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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。

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旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w3:44系図旧記雑録拾遺暫定版確認度 高

野村氏系図

佐々木氏元祖式部大夫成頼の後裔とする野村氏系図。盛綱は佐々木三郎ともいい、仁安元年に藤九郎盛長の加冠を受けたため盛綱と号し、加治三郎左衛門尉を称した。源頼朝に仕えて功を立て、出家して西念を号したという。弟の加治太郎信実や、建仁年間に戦死した小三郎盛秀以下、久綱・実季・実綱・長綱等の諸系線を掲げる。盛蓮は佐々木四郎坊として日州四所庄へ下向し、慶幸は近江白莚郷領主、頼親は野村杢左衛門を号して伊東信濃守祐光の一族として日州を領し、近江国野村領主とも伝える。盛秀の日州廣原戦死、康綱の谷山・飯田合戦での軍功、光綱の根白合戦、三俣下城での討敵、元綱の末吉戦死を記す。後半は松綱以下の諸分流、伊東義益家に関わる御福園の記事、朝鮮での戦死、養子・官途・通称を列記する。

登場人物
佐々木成頼、盛綱、藤九郎盛長、源頼朝、盛秀、加治太郎信実、久綱、実季、実綱、長綱、時綱、時秀、盛蓮、慶幸、頼親、伊東祐光、重親、義綱、盛親、康綱、重綱、光綱、孝綱、元綱、松綱、伊東義益、玄綱、目綱、期綱、京綱、文綱、吉綱、幸綱、清綱、定綱、国綱
宛先
—
キーワード
野村氏系図、佐々木成頼、盛綱、仁安元年、藤九郎盛長、加冠、加治三郎左衛門尉、源頼朝奉公、西念、建仁年間戦死、信実、日州四所庄下向、近江白莚郷、野村杢左衛門、伊東祐光、近江国野村、日州廣原戦死、谷山・飯田合戦、根白合戦、三俣下城、末吉戦死、伊東義益、朝鮮戦死、養子、官途
追録6-No.1008その他文書旧記雑録暫定版確認度 中

島津重豪祭文―浄岸院の死去・帰葬と養育の恩への哀悼

正文が福昌寺にある浄岸院への祭文。冒頭に安永元年壬辰仲冬と記し、浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼が病を得て寝食も安らかでなく、医薬・祈祷に効なく、十二月五日乙丑に東武芝の邸で死去したことを述べる。書き手は曾孫源朝臣重豪と称し、幼く孤弱であった自身を親しく養育した恩を、須弥山や滄海にも比べる。十二月二十日庚辰に使者を立て霊柩を本藩福昌寺への帰葬に向かわせたが、自身は東都にあって親しく臨むことができず、深く悲しんでいるという。安永二年癸巳二月二十四日癸未の夜、仏教の儀式によって玉龍山中に葬ろうとするに当たり、族臣貴儔を遣わし、供物を備えて祭を行わせると記す。続く韻文では幽閑・貞静、松柏の節や玉の清らかさ、淫靡な音楽を避け関雎の詩を慕う徳、文質の調和、広く人々に及ぶ恩恵を讃える。さらに北辰や南針を失う譬えで喪失を表し、孤弱な身を撫育された記憶と、東西に隔てられて霊柩に従えない悲しみを詠む。韻文には「我在東魯」とも記すが、「東魯」の具体的比定は不詳である。海を渡る旅を思い、涙と香煙の中で仏教の法輪と宝界への道を祈り、茶や供物を奉じ、礼の節度を超える哀情と誠を述べる。「鳴呼哀哉」「尚饗」で結ぶ。

登場人物
曾孫源朝臣重豪(祭文の自称)、浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼、族臣貴儔
宛先
浄岸院の霊への祭文(通常の宛書なし)
キーワード
帰葬、養育の恩、代祭、徳への讃辞、仏教葬祭と哀悼
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w3:66系図旧記雑録拾遺暫定版確認度 高

古加治木家系図

入来家士・東郷善兵衛所蔵の古加治木家系図。藤原鎌足後胤とする忠平から実頼・頼忠へ遡り、一条院寛弘三年に経遠・顕経・経平の三人がそれぞれ肥後国菊池、駿河国池上、大隅国加治木郷へ配流されたとの由緒を記す。加治木へ来た経平は、男子のなかった本領主大蔵良長の後家方に迎えられ、その娘と婚姻し、春日大明神を氏社として奉斎したとする。後裔は親平の代に藤原氏から大蔵氏へ改め、加治木郷・木田村・吉原村・小山田村・満家院郡山村・薩州日置庄などの所領、加治木別府地頭職・大隅国検非違所惣官職、寺院別当職等の譲与・安堵を重ねる。系図は各代の官途・童名・法名・道号、婚姻・養子、分流、討死・病没、知行相伝を詳細に掲げ、帖佐院・鹿児島・肝付郡・牛屎などへの展開も記す。後代には氏平が大蔵氏を改めて藤原氏に復したとし、満久を島津豊後守季久の三男で実平の養子とする。十三代大和守久平は明応四年七月二日に忠昌公に反し、翌年二月の落城後に阿多へ移ったと記し、忠光・久恒らの系線と久恒による川辺宝福寺への田地寄進で終わる。

登場人物
藤原忠平、藤原実頼、藤原頼忠、経遠、顕経、経平、大蔵良長、頼平、経頼、頼長、頼光、資光、資平、資頼、親平、信平、顕平、家平、久平、尭光、守光、光平、朝平、長光、資守、光茂、光実、光仙、祐光、季平、全平、忠平、長慶、益平、近平、長順、良幸、信平、玄幸、道平、清平、伊平、守平、十平、経秀、澄平、師平、親長、憲平、良平、種平、実平、盛平、武平、俊平、有平、保平、豊平、唯平、寛平、吉平、貞平、安平、清平、珠順、隆平、怡平、法平、用平、為平、氏平、致平、久平、政平、藤平、富平、仲平、里平、元平、明平、忠平、頼平、満久、久恒、島津季久、島津忠国、島津忠昌
宛先
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キーワード
古加治木家系図、入来家士、東郷善兵衛、藤原鎌足後胤、藤原忠平、経遠、顕経、経平、寛弘三年、配流、肥後国菊池、駿河国池上、大隅国加治木郷、大蔵良長、婚姻、春日大明神、氏社、大蔵氏、藤原氏復姓、加治木別府地頭職、大隅国検非違所惣官職、木田村、吉原村、小山田村、満家院郡山村、日置庄、知行譲与、安堵、寺院別当職、官途、童名、法名、道号、討死、養子、島津季久、十三代久平、明応四年、忠昌公、落城、阿多移住、川辺宝福寺、田地寄進
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w1:290銘文旧記雑録拾遺暫定版確認度 高

善哉坊勝福寺鐘銘

日向国諸県庄の勝福寺に関する鐘銘で、寛喜三年五月、願主比丘僧晋豪によることを記す。伊東氏の時代には祐光寺と称したとの注記や、高城・高岡郷士富満大右衛門方に伝来した旨を付記する。

登場人物
願主比丘僧晋豪、富満大右衛門
宛先
—
キーワード
善哉坊勝福寺鐘銘、勝福寺、祐光寺、日向国諸県庄、願主、比丘僧、晋豪、高城、高岡、富満大右衛門、鐘銘、寛喜三年
追録6-No.964記事旧記雑録暫定版確認度 中

浄岸院逝去・遺骸帰葬の記事

同年十一月、浄岸院が痰症を患い、河野仙寿院・森雲禎・武田長春院・吉田秀庵・井上良泉・橘隆庵・浅井休伯・武田宗安・坂幽玄らが交替で診療し薬を施したが、日々悪くなったと記す。同月二十七日に老中へ知らせたため、大家はたびたび病状を尋ね、贈物を与えた。十二月五日、芝の邸の正寝で逝去し、年六十八、浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼と諡した。本州玉龍山福昌寺へ遺骸を戻して葬ることを願い、同月九日に老中松平右京大夫輝高を通じて申し出た。大家から銀二百枚、大納言家基から銀二十枚を賜り、輝高がその取次を務め、同日に秋月山城種茂が重豪に代わって老中の邸へ謝礼に赴いた。二十日の明け方、霊柩が芝の邸を発して薩府へ向かい、大家は留守居番織田圖書信方を遣わして送らせた。家老島津左中久金、側用人西恰之介純房、近習役薬丸猪右衛門兼風、留守居有川勇馬貞厚、芝の大圓寺の貞順和尚、相州鎌倉永明寺の越州和尚が随行したという。

登場人物
浄岸院、河野仙寿院、森雲禎、武田長春院、吉田秀庵、井上良泉、橘隆庵、浅井休伯、武田宗安、坂幽玄、大家、大納言家基、松平右京大夫輝高、秋月山城種茂、重豪、織田圖書信方(留守居番)、島津左中久金(家老)、西恰之介純房(側用人・原表記)、薬丸猪右衛門兼風(近習役)、有川勇馬貞厚(留守居)、貞順和尚、越州和尚
宛先
—
キーワード
浄岸院十一月痰症九医師交替診療、二十七日老中通知大家病状尋・贈物、十二月五日芝邸正寝逝去年六十八・戒名、玉龍山福昌寺帰葬願九日輝高取次、大家銀二百枚家基二十枚賜、秋月種茂代礼謝、二十日昧爽霊柩芝邸発薩府へ、織田信方送行・家老側用人近習留守居二和尚随行
追録6-No.976-8書上旧記雑録暫定版確認度 高

浄岸院の生前・逝去後の血脈法号と授与の事情

浄岸院の血脈法号を、生前と逝去後に分けて記した書出。生前の法号は「浄岸院殿信譽祐光大姉」で、祐天大僧正から差し上げられた血脈法号と注記する。逝去後の法号は「浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼」で、増上寺の当住大僧正から差し上げられた血脈法号と注記する。最初は祐天から授与された血脈で済ませるはずであったが、増上寺が使僧を通じ、法式について当住から差し上げなければ法式が欠けると伝えたため、改めて差し出されたという。既存の血脈で足りるとの考えと、当住からの授与を必要とする寺側の法式を併記する。

登場人物
浄岸院(竹姫)、祐天大僧正、増上寺当住大僧正、増上寺使僧
宛先
独立宛書なし
キーワード
血脈法号、生前と逝去後、増上寺の法式
追録6-No.976-14系譜旧記雑録暫定版確認度 中

浄岸院の出生・養姫・婚姻と逝去・薩州への葬送履歴

浄岸院の出生から養姫・婚姻、家族の事蹟、逝去と葬送をまとめた履歴。宝永二年乙酉二月十九日、京都で千代姫として生まれ、実父は清閑寺前大納言熙定、母は「家之女房」で後に玉勝院と称した。四歳で江府へ下り、宝永五年戊子七月二十五日、御台の願いによって常憲院の養姫となり竹姫と称する。享保十四年己酉六月四日に継豊との縁組が命じられ、同年十二月十一日に婚姻が整った。嫡子盆之助を独子とし、享保十八年癸丑五月朔日に女子菊姫が出生、宝暦五年乙亥十二月七日に筑前国主の嫡松平修理大夫重政へ嫁いだと記す。続いて宝暦十一年辛巳十二月四日の女子屋世姫出生と、十一歳の明和八年辛卯八月十日の早世を記すが、この女子の母は明示しない。重政が宝暦十二年壬午七月十四日に死去した後、菊姫は髪を卸して真含院と称し、継豊が宝暦十年庚辰九月十日に死去した後、竹姫は髪を卸して浄岸院と称した。六十八歳の安永元年壬辰十二月五日辰刻、芝の御守殿で逝去し、法号を浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼とする。同月二十日卯上刻に御守殿から出棺し、薩州福昌寺へ送葬する。供は家老島津左中、側用人西恰之助、近習役薬丸猪右衛門、留守居有川勇馬、使番大野清大夫、御守殿添用達川上頼兵衛、中通目付伊東三左衛門、表目付平田主右衛門ほか、鎖口添番・医師・馬廻・新番・歩行の者が段々に命じられた。公儀の留守居番織田図書も国元まで遣わされるよう命じられたと結ぶ。

登場人物
浄岸院(千代姫・竹姫)、清閑寺熙定、玉勝院、常憲院、御台、島津継豊、盆之助(恭徳院注)、菊姫(真含院)、松平修理大夫重政(黒田注)、屋世姫、島津左中、西恰之助、薬丸猪右衛門、有川勇馬、大野清大夫、川上頼兵衛、伊東三左衛門、平田主右衛門、織田図書
宛先
履歴記事のため独立宛書なし
キーワード
出生・養姫・婚姻履歴、女子の事蹟、剃髪、逝去、葬送と供役
追録6-No.2495記事旧記雑録暫定版確認度 高

家斉による加冠と斉宣への改名・叙任および拝領品と謝礼を記す

天明六年十二月六日付の老中奉書を受け、翌七日、稲葉能登守弘通が父重豪の名代として忠堯に伴い登城した。注記によれば忠堯は熨斗目・長袴を着用し、実年齢十五歳であった。黒書院で家斉が手ずから加冠し、一字を与えられて斉宣と改名、豊後守に任じられ松平豊後守と称した。次間では列座する老中が台命を伝え、従四位下・侍従への叙任と盃・肴の拝領があり、さらに宝刀一腰を賜った。斉宣は太刀一腰・刀一腰(備前祐光)・縮緬十巻・白銀三十枚・馬一匹を家斉へ献じて謝礼とし、弘通も重豪の名代として太刀一腰・綿三十把・馬代黄金一枚を献じた。謝礼の儀式を終えて桜田邸に入り着替え、大老・老中の各邸を訪ねて関与への謝意を述べ、その後帰邸した。

登場人物
島津斉宣(忠堯)、徳川家斉、島津重豪、稲葉弘通(能登守)、大老、老中
宛先
記事につき宛所なし
キーワード
島津斉宣、忠堯、元服、加冠、家斉、豊後守、従四位下、侍従、拝領品、謝礼
追録6-No.2498記事旧記雑録暫定版確認度 高

斉宣の加冠・叙任と白書院・黒書院での礼席および初登城を記す

十二月七日、家斉が世子を黒書院に召して自ら加冠し、一字を与えて斉宣と名付け、薩摩守と称し、従四位下侍従に叙任したと記す。また家斉から宝刀一腰が与えられ、世子は太刀一腰・刀一腰(備前祐光)・縮緬十巻・白銀三十枚・馬一足を献じて恩に謝したとする。十三日には松平周防守康福を通じ、朝謁や五節句の礼は白書院、月次の礼は黒書院で諸侯の次第に従って行い、朔望の登城時の休息所を大廊下とする旨が伝えられた。十五日、初めて登城し、命じられたとおり礼を行ったと記す。

登場人物
島津斉宣、徳川家斉、松平康福(周防守)
宛先
記事につき宛所なし
キーワード
島津斉宣、加冠、従四位下、侍従、薩摩守、白書院、黒書院、大廊下、五節句、謝礼