への婚姻、三久の生年と母方、五年間京都で人質となり肝属院小原村二千石を賜った久村、十七歳で人質上洛後に没した忠頼らを記す。
年月日未詳 / 冊子 733~734頁
北郷時久の三男三久を祖とする庶流系図。三久の生没年・母方・法名、娘の鎌田政喬への婚姻、久加・久精以下の家系と伊集院・伊勢・相良氏への養子・婚姻関係を記す。
五月二十二日 / 冊子 11頁/原整理番号 189
北郷三久が本田左市・惣次郎に、船の手配や出陣供衆の選定、仕度を談合して早く決定するよう求めた書状。京都での聞こえにも関わるため相談のうえ分別すること、久次郎の供についても取り計らうことを依頼する。五月二十二日付。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
年月日未詳 / 冊子 711頁
島津義弘の死に際して殉死した家臣たちについて、氏名・年齢・没日を列記した殉国者名簿。
年月日未詳 / 冊子 466~467頁
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、関東の諸将へ参陣を命じ、北条方への加担を禁じた条書を掲げる。 島津久保の隊列や供奉人数、北条氏滅亡後の奥州進軍までを記し、豊臣政権による東国平定の軍事編成が分かる。