川上忠智書状
八月十二日 / 冊子 122頁
川上忠智が神力坊に、相良家との干戈によって交通が不自由な状況を述べ、二度派遣された使僧への謝意を伝えた書状。仲陽以前に清坊中平から申し上げた件は上聴に達したが、国内が戦闘の最中で海陸とも不自由なため実現困難としている。
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八月十二日 / 冊子 122頁
川上忠智が神力坊に、相良家との干戈によって交通が不自由な状況を述べ、二度派遣された使僧への謝意を伝えた書状。仲陽以前に清坊中平から申し上げた件は上聴に達したが、国内が戦闘の最中で海陸とも不自由なため実現困難としている。
永禄七年四月十七日 / 冊子 132頁
義久が以前思いがけず腹巻一領を贈られたことへの礼が、遠隔地のため遅れたと詫びた書状案。好便に託して馬一疋を贈り、残りの口上は神力坊が伝えるとする。
永禄七年四月廿日 / 冊子 132~133頁
古市宗檜が島津方に長く滞在して受けた厚遇へ謝意を述べ、四月十七日に薩摩へ帰着して相手方の調略と懇意を報告した書状。真幸境で伊東氏が近年押領した地域を別紙に記し、遠方の飫肥境については後報するとして、神力坊を使者に立てる。
永禄七年四月廿日 / 冊子 133頁
薩摩・大隅・日向の境目について、伊東方が近年押領した真幸院内の地として三野山郡、三之山内の高崎・高原・野尻を列挙した書付。飫肥境の押領地は遠方のため後に報告するとし、宗檜が神力坊を使者として進上したNo.292の別紙に当たる。
(永禄七年)五月十一日 / 冊子 133頁
戸次紹花が、島津貴久からの馬一疋と義久からの沈香を贈られたことへの感謝を述べた書状。詳細な謝意は神力坊が下向した際に申し上げるとして、披露を求める。
永禄七年四月十七日 / 冊子 165頁
No.291と同文のため本文を省略する島津義久書状案。思いがけず腹巻一領を贈られたことへの礼が遠隔地のため遅れたと詫び、好便に託して馬一疋を贈り、残りの口上は神力坊が伝えるとする。
(永禄七年)五月十一日 / 冊子 165頁
本文ではNo.294と同文のため省略される書状。戸次紹花が島津貴久からの馬一疋と義久からの沈香を贈られたことへの感謝を述べ、詳しい謝意は神力坊の下向時に伝えるとして披露を求める。
八月廿五日 / 冊子 122~123頁
新納忠元が神力坊らに、番所の人員不足を補うため二十人余を配置し、肝要の場所を堅固に守るよう命じた書状。勤務日数を閉じて報告すること、諸事の処置を怠らないことを求める。
八月廿五日 / 冊子 387頁/原整理番号 108
忠元が神力坊と中野四郎左門尉に、番勤務中の懇志を謝し、翌日に約束どおり無足衆二十人余を籠めるよう依頼する。五日分の差飯については相手の判断に任せるとし、諸事の先例や勤務の事情を番の日数の間に直接相談したいと伝える。
八月十二日 / 冊子 387頁/原整理番号 109
忠智が神力坊に、相良方との長い対陣の時期に専ら働くことを謝し、使僧から伝えられた祝いを承知したと述べる。清坊が伝えた忠平の意向を踏まえ、兵糧を手配するための返事を依頼する。海陸とも不自由なので詳細は使僧の口上に委ね、諸事の進行を止めないよう求める。
建久9年、正平6年12月23日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 62
薩摩国在国司・大前氏東郷斧渕氏の系図。敏達天皇の後胤・橘諸兄の苗裔とし、道胤は幼名菊王丸、東郷弾正少弼・左衛門尉、西前寺殿、法名慈寛を称し、東郷城に居住、建久九年に上洛して内裏大番を勤めた。道武は菊寿丸・兵衛尉・武蔵守、西前寺殿、慈光で、妻を山門院郡司秀忠の女とする。道義は平太郎・蔵人・弾正少弼・摂津守、斧渕を号し、西前寺殿・慈道。正平六年十二月二十三日に渋谷九郎重興が軍勢を催して戦った記事を伴う。道長は平次郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈法で、道張(山田)から道久・道宗(荒川)へ分かれる。道将は平六郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈徳で、道重へ続く。後半は道盛、道真(今村兵部太夫)と道時・道実(藤川)の系、道信、良道を掲げる。道信は大泉坊・不動院として平佐城・樋脇天神坊に住み三十五町を領し、法名仙香、八十二歳で没した。良道は源五郎・神力坊・不動院で入来院重時の家臣となり、子孫を入来院家臣・斧渕仁兵衛とする。