知政所達書(地頭任命)
明治3年11月(目録) / 冊子 771頁/原整理番号 987の9/整理ID 987-9
加藤権兵衛を長島地頭に任じ、関係向々へ知らせる。本文切片には年月日署名がなく、年・月は目録による。
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明治3年11月(目録) / 冊子 771頁/原整理番号 987の9/整理ID 987-9
加藤権兵衛を長島地頭に任じ、関係向々へ知らせる。本文切片には年月日署名がなく、年・月は目録による。
明治10年3月3日 / 冊子 967~968頁/原整理番号 1244の1/整理ID 1244-1
鹿児島裁判所在勤の長島鎮太郎・郡司盛武・小川重任らが、西郷隆盛らの上京と征討による県民の窮状を憂え、非常の裁断を願う上奏を提出する。中原尚雄らによる西郷暗殺計画とされる供述を根拠に、原に遡って首謀者を法律で処分し、人民を塗炭から救うよう訴える。供述・県内事情への判断は上奏者側の主張として記す。
至徳元年閏九月二十三日 / 冊子 119~120頁/原整理番号 5
至徳元年閏九月二十三日の犬追物について、二組の射手と犬数、検見役を記す手組。島津・伊東・渋谷・牛屎・長島・天草・佐敷ら南九州諸氏が参加する。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
建仁四年二月十日 / 冊子 103頁
宮里郷地頭紀正家が志奈男社へ修理料田を寄進した文書。字井□の田三段と長島一所を掲げ、荒野化した社領の再興、郷の鎮守としての神威、息災祈祷と社殿修造を目的に寄進し、社家へ永く知行させる。
永禄八年 / 冊子 138~139頁
永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。
(慶長十年)三月五日 / 冊子 7~8頁
本田正親が大井右京亮へ、今回の知行配当では先祖以来の由緒を訴える取次が法度によりできないが、後日適切な時期に申し出れば尽力すると答えた書状。以前、水俣に肥後勢がいた際、大井が黒渡の船などを手配して長島への交通を確保した功績を忘れておらず、将来披露すると約している。
(元和六年)閏十二月廿九日 / 冊子 739~740頁
喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
文化7年5月8日入領、9月2日・18日出境(今茲夏)。末注文化6年12月16日条参照 / 冊子 353頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1096
天文方伊能勘解由(忠敬注)・坂部貞兵衛(惟道注)が諸国を測量しており、各御目見以下の注を付す。今茲夏5月8日、領内の志布志に入り、福山に至って二班となって各所を測量した。9月2日、貞兵衛が加久藤から肥後人吉へ向かい、同18日、勘解由が長島から出境して去ったと記す。詳細は斉興譜を見よとし、斉興公譜は全文が同じで末尾だけ差があるとの説明も付す。編者按は重豪譜にも詳細は斉興譜とあるが今は詳しく記せないとし、なお文化6年12月16日条の記載を参照するよう述べる。入領・二班への分割・それぞれの出境日を区別し、参照先の具体記載や今回の本文にない全行程を補わない。
辛未正月10日知政所 / 冊子 785頁/原整理番号 1002の4/整理ID 1002-4
出水・野田・高尾野・阿久根の地頭に有馬新助、鹿屋・姶良・大姶良・高隈の地頭に加藤権兵衛を繰替任命し、長島地頭に伊集院直二を任命する。関係向々へ申し渡すよう命じる。辛未正月十日知政所。
年月日未詳 / 冊子 775~776頁
吉満久張を祖とする系図。久張の長島戦死、忠良・忠根・忠氏・経繁・経保以下の生没年、出水・野田・現月の諸士との婚姻・養子関係を記す。
正月廿八日 / 冊子 18頁/原整理番号 23-2
島津久賀・喜入忠政が入来院重国・北郷久加へ、正月二十六日に上津浦の番手を受け取ったこと、使者川野監物が有馬から帰ったことを報告する。島津久元の意向として北郷久加一人を富岡城への使者に急がせ、山狩が済み次第、当地と亀之川の兵を上津浦へ移すよう船奉行と協議することを求める。長島からの兵糧船二艘が遅れているため小舟で捜索させ、出水にも兵糧船を要請したこと、在郷改は山狩後まで見合わせること、細川忠利は有馬に着き久元の陣を見舞ったが城攻めの時期は未詳であることを伝える。さらに島原から届いた御袖判条書の写しを送り、同地と亀之川の衆へ急ぎ申し聞かせるよう命じる連署書状。
正月廿九日 / 冊子 25~26頁/原整理番号 39-4
喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、その地での逗留をねぎらい、兵糧不足のため余分に召し置いた軍勢を順次帰すよう将州老から命じられたので、両人の人衆の一部を帰したと報じる。当地へ渡った人数は本文に「都合七千九萬」とあるが、季安は「七千九百之誤也」と注し、このうち三千余は有馬へ渡り、残りは当地にいるという。長島から米約七百石を積んだ三艘のうち、一艘は「かうね」に残る石州・佐州の人衆用に残し、二艘は上津浦へ向けたが悪風のため未着なので、現地の物奉行と早急に継続輸送を相談するよう求める。今後の兵糧船・使船は上津浦へ送り、全軍勢を一両日中に当地へ揃える予定で、細川越中守殿衆へ早く派遣せよとの命令を受けて二千人を二十六日に受け取ったこと、鹿児島への早使、小舟の多数準備も伝える。追而書で、大小三艘を送り、必要な者を乗せるよう指示する書状。
二月朔日 / 冊子 51頁/原整理番号 72
島原方面への出陣準備をまとめた覚。御殿東之丸、旗・馬験・持筒・持弓などの配備を定め、有馬三千余・天草四千九百余・出水三千三百余・船頭水手二千余、合計一万三千余の出陣人数を記す。薩州様の獅子島・長島間からの渡海、仮屋・陣屋・船・兵糧の準備を指示する。
二月二日 / 冊子 56~57頁/原整理番号 84
川上久国・三原重庸が米之津の市来八左衛門宗友へ、有馬から届いた文箱を同地へ送り返すこと、黄門様の快方、薩州様の着船遅延を伝える。薩州様出陣に備えて外城衆を長島に待機させ、供衆・船・兵糧・台所調物を川上彦左衛門、岩切六右衛門、松山六兵衛らと調整するよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 58頁/原整理番号 85-3
伊地知季安の記事。御船奉行土持平右衛門綱辰が長島から上津浦へ到着したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 393
伊地知季安が、長島衆の宮原半右衛門景為には『此日』合鑓の軍功があり、その証文は大口衆の肱岡左近允が出したもので、今仁礼伴太夫付郷士・宮原三左衛門家に所蔵されると記した記事。
年月日未詳 / 冊子 443~444頁/原整理番号 554-1
有馬・天草両陣と獅子島・長島番手の延べ人日を集計する。鹿児島衆十六万二千百六十六、外城衆二十六万七千二百九十六、出水・阿久根・高尾野衆一万五千九百六十五、長島等の自飯米衆三千五百八十二で、計四十四万九千九人日。内訳は人躰二十万八千七百七十、被官・夫二十四万二百三十九である。併記の銀子は元銀四貫四百五十五匁、利銀十貫二百八十三匁三分五厘、本利合十四貫七百三十八匁三分五厘一毛。期間を寛永十四年十二月から「慶喜二年」二月まで七十七か月と記すが、後続の編者記事は慶喜二年を偽説とする。本文末の日付は寛永二十一年二月五日だが、目録日付は空欄である。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 444頁/原整理番号 554-2
有馬出陣衆の延べ人日を一日賦で集計する。鹿児島衆五万七千七百四十一人日は人躰三千七百五、小者・夫五万四千三十六。外城衆十一万一千二百十三人日は人躰六万九千六十九、小者・夫四万二千百四十四。獅子島・長島番手の外城衆一万五千九百六十五人日は人躰一万一千五百九十九、小者・夫四千三百六十六。長島・西目・大瀬・小瀬の地下衆自飯米三千五百八十二人日を加え、総計十八万八千五百一人日、人躰八万七千九百五十五、小者・夫十万五百四十六とする。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 444~445頁/原整理番号 555
有馬出陣衆の延べ人日を一日賦で集計した別本で、鹿児島衆五万七千七百四十一、外城衆十一万一千二百十三、獅子島・長島番手の外城衆一万五千九百六十五、長島・西目・大瀬・小瀬の地下衆自飯米三千五百八十二、総計十八万八千五百一人日とする。人躰八万七千九百五十五、小者・夫十万五百四十六で、前文書と同じ集計内容だが、本文中には訂正字がある。
寛文十二年十一月廿五日 / 冊子 271~272頁/原整理番号 30
木脇祐春に与えた百石について、近習役の役分地であった知行を、吟味役への任命と長島での騒動を鎮めた功により永続のものとした旨を記す名寄の奥書を引く。
慶長四年二月七日 / 冊子 351~352頁
島津忠恒が領内統制のため、奉公人・百姓の他領奉公や無断離脱を禁じ、逃散者を返還させること、諸浦の船着料を鹿児島の先例どおりとし肥後から来た水主・百姓を返すこと、瀬崎・出水・阿久根・長島・網津の牧を維持して野馬を乱暴に扱わないことを定める。さらに肥後境の争論は上申させ、旅人への刃傷・殺害には近隣村を連帯責任とし、市町の押売・押買を禁じ、刃傷・殺害を伴う喧嘩は安否にかかわらず双方を成敗するとする。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1208
同年六月七日からの幕府浦廻上使高林又兵衛貞義・向井八郎兵衛正興の領内巡行を記す。日向福島を経て志布志へ入り、光久は岩切六右衛門信吉・相良民部左衛門頼常を郷導、歩行十四人、船奉行鎌田五太夫政辰、殿役奉行谷山平左衛門忠宣が率いる荷担人馬等を手配する。内之浦・大泊・佐敷・小根占・高洲・垂水・桜島・福山・加治木・脇本・鹿児島・喜入・山川などの泊休・迎接を記し、鹿籠・片浦・白木野・阿久根・長島等を経て二十五日に米之津から肥後へ出船する。郷導・挽舟・乗船を継送し接待する。
明治6年8月4日大山綱良 / 冊子 924~925頁/原整理番号 1156の1/整理ID 1156-1
加治木、隈之城、垂水、知覧、種子島など六支庁の所在地を定め、吉田・桜島・郡山・伊集院、出水・高城・長島、沖永良部等を含む各支庁の管轄郷村を列挙して周知する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 623~628頁/原整理番号 671
寛永十五年正月から三月まで、志布志・高山・市来・出水・姶良・大口・須木・蒲生・福山・谷山・加久藤・高尾野・田布施・知覧・阿久根など諸外城から有馬へ出陣した軍衆について、主従・人躰・小者夫の人数と従軍日数を地域別・期間別に集計した帳簿。獅子島・長島からの番衆や蔵入夫も別記し、寛永二十一年二月五日に一日賦として照合した旨を記す。
二月三日 / 冊子 445~446頁/原整理番号 557
本文は有馬・天草両陣と長島・獅子島番手の延べ人日を集計する。鹿児島衆十六万二千百六十六、外城衆二十六万七千二百九十六、出水・阿久根・高尾野衆一万五千九百六十五、長島等の自飯米衆三千五百八十二で計四十四万九千九人日とし、さらに前々に賦方を始めた衆二万五千二百十七人日を加え、総計四十七万四千二百二十六人日とする。本文日付は寛永二十一年二月五日だが、目録は標題を「天草立軍衆覚」、日付を二月三日とする。
元禄三年正月廿一日 / 冊子 214頁/原整理番号 143
薩摩・大隅の御牧十九か所を列挙した覚。吉野・春山・福山・末吉・佐多・頴娃・高江・長島・市来・伊作などの牧野を国郡別に挙げる。市来野・伊作野の御牧についての問い合わせに関連し、藩内の牧の分布を示す一覧である。
天和二年十月八日 / 冊子 114~116頁/原整理番号 26-3
郡座・殿役座が、諸所の殿役遣を減らして郡見廻に兼務させること、役の扶持、殿役米を御蔵入方下代蔵に納めること、下代・庄屋による収納と勘定、郡見廻・庄屋の交替を定める。日用米と残米の扱い、殿役蔵や升取の廃止、鹿児島から長島・出水など三通道の待馬の削減も指示する。