島津氏老臣連署起請文
元亀四年二月廿日 / 冊子 300頁
禰寝重長との秘密交渉に際し、取り決めの一か条を漏らさないことを誓った起請文。天帝釈・四大天王、日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・稲荷・天満天神などの神罰を掲げる。密事のため作成時には署名を記さなかったと説明される。
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元亀四年二月廿日 / 冊子 300頁
禰寝重長との秘密交渉に際し、取り決めの一か条を漏らさないことを誓った起請文。天帝釈・四大天王、日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・稲荷・天満天神などの神罰を掲げる。密事のため作成時には署名を記さなかったと説明される。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301頁
島津義久が禰寝重長に対し、肝付方を離れて一途に忠節を尽くすとの決断を喜び、子孫に至るまで互いに隔心を持たず、雑説が生じた際は双方から事情を申し開くと誓う。違反時には新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301頁
伊集院忠金・平田昌宗・喜入季久が禰寝重長へ、肝付方を離れて忠節を尽くす決意を祝し、以後永く相違なく、和議をめぐる雑説があれば双方から申し開くことを誓った連署起請文。新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げる。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301~302頁
禰寝重長への使者となった伊集院久治・上原尚常・市来家諸・河野清通・新納忠元の五名が、今回伝えた条々に虚言はないと誓った連署起請文。違反時には日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
元亀四年五月廿四日 / 冊子 304~305頁
禰寝重長が望む鹿屋の処遇について、現時点では周辺事情に詳しくないため、島津方の戦争成就後に検討し、やむを得ず守護領とする場合には鹿屋の田数に相当する別所を与えると約束した証文。伊集院忠金・村田経定・平田昌宗・川上意釣・喜入季久が連署する。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 256~257頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津氏への出仕を拒み、廻城主肝付忠勝の死後は伊東氏とも結んで敵対した経緯を述べる。元亀二年十一月二十日、百余艘の船団が鹿児島湾に侵入して瀧水村を攻めたが、平田新三郎ら帖佐衆約五十人が防戦し、敵船を退却させた。
元亀三年九月廿六日以後 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興を大隅の三凶徒とし、島津義久がまず下大隅征討を決めた経緯を記す。元亀三年九月二十六日、義久と歳久が軍を率いて樫島を経て小浜古城を落とし、早崎高峰を陣営として越年した。樺山玄佐は新春を祝う和歌を詠み、その後三氏が次第に島津方へ屈したと結ぶ。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293~294頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津義久への出仕を拒み、廻城を奪って敵対した経緯を述べる。元亀三年九月二十六日、歳久が将帥として下大隅へ出兵し、樫島・瀬戸を経て早崎に陣営を構えた。義久の進船に鼓舞された軍勢が小浜古城を落とし、同地を前陣と改称した。
天正元年 / 冊子 295~296頁
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元、琉球王尚永の即位なども記し、人物・系譜・典拠の考証を添える。
天正元年二月~三月 / 冊子 299頁
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を攻めた。
天正元年二月廿一日~廿六日 / 冊子 299頁
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。
天正元年二月 / 冊子 299~300頁
下大隅が未平定のなか、島津義久が宝持院と八木昌信を禰寝へ密派遣した和睦工作を詳述する。昌信は舟底に隠れて上陸し、夜間に東禅寺から禰寝重長と密会して、子息の婚姻も示唆しつつ島津方への帰順を説いた。帰陣後、義久は新納忠元・伊集院久治・上原尚近らを再派遣し、家老・使者が秘密保持のため無署名を含む誓紙を重長へ与えて和議を確定した。
元亀四年二月廿日 / 冊子 300頁
二月二十日、島津義久の国老・三使・副使が禰寝重長へ誓紙を渡したが、秘密事項のため当初は署名しなかったことを説明する。翌二十一日には署名を記した誓紙を改めて示したとし、底本に欠ける本文を県立図書館本から補ったとの編者注を付す。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 302頁
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討ったとする。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 303頁
禰寝重長が島津方へ属したため、天正元年三月十日に薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿へ進んだ。十八日の西俣合戦では歳久が隅州軍、忠長が薩摩南方軍を率いて肝付勢を大破し、多数を斬獲した。重長も参戦し、戦後は海を渡って指宿で義久に謁し、鹿児島まで随行した。
天正元年三月十一日~十八日 / 冊子 303~304頁
禰寝重長が島津方へ忠節を尽くす意向を固めたため、天正元年三月十一日に島津軍が禰寝へ渡海し、義久も指宿まで出陣した。十四日に肝付領高洲浦の船を奪い、十八日に大姶良で肝付勢と交戦して歳久・忠長らが多数を討ち取った。重長も勝鬨をあげ、のち指宿・鹿児島へ参上した。
元亀三年~天正年間 / 冊子 319~320頁
禰寝・肝付・伊地知方が島津氏に従わなかったため、島津軍が下大隅へ渡り早崎を陣として小浜城を攻め、前陣と号したことを記す。のち禰寝重長が島津方へ出頭すると伊東・肝付・伊地知勢が禰寝麓を攻め、喜入季久が迎撃したが、弟忠通・久績以下十余人が戦死した。最終的に肝付・伊地知も帰順し、伊地知氏には下城一所が与えられ鹿児島に在住した。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。
天正元年三月下旬~四月 / 冊子 304頁
天正元年、禰寝方が肝付氏から離反し、高洲を破って日向の警固船などを奪ったことを記す。三月下旬には野頸の米良美濃守・肥田木三郎兵衛・中山主計が野心を企て、召喚に応じると偽って途中から薩摩へ逃亡した。四月には野頸城を廃して城ヶ尾へ移し、関係者と足軽約四十人が飯野へ逃れた。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正二年正月~十二月 / 冊子 327~328頁
天正二年の軍事日程を記し、正月三日の茶園尾着陣、十九日の伊東・肝付勢による禰寝攻撃、二十日の牛根城開城、廻・市成両城の接収、伊地知氏の帰順、八月の宝繁寺を介した肝付氏との矢留め、十二月の平松陣撤収と役人交名を載せる。
天正二年正月十八日~廿七日 / 冊子 329頁
天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。
元亀四年二月廿一日 / 冊子 300~301頁
禰寝重長との和睦成立後、前日の無署名誓紙に代えて署名を明示した連署起請文。伊集院忠金・本田盛親・河野清通・伊集院久治・上原尚常・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名が花押を据え、誓紙を重長へ渡した。
年月日未詳 / 冊子 77~78頁/原整理番号 63の15
差出人不詳の書状が斜木・石井へ来る八日の加勢を求め、城近くの畠作を荒らすため、特に手火矢の人数を送るよう依頼する。後評は斜木等を禰寝重長の家老かと推定し、朝鮮・島原での鉄砲利用や後世の扱いへの懸念を論じる。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
巻二/冊子 23~25頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興ら大隅の反島津勢力を討った長期戦を記す。義久は歳久らを派遣して小浜・古江方面を攻めるが、戦況は容易に決しなかった。そこで八木昌信が僧に同行して禰寝重長と秘密交渉し、婚姻を含む条件で降参を取り付ける。島津軍は高洲浦から肝付領へ進み、父忠将の仇を討とうとする征久らが先鋒となって敵を破った。一方、早崎の陣は夜襲を受け、家久が多数の傷を負いながら少数の従者と敵を押し返す。牛根城攻めでは平常岡・茶園尾へ陣を進め、断崖に道を築いて三日三夜攻撃し、城方を降伏させた。祢寝方も伊東・肝付勢の攻撃を受けたが喜入季久が防戦する。最終的に肝付・伊地知勢は服属し、人質を出し、新納忠元父子らが牛根城へ入った。秘密交渉、婚姻政策、夜襲、築道による城攻めを通じて大隅平定が進む過程を詳述する。
天文23年9月、天正6年、天正14年12月8日、文禄4年7月18日、慶長元年5月23日、慶長4年12月8日、慶長6年8月9日、慶長14年、慶長19年、承応2年6月5日、元禄4年 / 冊子 23~26頁/原整理番号 8
出自不詳ながら、信濃守重宣の孫・丹波守実親の弟である部左衛門親行の法名ではないかと考証される古簾(道号越岩、異伝では越山永超居士)を祖とする本田氏系図。親尚は日新公に奉仕して戦功を重ね伊集院地頭となり、親吉は日新公・貴久公に仕えて感状を受けた。親貞は兄の死後、太守の命で正嫡を継ぎ、義久の家老、吉田・加世田等の地頭となり、吉野・磯を領して家臣を配置し、岩剣城攻め、大友氏の日州侵攻、九州征伐で軍務を担った。後裔について、豊後戸次城下・瀧ヶ水・庄内安永での戦死、九州・高麗・庄内役、琉球征伐・大坂の陣、曽木・福山等の地頭職、大坪流馬術の相伝、婚姻・養子関係を記す。
元亀三年九月廿七日~天正元年三月十八日 / 冊子 294頁
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。