島津義弘書状
(慶長十九年)七月八日 / 冊子 531頁
慶長十九年七月八日、島津義弘が、長年笛を稽古し音楽で奉公することを望む宮原主計助を召し寄せたとして、伝授済みの技法を残らず指南するよう笛師へ依頼した書状。
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(慶長十九年)七月八日 / 冊子 531頁
慶長十九年七月八日、島津義弘が、長年笛を稽古し音楽で奉公することを望む宮原主計助を召し寄せたとして、伝授済みの技法を残らず指南するよう笛師へ依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 59頁
伊地知季安が桧前舎人連・笛吹連などの祖先伝承、火明命十四世孫に関わる系譜と地名由来を考証した。
宝永二年八月晦日(初参)・十月五日(死去)・七日夜(遺体移送)・十日酉刻(葬礼) / 冊子 593頁/整理ID 2012
綱貴公御子亀姫君伝中に、八月晦日、亀姫が前関白基熙の堀川御所へ初参し、平調五常楽・合歓塩・長慶子の音楽を聴いたことを記す。基熙の和琴、石井少納言の笛、櫛笥中将の琵琶、四辻の笙、監役らを列記する。同年秋に病み療養・投薬の効なく十月五日京都の邸で十六歳で死去。七日夜半に遺体を大徳寺へ移し、十日酉刻に葬礼、法諡は英光院殿覚樹圓明大姉、大徳寺輪番湘南和尚が引導した。後に位牌を薩州福昌寺内深固院へ置いたとする。
享保十四年十二月三日 / 冊子 1008頁/整理ID 2463
十二月三日の御囃子組として、笛・小鼓などを受け持つ者の名と役を列記する。
明治14年5月27日 / 冊子 986頁/原整理番号 1282/整理ID 1282
島津忠義が参内し、鹿児島県士族西幸吉の薩摩琵琶と天吹・柴笛の演奏を天皇が聴いた。忠義は自作の天吹を献上し、求めに応じて一曲を奏し、御酒肴と御手自らの盃を賜って深夜に帰邸した。
七月廿七日 / 冊子 169頁
伊勢貞昌が、竹與殿の長旅からの無事な帰国を祝い、笛の上達を賞して今後も稽古を続けるよう勧めた書状。当世の芸について新九郎・長右衛門らは拍子を心得る程度で、樋口らの芸風は聞いたこともないと評し、指導者を欠く世情を嘆く。相手の笛で二番舞いたいと述べ、内膳からも事情が伝わること、時節の品を進上することを付記する。
年月日未詳 / 冊子 439頁/原整理番号 2-9
忠久が念仏時宗で法名道阿弥陀佛と称し、得佛に伝えた阿弥陀三尊や、朝夕の看経、琵琶・笛・錦の袋を記す。季安は盛衰記の高倉宮が三井寺を出た際の笛・琵琶の記事と、信連による小枝の笛の回収、南都での蝉折笛の納付を引く。ただし、これらが聖榮時代の重宝だったとする明文はなく、伝来の詳細は別条で検討するとする。
年月日未詳 / 冊子 520頁/原整理番号 7-3
本藩地理誌から、贈於郡清水の竹林山衆集院臺明寺について抜き出す。開基行賢・中興榮賢、天智天皇の勅願所、境内日吉社前の竹林と青葉笛竹の由来を記す。建仁三年十月十九日付の忠久の願書があるとし、比企能員の謀反に連座して薩隅日守護職を失った際も、忠久は在国して反逆に加わらなかったとして再任を願い、鎌倉参勤の旅の無事を山王宮へ祈ったと説明する。
元禄十四年五月晦日~六月十三日 / 冊子 307–308頁/整理ID 1011
綱貴は五月晦日に江戸を発ち、陸路を木曽地に取り六月十二日に伏見へ到着する。亀姫と家久の縁組に由緒があるため十三日朝に近衛家久の伏見邸を訪ね、京都へ先行した久珍らに続き、紀伊守の旅宿や平松時方邸、関白基熙の邸を訪れる。綱貴から基熙・家熙・家久へ太刀・白銀・羽二重・干鯛・昆布・樽を献じ、家熙からは太刀・馬代黄金十枚・羽二重・干鯛・昆布・鰑・樽、家久や基熙の政所からも品を受ける。饗応、席次、近衛基熙らの演奏、書付類の授与を記し、退席後に伏見へ帰る。献立・配膳図は別No1013として扱う。
天正六年十月~十一月 / 冊子 613~625頁
高城籠城中の島津家久と大友陣との応酬を伝える。志賀勘六が見舞いの酒樽・菓子を送り、家久方は釣り上げた鯉と酒で返礼し、使者が陣と城の間で乱舞した。さらに星野長門守・川原山執行良観が矢文で大友氏の暴政への憤りと島津方への内応意志を伝え、合図を笛音と定めた。
年月日未詳 / 冊子 79~81頁
鹿児島亭で催された歌会の次第。『松有春色』『早春鶯』『朝霞』『里梅』『春月幽』『遥尋花』などの兼題・当座題を掲げ、五常楽・火王楽などの楽、拍子・笙・笛・箏・琵琶、関寺小町の小謡に携わる者と、歌会・楽の参加者名を列挙する。
文化12年(末尾朱年注。独立月日なし) / 冊子 465~467頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1428
全上・扣正文在家老座。高輪邸の部屋別飾付を一覧にする。亀之甲茶屋觀瀾亭は探幽筆の中寿老神・左右龍三幅対、唐金の臺に立花花瓶、棚に軸物・南京染付香爐・軸受を置く。小座敷は古法眼元信筆山水1幅、硯箱料紙と文臺・紅毛菓子入。見物所は周之冕筆芙蓉小鳥1幅、鹿置物1点、中庭茶屋瀛樂窟は雪舟筆の柳尾長鳥(題名読字留保)1幅、掛花入・彩色素焼菓物・申之亭。紅白牡丹二幅に紀伊中納言治寶の画讃を記し中央香爐、沈箱、竹彫人形・丸鏡へ続く。居間は東方朔置物香爐交趾焼、尚信の六祖図1幅、鷹置物・紅毛本国焼牛・象牙細工桃・袋入琵琶。二階は新古長城之図(題名留保)1幅、書棚の水晶玉・鶏置物・唐本三帙、唐銅塔と古物獅子。花月庵は蓬莱図1幅(貞置筆候補)、盆石・唐物天目・硯箱。水屋棚に茶道箱、羽箒、水瓶、喚鐘と鐘木、源次郎作風呂、松竹梅釜、南京染付水指、黒楽・絵高麗茶碗二、肩付茶入・唐織緞子袋、龍眼木棗、銘芹川茶杓(風早三位公雄卿作注)、南京青磁蓋置等を列記する。涼風園は紅毛彩色銅板絵1幅、孔雀尾扇・高卓・晴雨出没人形・砂時計・白石人形・硝子鈴・吹笛・琥珀・硝子刷毛・天眼鏡・硯・虫眼鏡・ヲルゴル楽器。さらに紅毛剣杖・南蠻剣・魯西亜國剣、エンゲルホール、紅毛椅子二脚、二之間のループル・紅毛鼓弓・ワルトホールン楽器、ハルシャ國人形男女、硝子器品の角棚飾と柱掛燈爐を掲げる。末朱文化12年のみ。作者・筆名注を来訪者や真贋確定に変えず、品名の不確字と原音写を保持し、配置予定と実設置済を区別する。
文政7年2月4日(本文) / 冊子 695~696頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1980
重豪公御譜中の年賀祝能興行の記録。二月四日に年賀の祝いや拝領物があり、客を迎えたため翌日に本丸大奥へ差し上げると述べ、能組の明細を続ける。翁・老松・間狂言・羽衣などの曲目と、シテ・ワキ・囃子方・地謡・小鼓・大鼓・笛・太鼓・後見などの役、須磨長次郎・甲斐守ら出演者の名を列挙する。末尾には御くわし・御樽を差し上げたことと別紙の折掛包に触れる。演能の番組と参加者を示す資料である。
年月日未詳 / 冊子 205頁
東照大権現祭礼の行列を、神人百五十人、獅子・笛・太鼓、神楽男七十人、八乙女八人、神馬三疋、鉄砲・弓・槍各二百人、駕輿、面被り、旗、鷹、山伏百余人、各神輿の担ぎ手など役割と人数ごとに記した祭礼次第。
巻七/冊子 104~113頁
寛永七年四月、将軍家光と大御所秀忠が江戸桜田の家久邸へ相次いで御成した際の記録抜書である。十八日の家光御成では、古田織部の指図を写した数寄屋で茶を供し、楚石の掛物、平野肩衝、高麗茶碗、利休作茶杓、信楽水指、車軸釜などの道具を列挙する。鎖の間・御寝殿・書院・会所・湯殿に至るまで、床飾、絵画、香炉、硯、筆架、違棚、台子、弓矢・甲冑・鏡、花入と池坊の立花などを図とともに詳細に記す。家久・嗣子又三郎(光久)・又十郎・越後守らは刀剣・小袖・銀・生糸・馬などを拝領し、将軍へも正宗・左文字等の刀剣や小袖・黄金・馬を進献する。家臣も縁側で礼を行い、島津一門・重臣への拝領品が個別に記録される。会所では能八番と乞能が催され、役者への小袖・金銭の配分、式三献・七五三の膳が整えられた。さらに琉球から美麗な少年楽人を呼び、琵琶・琴・三線・笛・鼓などによる異国の音楽を奏し、家光を喜ばせた。二十一日の秀忠御成も同様に茶・饗応・能・琉球楽が行われ、拝領・進献品と参加家臣が記される。近世初期大名邸の最高格式の接遇、茶の湯・室礼・能・琉球文化の政治的演出、将軍家と島津家の贈答関係を具体的に復元できる儀礼資料である。