島津義久譜
天正八年五月十三日~十五日 / 冊子 654頁
相良義陽が大友軍の日向侵攻に乗じて大口城を狙ったが、新納忠元が守り抜いた。相良氏が阿蘇惟前と結んで宝川内城を固めたため、義久は平田又次郎を通じて攻撃を命じ、忠元・忠尭らが天正八年五月十三日に攻めた。平田又次郎・本村十介・園田掃部が戦死したが、十五日に城を落とし、岩牟礼・釘野方面へ進出した。
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天正八年五月十三日~十五日 / 冊子 654頁
相良義陽が大友軍の日向侵攻に乗じて大口城を狙ったが、新納忠元が守り抜いた。相良氏が阿蘇惟前と結んで宝川内城を固めたため、義久は平田又次郎を通じて攻撃を命じ、忠元・忠尭らが天正八年五月十三日に攻めた。平田又次郎・本村十介・園田掃部が戦死したが、十五日に城を落とし、岩牟礼・釘野方面へ進出した。
天正八年五月~十二月 / 冊子 654~655頁
天正八年五月、忠元らが宝川内城を攻め、忠尭が先駆けして鑓を合わせ、平田又次郎らが戦死する中で攻略し、柊野・岩牟礼も島津領とした。六月以降は熊本の城親賢救援を進め、鎌田政年らを派遣。十月に矢崎城を焼き攻めて落とし、翌日網田城を降伏させた。十一月には合志領へ進み、大津山越前守以下百三十余人を討ち、十二月に帰陣した。
天正八年十一月十三日 / 冊子 656頁
天正八年十一月二十三日、佐多久政を将として、新納忠元・忠尭、川上忠智、肝付兼寛、上原尚近、比志島国貞らが大軍を率い、肥後合志城を攻めたことを記す。
天正八年五月十三日~十一月 / 冊子 656~657頁
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
天正八年十一月十三日 / 冊子 682頁
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
天正八年十一月十三日 / 冊子 679頁
十一月二十三日、島津軍が二手に分かれて合志表へ出て久保田千町を焼き、退却時に大津山越前守率いる約四千騎の追撃を受けた。伊集院久治が太刀始めをして負傷しながら敵を討ち、諸将が反撃して大津山越前守以下百三十余人を討ち取った後、熊本へ引き上げた。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。