島津氏久安堵状
七月十六日 / 冊子 253頁
島津氏久が、高城郡内の重豊領分の半分について知行に相違がないことを認め、詳細は延尉方と相談するよう命じた安堵状。
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七月十六日 / 冊子 253頁
島津氏久が、高城郡内の重豊領分の半分について知行に相違がないことを認め、詳細は延尉方と相談するよう命じた安堵状。
文明十三年六月廿三日 / 冊子 498頁
渋谷重豊が、三か国が変転しても従前どおり忠節を尽くし、心中を村田へ申し入れ、讒言や凶書があれば証拠を提出することを神名に誓った請文。
(延徳二年)永伝元年八月廿一日 / 冊子 551~552頁
渋谷重豊が子の又五郎重聴へ、薩摩国入来院内の村・在家・田畠・山野などの所領を一所も残さず譲った文書。家領全体を後継者に集中して永代知行させ、親類・一族が異議や妨害を申し立てることを禁じ、重聴の相続権を明確にする。
二月廿三日 / 冊子 98頁
入来院重豊が島津大夫判官に提出した契状。当国の凶徒を討つため善悪を問わず一味同心し、山北の敵対者を誅伐するまでは在陣を解かず帰宅もしないこと、公私の大事には互いに身命を支え合うことを神々に誓っている。
二月廿三日 / 冊子 249頁
入来院重豊の契約状として目録に掲げられる文書。本文掲載箇所は典拠注記が中心で契約条項の本文が省略されており、当事者間の具体的な合意内容は確認できない。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 224頁
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正二年八月一日 / 冊子 342頁
天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 342頁
本文はNo.765記事の一部と同文につき省略されている。入来院重豊をめぐる記事の重出である。
天正二年八月八日 / 冊子 342頁
入来院重豊の陰謀が露見したが、義久は直ちに討伐せず、先非を改め忠節を尽くせば赦免すると諭した。重豊は八月八日、家臣山口筑前守・東郷美作守を遣わして降伏と所領献上を申し出る。義久は所領を欲するのではなく旧領のままでは衆人の疑いが残るとして、所領替えと誓紙提出を求めた。
天正二年八月~十二月 / 冊子 350~391頁
天正二年八月から十二月までの上井覚兼の日記。年始太刀献上の席次問題、入来院重豊の所領献上・所替えと血判、肝付・庄内の和平交渉、菱刈氏への譴責、江月斎の饗応、伊地知氏の移住・所領願、琉球・天草・志岐・義虎との外交、犬追物稽古、寺社争論と所領配当、福昌寺での犯人斬殺と代賢和尚慰留など、政務・軍事・儀礼・寺社・日常を日次で詳述する。
天正八年五月十五日~十月十五日 / 冊子 646頁
天正八年五月十五日の岩牟礼城攻めと十月十五日の矢崎城攻めなどで戦死した島津方の諸士を列挙する名簿。入来院重豊は病気で出陣できず、山口重秋・種子田秀高らに従兵五千余を付けて出陣させたことも記す。
年月日未詳 / 冊子 582頁
島津重時は初名を忠重、又六といい、天正元年に北郷時久の長女を母として生まれ、入来院弾正重豊の養子となって同家を継いだとする。慶長五年九月十五日に島津義弘(惟新)に従って関ヶ原に出陣し、敗戦後の帰国途中に敵と遭遇して同月二十三日に戦死、享年三十、法諱を雲庵定暁居士と記す。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
天正三年 / 冊子 393~394頁
天正三年の島津氏の動向を編年で記す。年始儀礼と椀飯、三度の犬追物、琉球使節の接遇、近衛前久の来薩、山田・入来境界の処置、肝付家の後継争いと高城・櫛間・志布志をめぐる伊東勢の動向、島津忠良の豊後帰還、近衛前久の出水到着などを載せる。
天正15年(1587)ほか / 冊子 420~421頁/原整理番号 8
秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後半は手串良・牛根・栗野・曽木・飯野・倉岡・国分などへの移住、根城攻めでの戦功と前田給付、前田家との由緒から前田または伊地知を称した重悦・重通の系統、重氏・重行・元重・重慶・季定らの系線を示す。
年月日未詳 / 冊子 814頁
島津忠将一流の女子・男子と婚姻・子孫関係を系図形式で示す。天文十三年生まれの女子や入来院・北郷家との縁組を記す。
天正三年三月十五日 / 冊子 430~431頁
天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正三年三月廿四日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。
年月日未詳 / 冊子 124頁/原整理番号 25
『系図 写 伊地知唯右衛門季昭』と題する中表紙に続く伊地知季昭家系図の冒頭断片。九代重豊の五男を山城守とし、出家後の入道名を伊白と記す一枝のみを掲げる。次の25-1証文・付属系図へつながる伊地知氏系譜群の導入である。
承久年間 / 冊子 176頁/原整理番号 56
高城氏の系図。初代重貞は落合六郎を称して高城を号し、承久の乱に宇治川で戦死したと記す。二代重秀(太郎二郎)から、三代重郷(河内守)、四代重藤(太郎)、五代重雄(小太郎・下総守)、六代義重(六郎太郎)、七代重豊(越後守)、八代重令(越後守)へ続ける。後半は九代重継(小太郎・下総守)、実弟との注を伴う十代重珍(三河守)、十一代重頼(彦太郎・越後守)、十二代重政(又太郎・周防守)、十三代重前(弥六郎・長門守)、十四代重鐘(六郎・周防守)を掲げる。さらに重治(異本は武蔵守)―重説(六郎太郎・左京亮)の系線を示し、『書入諸家系図』では重治を脱して重説を重鐘の子とする旨を注記する。末尾に後代の重貞(喜太郎・主馬允)―重善(小平次〔ママ〕・喜右衛門)の系線を載せる。
7月16日 / 冊子 310頁/原整理番号 119-30
七月十六日付、島津氏久が執印左衛門太夫入道へ与えた安堵状。高城郡内にある重豊領分の半分について、執印の知行に相違がないと保証し、この件は本文表記の「且廷尉方」と相談するよう伝える。『旧記雑録前編一』2616号文書と同一と注記される。
年月日未詳 / 冊子 420頁/原整理番号 7
伊地知家の祖系から分かれた庶流十五系統を、分岐した代数・男子の出生順・祖の名や官途ごとに列挙する一覧。季随六男裳輪将野介流、季弘の二男左馬介・三男重貞・四男重春の各流、季豊三男重之流、持季流、小牟田小三郎流、重持二男左馬介流、重豊二男河内守流などを挙げ、後裔の伊地知姓称用、木工右衛門・刑部左衛門・淡路守・伊白らの通称、高岡士・飯野士などの居住・身分を付記する。重持二男流では重貞が家老職に補され後に誅され、嫡子重兼も同日に誅されたこと、弟越後守重房の系統が伊地知越右衛門へ続くことも示す。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
文明十三年六月廿三日 / 冊子 497~498頁
島津武久が村田肥前守に、三か国が変転しても父重豊以来の厚い志を踏まえ、今後も忠節を尽くし、内外の重要事を隠さず相談するよう誓った契状。
文明十三年八月廿二日 / 冊子 498頁
島津武久が入来院又五郎に、三か国が変転しても父重豊以来の厚誼を保ち、一族として重要事を相談し、内外の事を隠さず相互に支えることを誓った契状。
文明十四年十一月十九日 / 冊子 499頁
島津武久が建部忠清の加冠を行ったことを示す加冠状。本文には建部忠清が重豊の初名である旨の注記がある。