北郷翁久譜
年月日未詳 / 冊子 734頁
北郷長千代丸が十一歳で再び人質として江戸へ赴き、旅家老北郷善兵衛久繁と林六郎兵衛重康が随行し、久繁の病死後は北郷仲左衛門久永が代わったことを記す系譜記事。家久が長千代丸へ送った書状の正文が続くと注記する。
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年月日未詳 / 冊子 734頁
北郷長千代丸が十一歳で再び人質として江戸へ赴き、旅家老北郷善兵衛久繁と林六郎兵衛重康が随行し、久繁の病死後は北郷仲左衛門久永が代わったことを記す系譜記事。家久が長千代丸へ送った書状の正文が続くと注記する。
年月日未詳 / 冊子 734頁
元和九年十二月、江戸へ人質として赴いていた北郷長千代丸が帰国したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 898~899頁
川上忠高が人質として上方へ赴く島津忠清に随行し、伏見で忠清の病没に立ち会った経過を記す。 さらに川上忠虎の朝鮮病没後、幼い長千代丸が成長するまで北郷三久が家督を補佐し、のちに家を返した支流の成立事情を伝える。
文禄4年7月5日 / 冊子 899頁
北郷忠虎の実子が幼少のため、宗次郎こと北郷三久を名代として諸職を勤めさせ、長千代丸が十七歳になるまで家督を補佐するよう認める。 若年相続人を保護しつつ家の継続を保証した、竜伯・義弘連署の家督証状。
年月日未詳 / 冊子 913頁
北郷氏が日向都城など十五か所・六万九千石から、薩摩祁答院三万七千石へ所領替えとなった経緯を記す。 長千代丸と一雲法印の移住、家臣団の随従・残留、旧領との関係調整まで述べ、豊臣政権下の大規模な国替えが家中に与えた混乱を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代丸に書状を与え、若年であっても自身で上洛するよう命じたため、慶長三年十一月に九歳の長千代丸が京都へ赴いたことを記す。続いて、その正文を掲げる旨を示す。
年月日未詳 / 冊子 351頁
長千代丸が幼少であったため、叔父の作左衛門尉三久が文禄三年冬から軍代を勤め、慶長四年に長千代丸が十歳で家督を継いだことを記す。
年月日未詳 / 冊子 354~355頁
慶長四年三月一日、伏見で島津忠恒が長千代丸を召し、庄内から祁答院へ移されたのは自身の意向ではなく、伊集院右衛門大夫が石田治部少輔と内々に計画したためなので恨まないよう諭し、近日中に庄内へ復帰させると約した。その証として宝刀正広を与え、長千代丸は家宝として敬い、同月に暇を得て祁答院へ下着したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年三月、伊集院忠真が都城に拠って十二の砦を構え、同年六月に島津忠恒が出馬すると、北郷久村は宮之城から長千代丸に随って出陣した。敵の出城防戦に際し、味方が退いた後も久村は退かず、三度援兵を率いて敵城内まで追撃し、多くの家臣が戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁
北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七月十三日の志和池・野之三谷の戦いでは味方が敗走したが、長千代丸の兵が三王門を支えて追撃する敵を退けたとする。
年月日未詳 / 冊子 394頁
北郷氏庶流系図は、慶長四年六月、長千代丸が祁答院を発して庄内へ出陣した際、北郷久武・北郷久明が従軍したことを記す。北郷忠純についても同年六月の従軍を、前文と同内容として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 435~436頁
北郷忠能譜は、八月十五日に長千代丸勢が東霧島から楠牟礼へ進み、志和池兵と鉄砲戦を行い、側面攻撃で敵を城内へ退けた経過を記す。九月十日には都城攻略のため大根田・内村方面へ進み、北郷久陸の三百騎などの援軍を得て小松谷尾・鵜嶋の泉水・小谷頭で戦い、敵を敗走させ、高城勢も退いたとする。多くの戦死・負傷者と敵首級を挙げ、島津忠恒が長千代丸の働きを賞した。
年月日未詳 / 冊子 451~452頁
島津忠恒が十月五日に森田へ陣を移し、北郷長千代丸らが志和池城周辺に布陣した後の戦闘経過を記す。高木村方面で高城勢を追撃し、伏兵戦や志和池城からの出撃で双方に戦死者が出たこと、北郷勢の高橋武蔵・白坂式部・財部武蔵らの討取、小杉太郎左衛門尉らの戦死を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 508頁
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 617~618頁
北郷長千代丸が島津家久の人質として都城から駿府へ赴き、徳川家康に拝謁して太刀・馬代等を献じ、本多正純の取次を受けた経緯と、その後の江戸・京都方面への移動を記した北郷翁久譜の記事。
(元和六年)八月八日 / 冊子 734頁
島津家久が北郷長千代丸に、見舞使者と南都諸白一荷への礼を述べ、交替の又四郎は上洛したものの大炊頭からの引付状が未着で下向が遅れているため、大炊頭と相談するよう伝えた書状。
二月四日 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代に、名代の久二郎は当分伏見にいて給分地二千石を確保しているものの、今後は若年でも自身で上洛するよう命じる。久二郎には高麗または当地で二千石相当の役儀を勤めさせる旨を安宅殿と相談したので、安三州からの指示も踏まえて分別するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 511頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1137
綱久公譜中に、長千代丸(又次郎、字右衛門、織部、久祐)が寛文五年十一月八日に生まれ、のち家臣桂太郎兵衛久常の養嗣となったことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 819頁
寛永元年八月二十二日、島津家久が鹿児島城で長千代丸と弟虎菊丸を元服させ、翁久・忠亮の名を与えたことを記す。理髪役はそれぞれ島津久元・伊勢貞昌が務め、両名が太刀・鎧・弓矢・鞍馬を献上し、家久から刀・太刀・馬代などを賜った北郷翁久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 737頁
北郷長千代丸翁久が江戸滞在中に酒井忠世・土井利勝・酒井忠利・朝倉宣正ら幕府要人と交わした、歳暮・端午の贈答に関する書状群を収める譜。
年月日未詳 / 冊子 38~39頁/原整理番号 12
市来早左衛門家から分かれた惟宗姓市来左仲政方家の略系図。家保・家利から家政以下へ続く系線を示す。家利は竹内隠岐守の養子となり、家政は父が継いだ竹内家の号・官途を継承したが、嫡家の家尚が島津家久へ訴え、父祖の本氏である市来氏へ復して家尚の庶流となることを許された。家尚は系図を書写して家政へ与えた。助左衛門尉と長千代丸が相次いで没したのち、その遺妻が家久へ訴え、実弟で喜入久洪の二男にあたる家賀を後嗣とした。末尾に家賢・政方・政為を系線で掲げる。