肝付省釣兼続証状
永禄六年八月廿五日 / 冊子 125~126頁
肝付省釣兼続が安楽因幡守の望みにより、野柄・合爪・中救仁・樋下・薗草・橋崎などの田地と堀町・小原の屋敷を含む所領を、従前の扶持分として認めた証状。
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永禄六年八月廿五日 / 冊子 125~126頁
肝付省釣兼続が安楽因幡守の望みにより、野柄・合爪・中救仁・樋下・薗草・橋崎などの田地と堀町・小原の屋敷を含む所領を、従前の扶持分として認めた証状。
「天文十七年」三月十日 / 冊子 851頁
肝付兼続が島津日新に、久しく音信がなかったことを詫び、家中の安定と今後の取り計らいを願った書状。
年月日未詳 / 冊子 308頁
諸国の大名・小名が島津義久へ出仕するなか、伊地知重興と肝付省釣は伊東氏・相良氏と結んで敵対したと述べる。伊東方も天罰を受けながら、島津義弘の居城飯野を後方に置き、加久藤城を攻めようとした経緯を記す短い導入記事。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 310頁
肝付省釣の子を三郎兼包とし、省釣が島津貴久の姉婿であったとの伝承を記す。肝付三郎が伊東氏と縁組して百余艘を集め、鹿児島海上から春日口を射撃し、桜島・脇元・瀧水を攻めて瀧水で合戦になったことを簡潔に述べる。
(天正元年九月廿七日) / 冊子 319頁
伊地知重興・肝付省釣方との戦いで、島津軍が早崎野から敵兵を城へ追い込み、城地頭伊地知美作守が逃亡したため城を攻め取ったことを記す。大将は島津家久であったとする。
年月日未詳 / 冊子 11~12頁
天文二十四年三月以降の帖佐別府川・平松・山田・高尾などの戦闘を記す。島津方諸勢の出陣、敵兵の討取りと味方の戦死、帖佐・新城・山田の確保、北郷・根占・肝付勢の来援をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 12~13頁
三月二日の帖佐別府川合戦、同八日の加治木・溝辺・日当山・長濱勢の山田出陣などを回想する。島津忠辰らの奮戦、敵味方の討死、帖佐方面への追撃、北郷・根占・肝付勢の来援を記す。
年月日未詳 / 冊子 90頁
永禄四年、日向本城方面の戦況に続き、肝付兼続が五月に廻城を奪い、島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。肝付方は救援を求め、伊東方も本城・酒谷間の鎌ケ倉に陣を置いた。
年月日未詳 / 冊子 92~93頁
肝付兼続が廻城を奪ったため島津方が三か所に陣を置き、伊東方が本城・酒谷間の鎌ケ倉から肝付を支援した経過を記す。竹原山・馬立の陣が破られ忠将以下七十人が討たれたとの注進を受け、日向方面でも対応を協議した。
年月日未詳 / 冊子 93~94頁
島津方が廻城を包囲すると、肝付方は六千余騎を集め竹原山・馬立の陣を攻撃し、島津忠将以下を討ち取った。兼続は忠将との旧交を思って涙し、島津方は一時和睦して撤陣し、飫肥の義弘も貴久・忠親の意向により帰国した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 95~97頁
島津方が大牟礼・馬立・竹原山から廻城を包囲し、降伏をめぐる評議ののち、七月十二日に肝付勢の攻撃を受けた経過を詳述する。竹原山・馬立で忠将以下が戦死した一方、大寺大炊助・瀧聞美作守・梅北刑部左衛門らが奮戦し、敵を恒吉方面へ退けた。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。
天明7年正月吉祥日 / 冊子 113頁/原整理番号 22-2
肝付氏嫡流古系図の巻頭を掲げて当流の出自伝承を説明する、天明七年正月吉祥日付の源盛富段書。河内守兼続入道省釣の致仕後、豊前守兼隆の弟・治右衛門尉兼清を鼻祖とする伝承を示す。ただし古系図には兼隆・兼清を確認できず、年代が隔たり徴すべき文献もないため系線を接続できないと判断し、兼清を肇祖として後代の再撰の助けとなるよう、見聞に基づき世系を訂考した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 116頁/原整理番号 22-4
肝付氏系図に付属する神名・法名の書上。書付のある掛物を盆に一度掛けて妙鏡禅定尼らを祭ったとの伝承を冒頭に記し、日窓禅定尼、節宗正忠大姉、如山宗意上坐、才安泰俊大禅定門、月浦省釣法印、昌山久公大禅定門、竹雲常林禅定門、玉室妙金大姉など一族・関係者の法名を列挙する。霜月十五日、四月十八日、八月十日・十八日などの忌日を添え、六親眷属・七世父母、各覚霊、三界万霊・十方至聖までを供養対象として掲げる。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:天正元年癸酉之春 / 冊子 197頁/整理ID TMP-P02-CONT-A69
冒頭の「子」が伊東大脇大夫義祐・肝付河内守兼續入道省釣・伊地知周防介重興等に與同し、大守に背くとの叙述を置く。「子」の実名帰属は未確定。 天正元年春、島津義久が昌信を祢寢へ遣わし、重長に離一揆・島津旗下への帰属を伝えたとする。 留滞中の密談を記し、さらに新納忠元・伊集院久治・上原尚近の再遣、和諧と誓約に言及する。密談句の主体・意味は留保する。 肝付氏の党を離れ島津旗下に属する旨の誓約と、密事に関する八人使衆の誓紙を「記左」と導入する。
記三一一宝永七年閾八月八日 / 冊子 321~322頁/原整理番号 32
肝付八郎右衛門が御番免除の願いに添えた家筋の書物の抜書。先祖が肝付郡を領したことから歴代の相続・奉公をたどり、島津家との関係や一族の格式を述べる。宝永七年閏八月八日付の記録。
年月日未詳 / 冊子 382頁/原整理番号 99
肝付方に属していた祢寝重長の降参について記す。肝付方との戦いが厳しくなった時、寶持院へ遣わした八木昌信を通じて重長へ密かに和睦を勧め、忠元・伊集院久治・上原常尚らも面談した。十一日に三人が誓紙を渡し、十六日に貴明の判物と家老らの誓文を遣わすと、翌三月に重長が降参した。十日には征久・忠長の大軍を祢寝城へ出して肝付方と戦い、所領を得た。忠元らの当初からの功労を記す。
年月日未詳 / 冊子 389~390頁/原整理番号 111
天正二年の牛根城攻略と肝付方の和睦を記す勲功記。安樂兼寛の守る牛根城を攻める際、忠元は逆瀬川らに岸を掘って道を通すよう指示し、幼い忠堯を城へ入れて兼寛の弟兼貫を人質として得た。十二日に城内へ入り四百三十余人を討ち、牛根領の獲得を忠元の功績とする。肝付方の当主らが没して勢力が弱まる中、忠元は兼純との親族関係や其阿上人を通じて和睦を勧め、二月に下城と五ヶ所を譲らせた。市成・廻・福山・恒吉の取得、先功の賞賛、愛岩建立と六月十四日の例祭も伝える。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 383~384頁/原整理番号 102
続花押藪の記載として、元亀四年二月二十一日の八人連署と花押を掲げる。祢寝重長が肝付省釣の党を離れて島津側へ降参した際の誓紙関係文書として位置づけ、全文の写しを求めている。伊集院忠金が見えず写し落ちかと注記し、太田と本田、市木と市来の表記や、盛親・清通・家諸らの出自を考証するが、河野子孫のことは承知していないという。
年月日未詳 / 冊子 154頁/原整理番号 495
肝付氏関係者とみられる法名・戒名の書上。阿仏禅定門、峻山妙大姉、翁兼忠居士、大僧都省釣法印、蘭溪芳和尚、狐雲芳清居士などを列記する。居士・大姉・禅定門・上坐・法印・和尚等の称号を含むが、俗名との対応や作成年月日は記されない。