伊地知重貞書状
(明応五年)二月廿八日 / 冊子 570頁
伊地知重貞が本田氏に、加治木方面の軍事で援助を受けて勝利したことを謝し、今後も変わらぬ協力と関係維持を求めた書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
35 件 (全巻)/ 1–35件を表示
ページ 1 / 1
(明応五年)二月廿八日 / 冊子 570頁
伊地知重貞が本田氏に、加治木方面の軍事で援助を受けて勝利したことを謝し、今後も変わらぬ協力と関係維持を求めた書状。
十一月十五日 / 冊子 571頁
伊地知重貞が本田氏に、留主氏の所領没収に伴う加治木郷法楽寺田・修理田の処置を伝え、今後も協力して領掌するよう求めた書状。
正月廿七日 / 冊子 600~601頁
伊地知重貞ら三名が調所恒房に、祝儀時の庄内からの人足や前年の南方への動員をねぎらい、来月初三日の使者派遣などを申し合わせた連署状。
天正十一年四月二十七日 / 冊子 756頁
重貞が衣鉢侍者へ、主君の意向により村田右衛門入道が出頭したことを喜び、扶持については少分ではかえって不相応なので、関所が整い次第二十町ほどを宛行う考えであると内意を伝え、機会をみて披露するよう求めた書状。
慶長六年七月吉祥日 / 冊子 768-769頁
三原重貞ら六名が、市来八左衛門尉に対し、命じられた弓稽古に関する事項を他言せず秘密を守ると誓った連署起請文。虚偽の場合の神罰条項を付す。
慶長十九年十一月吉日 / 冊子 561頁
振舞方の見回り役を入念に勤め、どのような計策も隠さず報告し、自分たちに不届きがあれば処罰を受けることを神々に誓う、諏訪兼安・三原重貞連署起請文。
十二月十三日 / 冊子 116頁
伊地知重貞・本田兼親が新納家中に、若殿から初めて書状を受けたことを祝い、太刀一腰と馬一疋の進上に対する礼を述べた連署書状。年末で日数がないため、返礼の件を披露するよう依頼する。
明応四年十一月廿五日 / 冊子 569頁
島津家老臣の義阿・重貞・兼親が、伊集院清藤名内の田地坪付を萩野又二郎へ連署して示した文書。
年月日未詳 / 冊子 570~571頁
島津氏久による留主氏所領の没収と、加治木郷の法楽寺田・修理田、関所に関する権利が伊地知重貞へ与えられた経緯を記す本田重親伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 600頁
永正九年の阿多城をめぐる動きのなかで、国老伊地知重貞・本田兼親・桑波田景元らと調所恒房が軍事・政務に対処した経緯を記す伝記記事。
年月日未詳 / 冊子 677頁
大永七年、加治木・野首原・帖佐などの戦いで戦死した山野助次郎、湯田仁右衛門、上井筑前守方秋、伊地知左近将監重貞らの没日と戦場を記す。
年月日未詳 / 冊子 711頁
享禄四年四月・六月の合戦で、入来院上総介、東郷重貞、寺尾重次らが戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 352頁
伊集院久春(千代・源助・肥前守、入道名元巣)を起点に、母を伊地知左近将監重貞の娘と記す伊集院氏系図。久春が島津義弘の代に家老職へ補任されたことを掲げ、伊集院氏の家格と家中での位置を示す。
寛永十四年正月廿七日 / 冊子 632頁
庄内高城の東霧島六所権現宝殿一宇を造立した棟札。大檀主を島津家久・光久とし、地頭三原次郎左衛門重貞、奉行伊集院備前守久望、坐主性秀法印、大工武元兵右衛門尉清方を記す。
明応四年十一月廿五日 / 冊子 569頁
入来院氏臣田中氏所蔵の、No.1743と同文のため本文を省略した島津家老臣連署坪付。独立番号の別伝本として収録される。
文亀元年十二月廿日 / 冊子 579頁
島津家老臣が、薩摩国河辺郡野崎名内木場の一ヶ所と水田・屋敷を坪付として示した連署文書。
永正九年三月廿七日 / 冊子 601頁
島津家老臣四名が連署し、薩摩国指宿郡、谷山郡和田名内、臥蛇島などの坪付・反畝を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 604頁
永正十一年の所領・寄進をめぐる処置と、調所恒房や島津家老臣らの関与を記す伝記記事。
永正十一年九月五日 / 冊子 604頁
島津家老臣四名が連署し、大隅国曽於郡内の田地を守公神へ寄進して、坪付と面積を列記した寄進状。
永正十四年三月廿一日 / 冊子 614頁
島津家老臣が連署し、大隅国吉田院内の坪付として田畠・屋敷の所在地と反別を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。
文書日付:明應八年八月六日 / 冊子 609頁/原整理番号 112/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0112
將軍家の御判形七通を請け取ったと記す。 御當家の御判形五通をあわせ、合計を十二通とする。 受領の表現を「請取申候」とする。 明應八年八月六日付で、周防守重貞と因幡守兼親が花押を据える。
承久年間 / 冊子 176頁/原整理番号 56
高城氏の系図。初代重貞は落合六郎を称して高城を号し、承久の乱に宇治川で戦死したと記す。二代重秀(太郎二郎)から、三代重郷(河内守)、四代重藤(太郎)、五代重雄(小太郎・下総守)、六代義重(六郎太郎)、七代重豊(越後守)、八代重令(越後守)へ続ける。後半は九代重継(小太郎・下総守)、実弟との注を伴う十代重珍(三河守)、十一代重頼(彦太郎・越後守)、十二代重政(又太郎・周防守)、十三代重前(弥六郎・長門守)、十四代重鐘(六郎・周防守)を掲げる。さらに重治(異本は武蔵守)―重説(六郎太郎・左京亮)の系線を示し、『書入諸家系図』では重治を脱して重説を重鐘の子とする旨を注記する。末尾に後代の重貞(喜太郎・主馬允)―重善(小平次〔ママ〕・喜右衛門)の系線を載せる。
年月日未詳 / 冊子 206~207頁/原整理番号 72
祢寝式部大輔元就から祢寝駿河頼治へ続き、喜蔵重頼・覚内重昌、覚兵衛重好・平左衛門重貞・甚兵衛らの系線を示す。覚内重昌は吉利で死去し、覚兵衛重好は祢寝氏の称を避けて栗川口氏を名乗ったと記す一方、末尾の甚兵衛には祢寝氏へ復称したかとの考証注を付す。
延徳4年11月13日 / 冊子 255~256頁/原整理番号 98
延徳四年十一月十三日、島津忠昌が肝付をめぐる時儀について、前日に上原藤左衛門尉を遣わし、さらに伊地知周防守重貞を派遣したため、両人から詳細が伝えられるはずだと知らせた書状。当地の時宜を伝えるため相良方にも書状を送り、周防守が申し述べる趣旨に従って細部を伝えるよう求め、二度申し送ったので重言はしないと結ぶ。写本は伊地知越右衛門家蔵で、上原休兵衛家にあったものを、菱刈孫兵衛の文書らしいと聞き、休兵衛へ懇望して書写したとの伝来注記を伴う。『旧記雑録前編二』一七一三号文書と同一とされる。
年月日未詳 / 冊子 420頁/原整理番号 7
伊地知家の祖系から分かれた庶流十五系統を、分岐した代数・男子の出生順・祖の名や官途ごとに列挙する一覧。季随六男裳輪将野介流、季弘の二男左馬介・三男重貞・四男重春の各流、季豊三男重之流、持季流、小牟田小三郎流、重持二男左馬介流、重豊二男河内守流などを挙げ、後裔の伊地知姓称用、木工右衛門・刑部左衛門・淡路守・伊白らの通称、高岡士・飯野士などの居住・身分を付記する。重持二男流では重貞が家老職に補され後に誅され、嫡子重兼も同日に誅されたこと、弟越後守重房の系統が伊地知越右衛門へ続くことも示す。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
文書末尾年紀:建武三年六月 日 / 冊子 583~584頁/原整理番号 七五/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0075
薩摩国莫祢次郎太郎入道円也が、兼重以下を討つ将軍家御教書を受け、肝付郡加瀬田城・野崎村へ赴いた軍忠を注進する。 五月六日から六月十日まで合戦し、野崎では先駆として敵二騎を射落とし一騎を切り落としたと記す。 円也の「先懸」と子息重貞の負傷を述べ、重貞が左手を射られたことと、資久・忠国の見知を記す。 五月廿五日の加瀬田城水手での安三郎の負傷、同廿六日の権三郎右肩負傷も挙げ、軍忠・負傷の次第を注進する。
記事成立日:未確認 / 冊子 609頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A068
忠昌公に関する文書の請取状を紹介する。 御家老伊地知周防守重貞と本田因幡守兼親が連判した一通とする。 その正文を家に蔵し、以下に記すと述べる。
正治元年、建保元年12月19日、建保2年正月3日、建保7年2月13日、承久元年9月6日・8日、建暦3年5月2日・3日・9日、承久3年7月11日、仁治元年、嘉禎4年4月2日、建長元年8月9日、文永3年6月10日、文永4年4月24日、文永8年、弘安6年7月23日、弘安8年11月17日、正応5年11月7日・12月7日、嘉元2~3年、元亨元~2年、正中2年、建武4年、貞和2~7年、観応2~3年、正平9~12年、永徳3年、応永3~22年、康正2~3年、明応8年8月6日、安永3年秋 / 冊子 45~55頁/原整理番号 14-1
二階堂維遠流のうち、行光から行次までを『吾妻鏡』の記事と家蔵文書の目録を交えてたどる長編系図。行光の将軍御成・鶴岡八幡宮供奉・上洛使節、元行の和田義盛の乱での戦功と相模国懐島殿原郷・三河国重原荘の地頭職、行氏・行景の所領相続と幕府下文を記す。泰行については蒙古襲来への警固命令を受け、忍照尼の判断と久明親王の許可により薩摩国阿多北方へ下向した経緯を掲げる。行雄・行仲は建武・観応期に足利尊氏方として軍功を挙げ、尊氏・直義・直冬らの御下文・感状を伝えたとする。後半は行貞の田布施城籠城と島津元久への降伏、市来・阿多への移住、行隆の田布施城奪回未遂、忠行の足利義政供奉、行次代の島津立久・忠昌関係文書までを収める。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
年月日未詳 / 冊子 681頁
川上頼久が本田資兼・莫禰重貞・貞国・宮里彦七・東条七郎らと進戦し、二月十二日の資兼進撃、十六日の東条合戦、三月二日の負傷などの軍功を重ねたことを記す川上頼久伝。
年月日未詳 / 冊子 120頁
『若狭島津忠季譜』の記事。承久三年の兵乱で忠季入道が関東方に属し、宇治川の戦いで戦死したことを記す。佐多太郎久秀や高城六郎重貞ら同族の戦死にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 120~121頁
『殉国名薮』の記事。承久三年六月十四日の宇治川合戦で、市来左衛門尉忠康が北条泰時に従って戦死したことを述べ、若狭兵衛尉忠季・佐多太郎久秀・高城六郎重貞ら同族の戦死者を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 752~753頁
平山久清流の系図。三原重貞の子久清の養子相続、島津光久の命で岩城氏二男久行が忠昭の弟となったこと、光久庶子久祐の養子入りと離家、喜入氏出身季春・忠知以下の生没年・婚姻を記す。